つらい事が多いのは、
感謝を知らないから。

苦しい事が多いのは、
自分に甘えがあるから。

悲しい事が多いのは、
自分のことしかわからないから。

心配する事が多いのは、
いまを懸命に生きていないから。





さもオリジナルのようにつぶやいている人も多いが、
石川 洋 氏の名言。  メモまで。

心理学の問題のひとつに、リンダ問題というのがある。


(質問)
リンダは31歳、独身で、意見を率直に言い、また非常に聡明です。
彼女は哲学を専攻していました。学生時代、彼女は差別や社会正義
の問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加していました。
彼女についてもっともありそうな選択肢をチェックしてください。

(選択肢)
1.リンダは銀行の出納係である。
2.リンダは銀行の出納係であり、フェミニスト運動の活動家である。


回答者はリンダの性格や学生時代の行動についての記述に惑わされて、
より詳細な記述をしている選択肢2を選んでしまう。

この質問を用いた調査結果から、
「示されている出来事が詳細であればあるほど、人間の感覚が
 論理的な確率に基く判断から離れていくこと」が発見された。

シナリオの詳細部分が増えていけば、その確率は減少していくだけ
なのだが、その代表性とありそうな見込みは増大するのかもしれない

「確率」の観点(元の質問では「もっともありそうな」という聞き方)
からは、「銀行の出納係であり、かつ、フェミニスト運動の活動家」
である確率が「銀行の出納係」である確率を超えることはありえない。
これがこの問題の味噌である。
仮にリンダが選択肢2に合致する場合に選択肢1をチェックしても
間違いにはならない。

heuristicという単語がある。
辞書には_a. 学習を助ける, 関心を高める; (生徒に)自分で発見させる,
発見的な, 実践的な;
【電算・数など】 発見的な, 帰納的な.・the ~ method 《自分で発見する》
発見的方法._n. [U~s] 発見的教授法(研究); 学習者の自得を助ける
論法.-とある。
Wikipediaには「必ず正しい答えが導けるわけではないが、ある程度の
レベルで正解に近い解を得ることが出来る方法。答えの精度は保障され
ないが、回答に至るまでの時間が少なくてすむ」とある。

日々の暮らしの中で正解や最適解に至るアルゴリズムが示されないことは多い。
情報不足で全体像もわからぬままに何かを選択したり決定したりする。

選択肢の中に詳細なものが含まれていれば優れていると感じる。
特に、政治やマーケティング、人間関係の領域では、勝手に踊ったり、
踊らされていると感じることがある。


実際こんな状況も無理はなく、自分が説得する立場なら親切に情報を与えたいし、
またこれが問題なのだが、
「半分表記しておいて半分は半分表記せず覚えておき、
必要なときに補足説明するだけの労力と能力がない」。


しかし、上司と部下でもない関係で何かを説得される場合に、

・上から目線でこれしかない方法をおしつけられるのか、

・はじめて出会った子ども同士が砂場で一緒に何かを
作っていくときのワイガヤみたいな雰囲気で何かを
無意識に納得ずくですすめるのか


どっちがスムーズかというと後者なのは間違いない。

むずかしっ。








「自分は、自分でいうのもなんだが
 頭は悪いほうではなく、
 将棋も強く、よみもさえるが、

 こと、仕事の局面では、
 これっぽっちも読みがさえたことがない」


とぼやく友人がいた。

自分も将棋は好きで似た心境になることはある。



たまたま知ったのだが、将棋とは、

二人零和有限確定完全情報ゲーム

という種類なのだそうだ。



言葉を区切れば、

二人・零和・有限・確定・完全情報・ゲーム

なのだという。それぞれ、以下のような意味を持っている



「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という言葉は以下のように分解できる。

■二人
ゲームを行うプレーヤーが二人のゲーム。

これは、誰にとって不利な行動をとる事が、自分にとって最も有利な行動となるのかという、自分の直接の利害以外の要素を考える必要がない部分が、「仕事」とは異なる、のかも。

■零和
ゲーム上、プレーしている全プレーヤーの利得(or状況)の合計が常にゼロ、または個々のプレーヤーの指す手の組み合わせに対する利得の合計が全て一定の数値(零和)となるゲーム。利得とはプレーヤーがゲーム終了時(あるいはターンの終了時)に獲得する状況に対する評価である。

