事件屋稼業

 

というとても好きな漫画がある。

 

それに関するコメントは別の機会にゆずるが、

 

 

なかで 四つの現代化 というエピソードがあり、とても興味深い。

 

・ケンカで死なない

・見栄を張らない

・知は力なり

・損しない限り他人に親切

 

…を身上とする緊張感にあふれたフリーランサーの話と日常が

進行するのだが、上記四つはとても自分の日常にも有効。

 

知ると知らないで人生の手ごたえ、生きやすさが大きく異なる。

 

 

 

そしてさらに趣があるのはそのフリーランサーKにはどうやっても

追いつけない主人公Fが終幕で、

自戒 と 諦め と 自己受容 を含んで以下をつぶやくところ…

 

 

K「コーヒをもうひとつ、飛び切り熱いのを」

 

F「俺もチョコパフェもうひとつ、

         … とびきり 甘いのを」

 

 

 

 

 

 

本当に賢い人って、1を聞いただけで、

 

或いは相手が0.3位しか上手く言えなくても、

 

10まで理解してサクサク答えるような人ではないか。

 

コミュニケーションのコストが無駄に高い人

 

(冷笑的、恫喝的、言葉のマイ定義に拘る、

 

話を聞かない、嘘つき、

 

論点ずらし、etc...)は困る。

 

(特に政治家は。)

 

末尾はともかく、高コストになる状況、ってのはおそらく

 

皆いろんな事情で生じうるのかもしれないよね、たとえば選挙が

 

次点決定の直後とか…。

 

 

でもだからこそ、自分もそうならないように自戒したいところ。

時間がない中、残った時間もブログに
使うことはないまま一年が過ぎた。


なにかのつてで読むことになったY.N.氏の、
共感したエッセイで、ちょうど約1年ぶり
のエントリーをしたいと思う。


==========

書店業界の今後を心配する声が時々聞こえる。
「電子書籍の普及で紙の本が売れなくなっていく
 のではないか」
「ネット書店の台頭でリアル書店の存続が危うく
 なるのではないか」
「全国チェーンの大型書店はまだ大丈夫だが、
 『町の本屋さん』と呼ばれるような個人店の経営
 はかなり難しくなっていくのではないか」
といった声だ。

夫は「町の本屋さん」の店員なので、まさに心配されている
ところで働いているのだが、本人は毎日楽しそうだ。今後、
たとえどんなに状況が厳しくなっても、ぎりぎりまで
「町の本屋さん」の書店員でいて欲しい、と私も願っている。

電子書籍やネット書店では、おすすめ情報を得たり、
ランキングやレビューを参考にしたりして、「これが欲しい」
と決めたものをピンポイントで購入することが多い。

対して、リアル書店では、ふらりと店に入って、ぶらぶらして
いたら目についたものに、なんとなく手をのばす。

世の中にはもっといい本がある。
それでも、私は偶然手にしたこの本を読む。

これは、「たまたま側にいる人を愛す」
ということに似ていると思う。

私は昔、結婚というのは、自分にぴったりの、世界で唯一の
人を探し出してするものだと思っていた。しかし、今はそう
思わない。たまたま側にいる人を、自分がどこまで愛せるかだ。
夫が世界一自分に合う人かどうかなんてどうでもいい。
ただ、側にいてくれる人を愛し抜きたいだけだ。

私は夫と結婚してから、雑誌やネットで評価されている
レストランに行かなくなった。そういう店は多くの人を
満足させ、失敗と感じさせることが少なく、コスト
パフォーマンスが良いかもしれない。

しかし、夫と外食するなら、自分たちの家の近くの、偶然
入った「町の洋食屋さん」の良さを、自分たちなりに発見
して愛しむ方が楽しい、と気がついた。

これは、「町の本屋さん」で働く夫と一緒に過ごすうちに
だんだん身についてきた感性なのではないかな、と思う。

世界で一番素敵な本なんて読まなくていい。たまたまであった
本を、自分なりの読み方で、深く読み込んでいく方が、
ずっと素敵な読書になる。

==========

振り返ると、自分の好きな映画も読書も、まさにこの
スタンス。量が多くても他人にドヤ顔できる内容では
なく、方向性もジャンルも支離滅裂、見散らかしの
読み散らかし。
だけど、そういうこと。






骨董の鑑定のときによくいわれるらしいのだが、

ホンモノ と ニセモノ との差でこんな話がある。





ホンモノは、

いつも隠れた美しさを備えていて、

誰かの愛情によって発見されるまで待っている。

この「待つ時間」の、

静かで、

自然であること



ホンモノの証拠なのだという。





これに反して、ニセモノは

美しさを表にあらわそうとして、

つねに焦っている。

だから

いかにうまく

「待つ時間」を虚構しても、

そこには必ず

媚態があらわれるのだという。



見城徹 氏 と 藤田晋 氏の共著(掲題の続編)

より :

//


「死ぬ瞬間にしか結果はない」



人生の価値は、死ぬ瞬間に決まる。

それを決めるのは、ほかの誰でもない、自分なのである。

どんなに苦労しようと、人に不幸と言われようと、

自分がそれでよかったと思えばいいのである。

(中略)

