https://ameblo.jp/uutan62maron/entry-12778051438.html


https://www.instagram.com/p/CEOLxjAHI5g/?igsh=MjQxZ3h6cTdyOW43

私がこの方を知ったのはかなり昔になります。エキゾチックな美しさと滑舌の良さが魅力で、ずいぶん苦労された過去があることはなんとなく知っていましたが、詳しいことをプロフィールを見て今回初めて知りました。平和を願う強い思いが伝わりました。


 

https://www.zenrosai.coop/anshin/anshintalk/furusato/furusato18.html

記事より一部抜粋
1985年イランの、イラクとの国境沿いの街で生まれ4歳で孤児 院に。イラン人の養母に連れられ8歳で来日、苦しい生活を送り、いじめにもあう波乱の幼少期を過ごす。

イランで生まれましたけど、イランがふるさとかというと、あまりそうは感じられません。4歳で孤児院に入った私には、実のお母さんの記憶はまったくありません。お父さんは、影のように、ぼんやりとだけ。自分の本当の名前も誕生日もわからなくなって、いまそれとしているのは、引き取られたときあらたに決められたものです。イランの孤児院では、色別に分かれた部屋で集団生活をしていました。人を信頼できたことはなかったですね。楽しかった思い出もないけど、そのころの写真を見ると一生懸命笑っています。週に一度与えられるチャンスの日があって、「大人が来たら笑うんだよ」と言われていました。気に入られれば、孤児院を出て、そのうちの子になれます。当時から私は、オーディションばっかり受けてたんですね(笑)。引き取る側が好むので、まだ小さいほど有利なんです。そんなオーディションを受けながら、生きてゆくのに必死で、孤児院の子って早く大人になります。子どもでいることができないんですね。

みんなに「壮絶」だと言われますけど、シリアやイラクをはじめ、中東には、私のような子はいくらでもいます。私はむしろすごく幸運で、もっともっとつらい思いをしている子どもたちが、いまも世界にたくさんいることを知ってもらいたい。以前難民キャンプを訪ねたとき、カメラを向けると笑う子どもたちを見て、孤児院時代の自分と重なりました。みんな、助けてくれるかもしれない大人に好いてもらいたくて、笑う癖がついてるんです。「私の前では笑わなくていいよ」って、声をかけました。笑わないのも勇気だと思うんですよね。そんなふうにがんばる子も、私みたいにふるさとのない子も、生み出さない世界にしたいです。日本の人たちが、遠い国の苦しさを我がことのように考えるのがむずかしいのは無理もないと思います。でも、平和が守られていることの素晴らしさには、気づいてほしいです。水道をひねれば水が出てきて、地雷の心配をせずに道を行ける、それを当たり前とできることがどれほど素晴らしいか。

日本で、貧しさもいじめも経験して

来日後間もないとき。小学校の担任の先生にもらったランドセルを手に。

私を引き取ってくれた母は、私を養子にしたことで家族から絶縁されて、イランにいづらくなりました。日本にいる知人を頼って来日したのは私が8歳のとき。言葉もわからないままでした。日本での私たちの生活はたちまち行きづまります。孤児院から引き取られる先は大抵裕福な家庭なものなのですが、私の場合は、ふたりで公園で野宿するくらい、孤児院にいたときよりも貧しくなりました。それでも余りあるほど、たくさんのたくさんの愛情を、母は私にくれました。母が私にしてくれたことを思うと、それはもう、本当に、神様のような人です。

小学校5年生の途中で、日本に来て以来住んでいた埼玉県から東京に引っ越して来ました。都内をいくつか転々として、いまも東京暮らしです。私が中学生の当時、日本社会でイラン人といえば、偽造テレカ(テレホンカード)や麻薬がらみの事件という悪いイメージばかり。最初はそういうことでからかわれる程度だったのが、どんどんいじめがエスカレートしていって。暴力も、もちろんつらかったですが、無視されるのが一番こたえました。いじめられていることは、ただでさえ苦労している母に心配をかけたくなかったのと、あと、子どもって、親にとって誰にでも好かれる自慢の子でいたいと思うものなんですね、そんなプライドから、家でも話せずにいました。引き取られた子だからこその、遠慮があったのも事実だと思います。

クラスに外国ルーツの子が私だけだったところに、中国の子が2ヶ月だけ入ってきたことがあって、そのときはそちらに標的が移りました。いなくなったらまた私に戻ってきましたけど、要するにみんな、そういう対象がほしいだけだったんだと思います。行くしかないと思って通っていた学校はつらいところでした。夏休みや冬休み明けは地獄です。中学3年のときに限界がきて、自殺しようと考えたことも。「いじめ」なんて曖昧な言葉はもう、やめたらいいと思ってます。「暴力」や「恐喝」と言い換えるべき。「戦争」もそう。どなたかが言ってましたけど、「大量殺人」にすべきだと私も思います。ただ、いじめ経験をしたほかの子には絶対に、そんなふうに考えるようになんて言いませんけど、結果として私は、あのつらさを通して、人の痛みも、生きることの大切さも知ることができました。それらがいまの私をつくったんですね。母に言われた、「許すことができる人間になりなさい。相手が悔しがる人間になりなさい」という言葉は正しかったと思います。

