インド洋カジキフライの育った街 | UWC ISAK 生活日記

UWC ISAK 生活日記

UWC ISAK Japanの生徒による非公式ブログです。
「一度しかない人生。自分の個性を生かして思い切り生き、自らの立つ場所から世界を変える。(UWC ISAK Japan Webより)」

みなさんこんにちは!インド洋カジキフライです。今回は私のインドネシアと日本のハーフ人としてのバックグラウンドの背景を紹介したいです。

 

私の親はこんな人たちです。私の母は普通の日本人ですが、外国にとても興味がありました。私の父は中国系インドネシア人です。母は小学6年生でイギリスへの短期留学の機会をゲット。それを皮切りに海外への興味が爆発、オーストラリア、韓国などへの国際交流派遣事業に応募しまくって世界を見て回り、ついには高校2年生に進級する春休み、貯まった奨学金で格安航空券を購入、1人でインドネシアのバリ島に旅立ってしまったのです。バブルでウキウキの日本人に対してヨーロッパではジャパンバッシングを体験するも、親日ウェルカムのインドネシアの居心地の良さにうっとり。大学ではインドネシア語学科に進学、東京のインドネシア大使館の皆様との交流を機にインドネシアへの国費留学が決まります。しかし時は1999年、1998年のアジア通貨危機のゴタゴタの直後でした。ジャカルタなどの大都市では経済的に成功するマイノリティの華人へのバッシングがありました。その影響を恐れて、大使館の人と相談した結果、比較的混乱が少なかった西スマトラのパダンという地方都市に行くことになってしまったそうです。

 

 

 

 

パダンはインドネシアの西スマトラ州にある、インド洋に面して南北に広がっている街です。海沿いにはココナツの木が何本も立っていて、街の奥に行くと住民は生き生きしていて、街のメイン市場では、交渉している人々の元気な声が飛び交います。大きいビルは珍しく、道路には大量のバイクとベンディ(公共の交通機関としての馬車)をよく見かけます。そのパダンという街で生まれ育ったのが私の父。

 

彼は華人4世で、祖父が一代で築き上げた建築材や電動工具などを商う家に生まれて、当時は親を助けて親の店で働いていました。二人が知り合ってから6年が経ち、2人は結婚、私が生まれました。

 

私が生まれた国は日本ですが、父親は日本語が話せないので、仕事はインドネシアでしかできない。よって私たち家族はパダンに住み近くに日本人学校もインターナショナルスクールもないものだから、私と弟は現地のインドネシアの幼稚園〜小学校、私は現地中学校まで通いました。

 

母はインドネシア語が堪能でしたが、日本人として私たちを育てたかった母は、私たちに日本語しか教えませんでした。さてさて、地元の学校ではどうなったことでしょう。続きは次回に続く。(シュッ)

 

 

 

インド洋カジキフライ