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  アルジェ協定

 

イラクで亡命生活をしていたホメイニ師でしたが、1972年頃からアメリカが支援するイランとソビエトが支援するイラクは領土問題で激しく対立するようになりました。イラク・トルコ・ロシアの4国にまたがる山岳地帯に住むクルド人という民族がいます。クルド人は国を持っておらず。イランとイラクはお互いの国のクルド人勢力に資金や武器を与えて援助し、反体制活動を行わせてきました。1974年3月パフレヴィ―2世がイラクのクルド人勢力をたきつけて、イラク軍との大規模な衝突を引き起こし、イランとイラクが直接対決寸前となります。

 

 

戦争で中東が不安定になることを恐れたアルジェリア、エジプト、トルコが仲介に入り1975年3月、アルジェリアの首都アルジェで開かれたOPEC総会でパフレヴィー2世とイラクのサダム・フセイン副大統領が会談。アルジェ協定という和解案に合意しました。しかしアルジェ協定では領土の大部分をイラン領とされてしまいます。フセイン副大統領がこの不利な協定に合意したのは、クルド人勢力の猛攻で多数の兵士が犠牲になったこと、戦費が莫大になっていたこと、イラクの石油収入を高めるため、西側諸国と交流があるサウジアラビアなどに接近し、西側の石油市場の確保、西側の資本や優れた技術の導入して、ソビエトへの依存を少なくしようと考えていたフセイン副大統領はこの不利な協定に合意せざる負えませんでした

他方、パフレヴィ―2世は戦争になればイラクが重要な油田などを攻撃する可能性があったこと、イラクを支援するソビエトの中東における力を弱めようとする考えがあり、イラクとの協定に合意しました。またお互いの国クルド人勢力やそれ以外の反体制勢力の相互にやめることになりました。

イラン、イラクの武力衝突に利用されたクルド人は、数千人も犠牲者を出ていたうえに、アルジェ協定の合意後は双方の政府から居住地から追い出されれ約20万人が難民となり、過酷な状況に見舞われました。またアルジェ協定に基づいてパフレヴィ―2世はナジャブいたホメイニ師をイラクから追放するよう、フセイン副大統領に圧力をかけます。

 

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  パリのホメイニ師とブラックフライデー

 

 

ホメイニ師は1978年10月にナジャブから追放され、今度はフランスのパリの支持者の元に逃れます。ただイラク政府からの圧力を逃れるため、ホメイニ師自らがイラク脱出を決めたと言う説もあります。またパフレヴィ―2世はイランにいるホメイニ師をイランの支持者と連絡が取りずらいインドに追放する考えもあったようですが、なぜか実行されませんでした。恐らくインドにはシーア派のイスラム教徒も大勢いるため、インドでもホメイニ師が反体制運動を行うのではとインド政府が嫌がったのではないかと思われます。フランス西側諸国のメディアはパリで反体制活動を続けるホメイニ師に興味を持ち、盛んに取材を行い、ホメイニ師は西側諸国で有名になりました。フランスは通信環境がよかったのでホメイニ師はイランの支持者たちとも連絡がとりやすく民衆を勢いづかせます。
ホメイニ師がナジャブから追放される9か月前の1978年1月、イランの新聞にホメイニ師を中傷する記事が掲載され、イスラム教シーア派の聖地ゴムで、民衆による記事への抗議と反体制のデモが行われます。このデモを警察が弾圧し犠牲者がでます。死者を40日ごとに弔うイスラム教の習慣と相まって、犠牲者の追悼デモが40日ごとに他のイランの都市に波及し、あっという間にイラン全土に反体制デモが拡大します。8月にはイラン南西部の都市アバダーンにある映画館で火災が発生、多数の犠牲者が出てパフレヴィ―2世の仕業であるとの噂が流されます。9月にはテヘランで50万人が参加する最大規模のデモが起こり、パフレヴィ―2世は軍に警察権を持たせ、国民の行動を規制する戒厳令を敷きます。その夜にデモ隊に軍が発砲してまた多数の犠牲者を出しました。この事件は後に「ブラックフライデー」と呼ばれます。パフレヴィ―2世はこれ以上軍の弾圧で犠牲者が増えれば民衆がますます過激化し自らの命も危うくなると考え、軍に武器の使用を禁じます。そのため軍の士気は低下してしまいました。
しかし映画館の火災やブラックフライデーで民衆の怒りはとうとう爆発し、抑えることはできなくなります。ホメイニ師の帰還とパフレヴィ―2世の追放を求めて10月には石油産業の労働者が大規模なストライキを行い、12月以降にはイラン全土で数百万人の民衆が参加する反体制デモが繰り返されます。ホメイニ師もパリから軍の兵士に民衆側に着けと呼びかけます。