いわば「仕事」は零和でないゲームのため、囚人のジレンマのように均衡点が最適点でなかったり、チキンゲームのように最適点が相手の行動に依存するものがあったりと複雑なの、かも。

■有限
そのゲームにおける各プレーヤーの可能な手の組み合わせの総数が有限であるゲーム。一般に各種ボードゲームやカードゲームはゲームの途中の状態が理論上有限であるため、ある状態から別の状態に変わり、そこからまた元の状態に戻るといった反復が無限に繰り返されない限り有限のゲームとなる。

有限でないゲーム「仕事」は1つ1つの手の組み合わせを探索しきれず、完全な先読みができない。

■確定
プレーヤーの着手以外にゲームに影響を与える偶然の要素が入り込まないという意味。

ポーカーなどのカードゲームの一部や麻雀のように、ランダムに積み上げられた山から何かを引くようなゲーム、あるいはバックギャモンなどのサイコロでランダムにコマを進める双六系のゲームは、不確定ゲームに分類される。人生ゲームもルーレットで確率要素が介在するので不確定ゲームである。「仕事」はいわずもがな。


■完全情報
各プレイヤーが自分の手番において、これまでの各プレイヤーの行った選択(あるいは意思決定)について全ての情報を知ることができる(完全情報)ゲーム。

じゃんけんのように各プレーヤーの手が同時に指されるゲームでは、自分の手を決定する際に、相手の手を見てから選択することができない。

完全情報ゲームでは、ゲーム終了時の状況から、その状態となる一つ前の状態を考えることができ、そこからさらに1つ前の状態を、さらに1つ前と考えることにより、ゲーム上有利な状況を探り、あるいは不利な状態を避けることができるが、不完全情報ゲームではその状態の1つ前の他のプレーヤーの状態がわからないためこのような推論を行うことができない。

