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URUオンラインスクールは主に起業や経営について学ぶものですが、竹花さんが日本経済について語った動画を見て、なぜ日本は今の経済状態になったかに興味を持ちました。またそれを知るためには日本経済に影響を与えた国際政治の歴史も勉強すべきと思い、学んだ知識を使ってブログを書きました。このブログの参考になった動画は一部公開ですが、YouTubeで以下のリンクから見られます。全て見たくなった方はぜひURUオンラインスクールに入学してください。

 

 

 

 

  イギリス海軍の海上封鎖

 

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イラン・イスラム共和国はアメリカと未だに敵対していますが、アメリカと同盟国のはずの日本との関係は良好だと言われます。これはなぜでしょうか。1951年、イランのモサッデク首相はイギリスの石油独占に反発、イラン国営石油会社をつくり、イギリス系アングロ・イラニアン(後のBP:The British petroleum company plc)の石油施設など国有化しますが、アングロ・イラニアンはイラン国外への石油輸出を拒否し、イギリス政府も艦隊を派遣して海上封鎖を行い、ペルシャ湾、オマーン湾などの要衝を厳しく監視しました。

イランから直接石油を買い付けたイタリアとスイス共同資本のタンカーはイギリス海軍に拿捕されます。これに激怒したイギリスは「イランの石油を買った者にはいかなる処置も辞さない」と発表。イランは国有化しても石油を売れず国民が貧困に苦しむ一方となります。イギリス海軍にタンカーが撃沈される危険さえあり、どの国もイランから直接石油を買うことを恐れるようになりました。モサッデク政権は、イラン国有石油会社の職員、外交官や外国在住のイラン人を総動員して必死に買い手を探し、日本にも購入を求めます。

アメリカは勢力を拡大しようとするソビエトや中国などの共産主義国に対抗して、日本を独立させ発展させて役に立ってもらおうと決めました。そのため1951年9月8日に日本は第二次世界大戦で敵対した連合国48カ国の代表とともに、サンフランシスコ平和条約に調印。1952年4月28日アメリカを主体とした連合国軍の占領は終了し、日本は独立と主権を回復します。しかし独立を認められといっても日本国内のほとんどの石油会社は戦勝国であるアメリカやイギリスの傘下であるメジャーと組まないと石油が輸入できないようになっており、日本にはメジャーが売りつけた高額で質の低い石油製品ばかり出回っていました。朝鮮戦争での軍需物資の生産による好景気で経済は向上してきたものの敗戦で貧しい日本であることは変わりがなく、これではいつまでも本格的な経済発展もできません。

 

 

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  出光の決断

 

1952年3月にブリジストンタイヤの創業者であった石橋正二郎社長の仲介でアメリカ在住のイラン人弁護士から石油購入の提案を受けたのが出光興産創業者であり、当時の出光佐三社長です。

 

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出光は中小企業でしたが、外国の資本が入っていない当時では数少ない民族系石油会社と呼ばれ、メジャーに逆らいロサンゼルスの中堅石油会社から直接輸入を計画したり、ベネズエラなどから輸入するというような型破りな会社として知られていたのです。

当時の日本政府はアメリカとイギリスの圧力を受けメジャーと組む国内の石油会社を優遇していたものの、当時の吉田茂首相はイランの求めに応じて密かに石油の購入を模索しており、それもあって石橋社長は娘婿で通商産業省の官僚であった郷裕弘さんなどの政府関係者を介して、アメリカのイラン人弁護士が石油の買い手を探していることを知り、出光社長に話をつないだのでした。危険が多く困難な取引でしたが、イランと日本の状況に心を痛めた出光社長はイギリスの暴挙は国際法上の正当性がないこと。アメリカもイギリスのイラン石油独占を快く思わず、割り込もうとしていることに着目し、時間がかかりましたが、提案を受けることを決断。

しかしイギリスの逆鱗に触れてしまえば日本が窮地に立たされます。出光社長はこのような事態を招かないよう国際法、国際世論、各国の動向、航海上の危険な場所などへの対策を入念に行い、緻密な計画を立て、同年11月に社長の実の弟である出光計助専務らをイランに極秘裏に派遣することを決めます。日本から直接派遣するとイギリスにバレるため、専務たちはオート三輪販売の商談という名目でパキスタン経由でのイランに入国します。イランの要人やモサッデク首相らと会えたものの、中小企業で信用のない出光は交渉は困難を極めましたが、1953年2月にイラン国営石油会社と秘密協定を結びます。