 

 

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  イラン・イスラム共和国

 

 

1979年1月、飛行機の操縦が趣味でもあったパフレヴィ―2世は国王専用機のボーイング727を自ら操縦して、家族と共にイランを脱出。エジプトに向かい「兄弟」と呼び合うほどの仲だったサダト大統領が受け入れて亡命しました。これでホメイニ師は、帰国を決断します。パフレヴィ―2世は亡命前の1978年末に政治学者でもあったシャプール・バクティアル博士を首相に任命していました。バクティアル首相はかつてモサッデク首相の内閣で労働副大臣を務め、パフレヴィ―2世の独裁に反対し何度も投獄されている人物でした。パフレヴィ―2世は自分に反抗してきた人物をあえて首相にしてホメイニ師や民衆を懐柔しようと考えていたのです。バクティアル首相はイスラム教徒に支配されれば、イランが滅びると考え任命を受け入れましたホメイニ師に対して譲歩して交渉はするつもりでした。イラン政府はホメイニ師の帰還を阻止するため空港は閉鎖していましたが、デモ隊が抗議し、バクティアル首相はホメイニ師への譲歩のため閉鎖を解き帰国を認めます。

 

 

1979年2月にホメイニ師エールフランス航空のチャーター機で帰国、300万人もの民衆が、街頭に出てホメイニ師の帰国を歓迎しました。バクティアル首相は秘密警察のサヴァクの解散と捕えていた反体制勢力の人々を釈放します。民衆の大規模なデモも認め、自由な選挙をイラン国民に約束。ホメイニ師にはイランのイスラム教シーア派の聖地ゴムにローマ・カトリックのバチカン市国のようなイスラム国家を創設するので、自分の政権を認めるように交渉しますが、ホメイニ師は交渉を拒否し、新しい政権をつくることを主張、バクティアル首相はパフレヴィ―2世に寝返った裏切り者であるとして、民衆にバクティアル政権打倒のために武装蜂起を呼びかけます。軍も既に崩壊状態で脱走兵が続出します。こうしてバクティアル首相はフランスに脱出。イラン政府に残っていたパフレヴィ―2世の勢力も捕えられ、ホメイニ師は政権を奪取。1979年3月末に国民投票が行われ、4月に「イラン・イスラム共和国」が成立、パフレヴィ―2世の王制は倒されました。ホメイニ師は自分に忠実であったモサッデグ首相の内閣では文化副大臣を務めた、テヘラン大学のメフディー・バーザルガーン元教授を首相に任命。ホメイニ師は首相や後に置かれる大統領も指導できる国家元首となります。これが「イラン革命」です。ホメイニ師は捕えたアミール・アッバス・ホワイダ元首相、サブァクの歴代長官をはじめ、高級官僚、軍の将校など数百人のパフレヴィ―2世の勢力を処刑します。とくにサブァクのハッサン・パクラヴァン元長官はホメイニ師が1964年11月に逮捕され、死刑宣告を受けたときに、影響力が強いホメイニ師を死刑にすれば、民衆が激怒するとパフレヴィ―2世に猛反対し、結果的にホメイニ師の命を救うことになった人物でしたが、それでも処刑されてしまいました。フランスに脱出したバクティアル首相も革命から13年後の1991年8月にパリで暗殺されます。

ただホメイニ師の長男であるムスタファ・ホメイニさんは、父であるホメイニ師とナジャフで合流していましたが、1977年10月に心臓発作で死んでしまいました。これはサブァクによる暗殺ではないかと言われています。

 

Y.H X(旧Twitter)

 

 

 

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