人生の価値は、死の瞬間にしか決まらない。それを決めるのは

他人ではなく、自分なのだ。

そう思っていれば、少々のことでは

気持ちは揺るがないはずだ。


//





印象の深い、血肉として本人から語られた

共感できる意志の言葉だ。
休日出勤を終え、東京駅近辺を通過。


…数年前、どうにも苦労していた仕事のとき、何度か
トウキョーえきなかのそば屋を利用していた。

やっすい チープなそばや。

油も低レベル、肉なんか少しも無いコロッケそば。

そのそば代一杯分も苦渋しながら、たべていた。

でもおいしかった。当時の俺にはおいしかった。

それしかなかった。



…時はたち、仕事は変わり、東京駅を殆ど訪れなくなり、

また、コロッケそばも食べなくなった。

久しぶりに途中下車をし、あの思い出の味をたしかめたかった。

昔につながる今の自分の存在自体も再確認したかったのだと思う。



大雨のなか大荷物を長時間かかえて歩いていたのもあり、

そこそこ、わざわざ無理して向かった感はあった。

何年ぶりかにたずねてついてみたところが、その店は…

真っ白だった。真っ白な壁になっていた。両隣とも

白紙のようなただの壁が通路沿いに続いていた。

そば店はたたまれていた。


喪失感と疲労感がないまぜになって、妄想にまでいたった。

駅の改装にあわせて向こう三軒両隣、まるごとつぶして

壁にしてしまって、駅中央部のシャレオツなレストランやら

キュイジーヌに客を移送する構想なのだろうが、

あっさり消されてしまう程度の苦労と経験なのだとしたら、

俺の積み上げてきたものは、

要領悪く、遠回りで、失敗しながら、邪魔されながら、それでも

積み上げてきたものはなんだったんだ。




最近、会社の情緒不安定な若造に侮辱

(というよりも情緒不安定にまかせた一方的な暴走にすぎないが)

をうけて少し心に波紋が広がっており、

おもわずネガティブに加速してしまった。



ま、いいのさ。前にもこんなことはあった。

ばかみたいに型どおりな情緒不安定な若造からの侮辱。

実はそれは、こっちのフォルトではない。

彼の退職へのカウントダウンなのだ。

「言える相手」、失いたくないものを守るために極力冷静に

対応する相手に対して、どこまでも増長、肥大、激昂する彼らの自我。

器質的、生理的な要因もあるため、単純に「甘い」だの「青い」だの

と決め付けることはできないが、

とめられない自我に導かれ、彼らは去っていくのだ。



冷静であろうとつとめる自分にも、それなりに負荷はかかる。

つみあげた何か、自分にとって変わることのない、

ゆらがない何かを確かめたくなる。

しかしそれは

東京駅のコロッケそばではなかったようだ。

のどが乾きやすく、通勤時にはのど飴をよく使う。


今朝も、と思ったところが、
通勤電車で、咄嗟にゆられて
口元まで運んでいたものが落っこちた。

落っこちた。

落っこちた。



子供の時以来数十年、
物を買う、食べる、治す、申し込む、
説明する、尋ねる、

全ての場面において、都度学習、調整、
をして失敗しないようにしてきた。

失敗を恐れていた。


だが、数十年ぶりに粗相をしてみると…
それはそれで、頭に新鮮な風が吹きぬけた気がした。



本当に気分がふさぎこんで泣けなくなる人がいる、
といった話があるが、
生活が凝り固まると、本当に
一定の生活と環境の繰り返しになり、
またそのことに気づく事もできなくなる。



いつもと違う、
Something New,
Something Strange,

それもとても大切かもしれない。
死んだかのような、

忙しすぎたような、

5年かかったプロジェクトは急転直下失敗に終わったような。


それでいてプロジェクトの当事者は「最初から無理だと思ってた」
とのたまうような…



そんなわけで、報告も更新もする気になれなかった。

もうこのまま二度とエントリーもすまい、と思っていた(いる)。


ランキングもすっとんじゃったし、

更新しない人用の広告まで表示されちゃってるし…



でも、いいの。

メリハリはない、ないところをつっきってやる
っていったでしょ。

ジ●ィのしょんべん上等。

このまま続くよ。


おとこも続くよ、どこまでも。


あけましておめでとうございます。



(平然とおそいですね。というのも…)

実は、あしかけ5年に及ぶプロジェクトが最終盤を迎えている。

なんとかここでもうささいな変化は起こしたくなく、

慎重に無難を指向して、祈る気持ちで行動している。




ちょうど 長い長い空路を経て、

夜の国際空港への着陸直前のような心境。


高度を落とし、ファイナルアプローチに入り、雲を割って、

見えてきた、遠くの誘導灯。


距離=日数は、刻々と0に向かっていく。

オート・パイロットはもう効かない。ちょっとした乱気流や

軸のぶれと対峙しながら、


「3…2…1… 」


TouchDown! その瞬間を心待ちにしている。
ひとつ クビになりそうでも仕事があるならば

ふたつ たとえ鬼嫁でも妻がいるならば

みっつ ろくでなしでもこどもがいるならば

よっつ ローン地獄でもおうちがあるならば

いつつ 一生の病気もちでも即死するのでないならば

むっつ 難病やらでも親の目が黒いならば


ななつ これらをして幸せと呼ぶのであり、

これを感謝とともにうけいれられないのであれば、


それ「こそ」が、そしてそれ「のみ」が最大のふしあわせ。


 五
矢 唯
 疋 

-京都・竜安寺のつくばいより-