 

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  イランへの航海

 

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3月に出光が保有しタンカー「日章丸」が神戸からイランのアーバーダーンに向けて静かに出向します。アーバーダーンに向かうことを知っていたのは、社長と日章丸の新田辰夫船長などごくわずかでした。インド洋のコロンボ沖を航行中に新田船長は船員を集め、出港前に社長から手渡された檄文を読み上げ、アーバーダーン行きが知らされます。危険な航海となりますが、社長の人柄と考えに船員は共感します。

占領下の日本ではGHQに航行する船は位置報告が義務づけられていましたが、報告しなかった場合の罰則が無く、報告を行わないことで航路を偽装できたため、イギリス海軍の監視を避けることができました。4月にようやくイランのアーバーダーンに入港、港に集まった大勢のイラン人に歓迎されます。イランの新聞に日章丸の姿が大々的に掲載され、イランに希望を与えるものだと賞賛されます、出光社長はもう隠す必要がないと会見を開き、日本の小さな会社の武器を持たないタンカー1隻が強大なイギリス海軍を出し抜いたと、世界中の新聞が大きく報じました。

 


アメリカの黙認、法に触れていない日章丸とそれを庇う国際世論の高まりでイギリスもうかつに手を出すことができませんでしたが、許しているわけではありません。航海は依然として危険に晒されていました。石油を満載した日章丸は機雷をかいくぐりシンガポールにも基地があるイギリス海軍の監視を避けるため、普段タンカーが通るマラッカ海峡を避け、暗礁や浅瀬が多くてタンカーに危険なスンダ海峡やガスパル海峡を通り、無事5月に川崎港に到着。川崎には大勢の人々が集まり、日本の新聞も大きく報じます。
イギリス政府は日本政府に激しく抗議し、出光を処分するよう強く求めますが、日本政府はアメリカの黙認と、日章丸を庇う国際世論を背景に応じません。アングロ・イラニアンは東京地方裁判所にイランから買った石油は自社のものであると出光を提訴するものの、裁判では北村良一裁判長が出光の主張が認めます。アングロ・イラニアンは控訴します。

出光はイランとの石油取引は続けており、計3回に渡って石油を日本に運び、4 回目の積み出しを準備していた8月にイランでCIAが支援するクーデターが起こります。モサッデク首相は失脚、今まで首相に抑えられていたパフレヴィー2世が国の実権を握り両国の後ろ盾を得るために、国有化されていた石油産業のほとんどをアメリカとイギリスのメジャーに明け渡しました。アングロ・イラニアンも権益が回復し日本で面倒な裁判をする必要がなくなり、控訴を取り下げます。裁判に勝った出光でしたがクーデターの影響で出光は1956年3月からイラン国営石油会社から石油を買えなくなります。

メジャーは自国の経済を発展させるために石油を安価に手に入れるために中東で大規模な油田を盛んに開発。生産量が拡大して石油価格は低下し、日本も以前のよう高額で質の悪い石油製品を買わずに済むようになります。パフレヴィー2世のイランも積極的にメジャーを通して日本に石油を売り込み、イランは1970年代初頭に日本の最大の石油輸入先となっていました。

イランと取引できなくなった出光でしたが、1962年には当時世界最大のタンカーとなる「日章丸三世」を建造するなど発展を続けます。この出光のイギリスとの戦いは「日章丸事件」といわれ、イラン人が日本人に対して親しみを持つきっかけとなり、同時に敗戦で苦境にあり、打ちひしがれていた日本人に大きな勇気と自信を与えました。イランの日本への親しみはイラン革命後も変わらず、2018年9月に在日本イラン・イスラム共和国大使館は、「65年前にイランがイギリスの制裁を受けた際、出光興産が極秘裏にタンカー・日章丸をイランに派遣してイランの政府と国民の味方であることを示した」と日本語でXにツイートしています。

 

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