人も家族もふるさとも、型どおりじゃなくていい

平和のこと、アイデンティティのことに話が及ぶと力強く、育ててくれたお母さまのことになるとやさしく。

高校1年生のときから、生活のためにエキストラを始めました。私の容姿だと、死体かテロリストの役ばかりでした。殺されるのと殺す役はすっかりうまくなりましたよ(笑)。イランや中東の人へのそうしたイメージはもちろん悲しいですけど、そのころは何千円かもらえることのほうが重要でした。いまも、報道だけだとイランが怖い国のように見えていて、とても残念です。素晴らしい文化遺産を持つ美しい国なんです。いまの仕事をするようになってから、イランには何度か訪れています。私にとって「ただいま」と帰る国は日本ですし、イランをふるさととは思えないですけれど、母にとっては確かにふるさとなんですね。イランに帰ってペルシャ語で話す母はいきいきとして見えます。私にも、「忘れないで、あなたを生んだ国はイランだから」と言います。祖国のために、私にもなにかしてもらいたいという気持ちが強いみたいです。イランの人は、たとえ平和でなくても、壊れても、自分の国を愛しているんですね。

アイデンティティってなんでしょうね。私は、何人(なにじん)かと聞かれれば、「地球人」と答えます。無国籍でいい。どこにも所属していない、ただの人間でいいです。誰かのつくったカテゴリーにはまる必要はないと思う。小さいころはイランでイスラム教一色だったので、日本に来て最初は戸惑った、岩にも木にも神様がいるという宗教観を、次第に平和の秘訣のひとつだと考えるようになりました。母も、心の中に感謝があれば、見える形でお祈りしなくてもいいんだよと言ってくれる人で、いまの私は、モスクにも行きますが、お寺も神社も、教会にも行きます。家族というものも、型通りにこうあるべきというのはないですよね。私と血のつながりのない母は肉親以上の存在ですし、血縁がすべてでないことは確かだと思います。ふるさとも同じ。私にも、憧れてふるさと探しをしたころがありました。だけど結局、自分でつくるのでいいなって。ふるさとは形でも名前でもなく、自分の中に生まれてくる居場所なんじゃないかって。

私は小さいころから、他人の敷いたそれではなく自分で切り開いたレールの上を走ってきました。いまは演じるという表現を通して、社会で起きていることを伝えられればと思っています。このやり方が一番、自分の経験が生かしやすかったんですね。まだまだ、やりたいことの半分もできているかどうかですが、母からもらった人生を、一日一日真剣に生きてきたことは、誇りに思うんです。何もないところから這い上がってきた人間として、同じような境遇の人のロールモデルにはなりたいと思っています。


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サヘルさんは、「せかほし」でクリスマスローズを紹介してくれました。

小さな庭に丁寧に育てられた薔薇の花に囲まれる幸せな日々でした。「せかほし」に出演したことで、壮絶な子供の頃を思い出す日々だったと想像します。日本で根ざす覚悟を決めた方に、「せかほし」放送を発端に始まった誹謗中傷により平和な日々を脅かされたこの数年間。
芸能人だから、何を言われても仕方がないという風潮はSNSにより拡がった気がします。
それまでもイジメを隠蔽しようとした社会が人に刷り込み教育をしてきた結果ではないのかと思います。全員がそのような偏った考え方をするわけではない。むしろ、なんてことを言うんだと情けなく感じる人が多かった。
一部の人が暴挙に出ることで苦しめられる人がいる、命まで奪われる場合もある。戦争でもないのに、突然戦いを強いられる。それを傍観しながら、食い止める術がなかったことが悔しいと思う。
今一度、サヘル・ローズさんが共演後に、三浦春馬の生き様を知り感動した優しさを振り返りたい。

Instagram、X引用させていただきました。

https://bunshun.jp/articles/-/39691

映画『太陽の子』舞台挨拶の記事より一部抜粋。
8月8日の土曜スタジオパークでは、有村架純や柳楽優弥と共にスタジオに来ることができなかった3人目の俳優、三浦春馬の映像が流れた。「いるだけでみんなを笑顔にするような人だった」と、子役時代から三浦春馬と知人だった柳楽優弥が語り、「自分の演技にもその日のうちにメールをくれた。背中を押してくれるひと言を、必ずかけてくださる方だった」と有村架純が語った。