「仕事」のベストプラクティスがつくりにくいワケだ…




…親友殿、

つまり、こういうことなのだね。
「自分を思い上がらず、自分を卑下しすぎず」

なんて言葉、聞いたりしませんか。


でもそのままじゃぁまだ言葉足らず。


現在を含む過去



未来


は、全く別のテーマとして考えないと。



過去の栄光にすがってみたり…

全てを不可抗力だった過去のせいにして
現在の自分の言い訳にしてみたり…

何の努力もしないまま、
ちょっと本気を出せば
いつでも逆転できると自他をごまかしてみたり…

おきてもいない未来の不安に
杞憂し絶望してみたり…



おもしろい思考のバイアスだね。

月1回アップの実行がきわどく、
まるで夏休みの宿題のような更新だけれども。



どこかできいたが、座右の銘にもよくされている名文。


====

『 女の一生 』

二十代は 美しく

三十代は 強く

四十代は 賢く

五十代は 豊かに

六十代は 健康に

七十代は しなやかに

八十代は つややかに

九十代は 愛らしく

 そして いぶし銀のように

     美しい 百歳へ・・・・・



『 男の一生 』   
             
二十代は 志を高く

三十代は 仕事に燃え

四十代は 功を焦らず

五十代は 寛容をくいて

六十代は 引き際よく

七十代は 時を遊び

八十代は 自由を楽しみ

九十代は、悠々自適に
 
そして
   いぶし銀のように
     幽玄の境地の百歳へ・・・・・・・・

======
いやいやありがたい。
これって、目指すべき境地ともいえるし、
一方、そのころに生じる課題一覧ともいえる。
山道の「熊出没 注意」みたいなもんだ。

だって

『 女の一生 』

二十代は 大半が
    ミス顔の美人ではないことを
    受け入れられず憂い

三十代は 自分なりに獲得した
     自分のキャラ=魅せ方も
変更を余儀なくさせられ焦り

四十代は 忙殺される日常の中で、
さも
自分は深い洞察にもとづいているか
のような理想的説教を
     高慢な男から垂れられ

五十代は 大抵
子どもの成長や親の面倒で困窮し始め

六十代は 閉経後だ更年期だ、と
健康リスクばかりに苛まれ

七十代は ここまでを
強くたくましくいきぬくために、
心身ともにこわばってしまい

八十代は もはや
平均寿命を超えるにおよんでは
老醜をさらしがちになり

九十代は ここまでを
家族に囲まれ、
負担をかけず
豊かにくらせているケースは
極まれで、

 そして これ以上いきぬくなら、
     諦観等というおとなしさではなく
     ギンギラギンの欲得でささえるしかない

 ・・・・・ から気をつけな? のような
       アドバイスが透かし彫りにならないか。


『 男の一生 』   
             
二十代は 原因を環境のせいにして、
     悪友にまみれて(はたまたひきこもりで)
     日々を刹那的享楽で過ごし

三十代は 自助努力だけではどうにもならないと
勝手に達観したように
     手を抜くことを覚え

四十代は 先が見え始め、なにかとものいりなのに
     実入りがたらないとあせり

五十代は 寛容をくいて
     これ、原文の解釈がわかれるけど

     ・本質のために妥協はしない
 なら

      現実的ななぁなぁをまず第一義としがち


     ・こころからの慈愛を持ってゆるす
 なら

       怨念と怨恨に陥りがち

六十代は ここまでを無事にたどりついた現状を
何とか維持しようとすることに
固執しがち

七十代は 時の楽しみ方を知らずに
     呆然と無為に過ごし


八十代は 自由を楽しみ
九十代は、悠々自適に
    これ、ほぼ同義。
実はあんまり母集団がない(もう死んでる)。          


・・・・・ から気をつけな? みたいな、これも。




それにしても、

美、正、快、あるいは「理想」は、
シンプルに言い切れる

(または言い切った体を装っている)けど、



現実は、醜くて、悪にまみれて、
不快で、深くて、複雑なもの
だとよくわかる。




でも、その

醜くて 複雑な現実のコク、だか、アクだかは、


マシュマロのように手応えのない

ひ弱な美しいファンタジー

とかよりは、


よほどガツンと、五臓六腑に染み渡るね。




同名の本をよんでいるが、

新たな知見はもちろんあるのだが、

そのうちデータ的なところだけメモメモ。






よく昔は「食べるものがなかった」といわれるが、

実際に配給可能量のカロリーの変遷をみればよくわかる。

初期は1日1700Kcal前後だが、やがて580Kcal位までおちる。


全国民が、基本的に1日にかきあげそば一杯だけという

日々が1年中続くのである。

これは子どもをかかえた親ならば闇市だろうがなんだろうが、

必死に食料調達に奔走したのは想像に難くない。

これが、特定の世代に「何か美味いものでも食べて」

が重要なフレーズになる原因かと納得。



もうひとつは映画業界。

1950~60年代の映画業界の成長と影響、労働基盤は、

ちょうど今日のIT業界(そう、アメーバみたいなね)

に相当していたんだなと理解。



今からカミさんと選挙でせかされてるから、今回はここまで!!















管理職のジレンマかなんかで
聞いたことあるかもしれないけれど、

一般に、管理職は基本的に職能不足なのだと。

なぜなら、きょうび余剰人材をかかえていられる企業は少なく、
どこも人材は不足気味。もしも職能が足りている場合は、
基本的にその人の限界まで昇進してしまう。

昇進した先で、またそのレベルでの職能不足にさいなまれることになる。


そんなわけで、きょうも職能不足な中間管理職は、
いわゆる上下からの板ばさみに汲汲とし、あまりの
是非のなさに飲む打つ買うのいずれかにみをやつすか、
またはそれもできずにプライドの縮小再生産を繰り返す。


それはそんなダメおやじ(職能不足な中間管理職)のせいなのか?
状況がそうさせている部分も少なからずはないか?


計画的な動機発揚や自己研鑽ももちろん重要だが、
だからといって「それを怠っているから駄目なんだ」
と決め付けるのは早計ではないだろうか。


客観的にみた「判断や知識に関する職能不足」
という状況に加えて、
そのダメおやじが以下のような要件を備えている場合に、
必要以上な上下とのコンフリクトが生じている気がする。