 確かに三浦春馬は明るかった。インスタライブなどの半プライベート的な配信であっても、まるでこの時代の人間ではないように、もっと古い時代からタイムスリップしてきた青年のように礼儀正しく、肯定的に物事を語ろうとしていた。


三浦春馬 ©︎getty

 7月8日に広島で行われた記者会見で、演出脚本の黒崎博氏は三浦春馬のキャスティング理由について「生きるエネルギー、全面にそれが伝播してくる人」と語った。そこからわずか10日後の彼の死によって、その言葉が皮肉な結果になったとは僕は思わない。それは間違いなく俳優としての三浦春馬を的確に表現した言葉だった。

「(演じた兵士の)明るい部分でも、漆黒とした感情に移り変わるんだという、そのむごさというものが表現できたらいいのかなと現場では思っていました」自分が演じた人物をそう語った言葉は、まるで彼自身について語った言葉のように今は聞こえる。

 彼は必死に生きようとしていた。戦争中の若者たちがそうであったように、すぐそこに迫り引きずり込もうとする死の影を振り切るように明るく、希望を探そうとしていた。

 広島の記者会見で三浦春馬は「今、僕たちはいろんなことで、人生を諦めたいと思う瞬間もある。けど、その空しく生きた一日が、当時あれほど生きたいと思っていた一日。一日は変わらないじゃないですか。そんなことを胸に、生きていきたい」と語っている。それは7月8日、彼の死の10日前に語られた、明らかに自死を戒め、生きる希望を探す言葉だ。

 まるで追いすがる死よりも早く走ろうとするかのように、三浦春馬は希望に向かって走ろうとしていた。「優しい春馬さん、深呼吸してください」と有村架純はインスタグラムで追悼の言葉を送った。「柳楽くんは優しさが出て、(自死を止める演技のリハーサルで)僕を強く殴れなくて、子犬を撫でるみたいな芝居になっちゃった」と笑う生前の三浦春馬の映像がスタジオパークで流れると、柳楽優弥は「ごめんね」と呟いた。

「未来の話をしよう」と、三浦春馬が劇中で演じた若い兵士が語るシーンがスタジオパークで流れた。その物語がどのような内容でどんな結末に至るのか、これを書いている時点で8K先行放送も試写会も見ていない僕にはまだわからない。だがそれは、柳楽優弥、有村架純、三浦春馬という戦後の若者たちが、戦前という過去を演じることで未来について考える物語である。

 そこで演じられるのは75年前に20代の若者だった、多くはもうこの世にいない死者たちの物語であり、演じる3人の戦後生まれの若者のうち、1人は彼らの側に行き、もうこの世にはいない。だが残った作品の中では、今も生きる俳優と今はもうこの世にいない俳優、生者と死者が同じ映像の中で言葉を交わし、観客に未来についてのメッセージを残す。

 この物語が放送される8月15日は言うまでもなく日本の戦争が終結した終戦記念日であり、そして日本においては死者の魂がこの世界に一時だけ戻り、生者と死者が再会し語り合うとされる盆である。

 

「以前、広島に足を運んだ際に(被爆者の)話を伺って印象深かったのは、人間は想像力を欠如した時にむごいことをする、ということ」

 三浦春馬は7月8日、最後の記者会見でそう語った。

「戦争を進めていくうちに人間の想像力が欠如する。僕たちの仕事は、想像力を皆様に届けること」

 スタジオパークで流れた映像も同じ日に広島で撮影されたものだ。「想像力を届けることが、今後、あってはならない大きな流れを始めさせないきっかけになるんじゃないかなと思う」わずか1ヶ月前にそう語った、今はもうこの世にいない俳優が、映像上の存在として僕たちに何かを伝えに戻ってくる。

 サンスクリット語のウランバナに由来し、仏教用語で盂蘭盆会(うらぼんえ)‬と正式には呼ばれるその夜に、僕たちは戦前の、そして戦後の死者の声を聞く。


今年、彼を失い4回目の夏を迎えます。

多くのファンが片時も彼を忘れられずに、三浦春馬さんが遺したものを大切につなぎ合わせて、学んでいます。

春友さんたちが、春馬くんを想い結果的に社会貢献に繋がるという奇跡を起こしてこられました。その想いの熱量はハンパなくて…。

その想いを無にするように、他者を誹謗中傷する行為で彼の名前を名誉を汚す様な、あってはならない流れを作ってはいけない。あってはならない流れは戦争だとは限らない。

感情的に人に投げかけた言葉は、まわりまわって自分や家族に返ってきます。感情的な言葉は、人に嫌悪感を与え傷つける。何も得るものはない。介護でも同じだと学びました。

だからこそ、どんなときもどんな状況でも穏やかに話す春馬くんを見習わなければと、いつも思っています。