・自分の意見を持たない
・冗談だけで話がすすまない(明るいのは重要だが…)
・自信なさげ
・真摯に人の話を受け止めない
・反抗しない
・人との関係が希薄

ま、上記も含めた人間力が職能、といわれれば…

はい、それま~で~よ~♪
以下は誰かのアドバイスだが、

下記は随分簡潔にそぎおとされていて、
それでいて豊かな表現を含んでいる文章だと思った。

さぞやお仕事もおできになる方なのかと
おみうけした。


・上司のお誘いをやんわり断る方法
親しみやすいから誘われるパターンも否めませんが、私の経験上、
異性の上司からの誘いは「自分にも隙がある」ことが多いようです。
ご機嫌をとったり、話を適当に合わせるような普段からの地に足の
着かないビジネススタイルは避けた方がかしこいと思います。
同僚にはプライベートの自分はあまり見せないほうがビジネス上、
ほどよい緊張感を持って取り組めると思います。下心アリの人脈は
長続きしません。誘われたらどう断るかですが、凛とした普段の姿
を身に着ければ自ずとうまいこと断れるのではないでしょうか。
同性の上司であれば、ちょっと断りづらいかもしれませんが、
下手に言い訳をつけてごちゃごちゃ言うより、「すみません」を
前面に出し、理由を聞かれても「すみません、また今度」程度で
よいのではないでしょうか?媚を売る必要はないと思います。
盃を交わさずとも実力をつけて出世する覚悟で仕事をしましょう。
よく、まじめ、の度をこしたくそまじめとか、
おもしろくないやつ、ドヤ顔で忙しさ自慢、
してるやつとかいるよね。

自分に絶対の真実があるかとおもっているような、
強迫的に几帳面なやつ。

自分の信念じゃなくて、道徳や生活習慣の
教科書から獲得した態度だから、
「人に文句を言われないための態度」
だから、絶対の自信を持っている。


この強迫性性格そのものは、実は現代の社会に非常に適応のよい
性格のひとつなことはいえるとたしかに思う。
しかし、ここに一つ、落とし穴がある。


それは、
人間の行動のなかには一部、
「その方向を追求していくとエンドレスになってしまう」
という、罠のような構造をもったものがあるということ。


たとえば、食欲などは人の胃袋に一定の限界があるから、
どこかで「ここまでで十分」という限界が絶対やってくる。

んだども、所有欲、とか、完全主義、てぇのになると、
エンドレスになってしまう危険性に、
少しは身に覚えがないかい?。


しょせん人間には一〇〇点満点などということはありえない。

どんなにいろいろな場面をシミュレーションして、あらゆる事態に
万全に備えたつもりになっても、想像しようと思えば、起こりうる
事態をいくらでも想像することができてしまう。

たとえば服装一つにしても、「ネクタイがほんの少し右に曲がっている」
「髪の毛がちょっと乱れている」などいくらでも凝ってしまえる。

強迫性の持つ問題は、なにかの完全性を追求することに終わりが
なくなり、ほかのことに取り組む余地が減ってしまうという
バランスの喪失にある。

ある特定の価値のみを果てしなく追及していくと、それが結果的に
マイナスの作用を及ぼすという「ネガティブな反作用」という現象
がある。

「徹底的に健康を増進しよう」と過剰なフィットネス通いやジョギング
をすれば、逆に関節をいためたりスポーツ事故にあったりするように。

「完全の追求」ということも、過剰に追求していけば、必ず、
「当初の目的であった『アウトプットの向上』ということとは
逆の効果になってしまう」という反作用が生じる。

「きれいなプレゼンテーションをつくろう」と凝りすぎていると、
それに時間をとられてほかの時間がなくなる、とかね。
「チリ一つ落ちていないまでに部屋を掃除しよう」としていると、
逆に普通なら気にならないほどの小さな埃まで気になってしまう。



このように、度の過ぎた完全主義的追求というものは、
必ず効率低下を生んでしまうという逆説的な性格を持っている。


強迫性の普遍的な逆説として、追及すればするほど細かくなりすぎて、
「木を見て森を見ず」の結果になり、話のわかりやすさを損なってしまう
という問題が生じる。

強迫的なまわりくどさは、すべて細かいことに凝りすぎ、全体として
その話がなにを伝えようとしているのかをわかりにくくさせ、
「まわりくどい」という印象を相手に与えてしまう、というところに
本質がある。
ここぞというときにウケる話を持っていることは
強みになるが、簡単にできるものではない。
まずはウケない理由から考える。

■まずは話の組み立て。1分程度で起承転結で簡潔に収める。
登場人物の特徴や余計なディテールなど、枝葉の部分を語っていては
相手に飽きられる。

 ×「僕の友達の話なんですけど、すごいいいヤツで、
   昔は部活のキャプテンやっていて、映画に詳しくて……」

逆に、説明不足で話が短すぎても理解してもらえない。
相手に聞いてもらうためには、自分が伝えたいことを明確にして、
どの部分が重要か不要かを整理しておかなければいけない。


■2つめは、話の内容そのものが問題となる場合。
人のネガティブな話題で笑いを取ることは避ける。

もし失敗談で笑いを取りたいなら、自分の経験を語ったほうがいい。
ただし、それも天秤の片方の皿に笑いを、もう片方の皿にトークを
乗せたとき、笑いのほうに皿が傾くかどうかを常に気にしたい。

楽しい・面白いの感情より、悲しい・不快の感情が上回るような話は
避ける。自慢話や成功話がウケないのも同様の理由。
また明らかなウソも、聞き手に不信感を抱かせる。

■3つめは、話す際の自分の気持ちにある。
妙な自信の体で「すごく面白い話があるんだけど」と切り出すと、
相手の期待値が上がってウケなくなるし、笑いながら話すと聞き手の
テンションを下げてしまう。

だからといって話に自信がなければ、いい結果を招かない。
声がだんだん小さくなったり、オチの後に
「まあ、それだけの話なんですけど……」とつけたしたりしては、
面白くない感情が伝播してしまう。
いったん話を始めたら結果がどうなろうと、「この話は面白い! 」と
信じて最後まで喋りきるしかない。

■4つめは話の伝え方。
難しい表現や専門用語は避ける、もしくは用語の説明を入れる。
話に書き言葉を多用するのもやめる。
効果的なのは「擬態法」。「昨日徹夜で、フラッフラなんです」と言ったほうが、
相手も状況を思い浮かべやすい。

=========
では、笑いが起きるために必要な要素とは何か。

■1つは「緊張と緩和」である。

赤ちゃんに対する「いない、いない、ばあ~」等、緊張が緩和した瞬間、
笑いは発生する。芸人がよく使う「フリ」と「オチ」という言葉も、
「フリ」で状況や設定を紹介して、「オチ」によって状況や設定を裏切る、
緊張と緩和のメカニズムだ。トークでウケるのに「オチ」は重要であるが、
それを効果的に響かせるには「フリ」をしっかり構築しなければならない。


■2つめは「共感」である。

たとえば商談の際、引っかき傷の上に絆創膏を貼って、

 ○「彼女に浮気がバレて顔を引っかかれたんです」

という話をしたら、「そういうこともあるな」とちょっとした笑い話にも
なるだろう。しかし顔に包帯をぐるぐる巻いて、

 ×「彼女に浮気がバレて、バットで殴られたんですよ」

と語れば、相手はドン引きしてしまう。人はあまりに突拍子ない話を、
すぐに受け入れられないからだ。

芸人は奇抜なことを語ってウケているように見えるが、よく見ると7~8割が
「それはそうだな」「わかる、わかる」という共感を与える内容になっている。

共感を与えるのに有効な方法は、自分のキャラクターを押し出すこと。

ウケる話を大きく分けると、話者のキャラに関係なく面白い話と、
話者のキャラだからこそ面白い話がある。

前者はある程度のテクニックさえあれば、誰が言っても笑いになりやすい。
それに対して、後者は自分のキャラを武器にできる。

たとえば、太っている人が、

 ○「いやー、暑くて汗かいたから、ここにくるまで30キロ痩せちゃいましたよ」

 と言ったとする。こうしたキャラを活かした自虐ネタは、愛されやすい。

もしあなたが周りから「堅物で真面目だな」と思われているのであれば、
まずはそのキャラを徹底する。

 ○「提案資料をホチキスで留めてたんですが、何回やっても紙が揃わないんで
昼飯食いそびれちゃいました」

 と話せば、「真面目すぎんだよ、おまえは! 」と共感を呼び笑いが
起こりやすくなる。そしてその真面目さが周知されたら、今度は何かを
ふられても「それ、適当でいいです」と周囲の期待を裏切る。
そうすると「そこは真面目にやれよ! 」と新たにフリ・オチの笑いが生まれるのだ。

ただしキャラは、自己認識と他人の評価に差があることが多い。
キャラを把握するためには、自分史を書くことと“他己分析”が有効である。