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URUオンラインスクールは主に起業や経営について学ぶものですが、竹花さんが日本経済について語った動画を見て、なぜ日本は今の経済状態になったかに興味を持ちました。またそれを知るためには日本経済に影響を与えた国際政治の歴史も勉強すべきと思い、学んだ知識を使ってブログを書きました。このブログの参考になった動画は一部公開ですが、YouTubeで以下のリンクから見られます。全て見たくなった方はぜひURUオンラインスクールに入学してください。

 

 

  ホメイニ師の決断

 

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アメリカ海軍のアーネスト・ウィル作戦はイラクの船舶とイラクを支援する国の船舶を攻撃から保護するものでした。イラン・イスラム共和国の船舶とイラン・イスラム共和国を支援する国の船舶は保護されません。これでは船舶がイラクの攻撃を受けるうえに、船舶の保険料も高額となり、イラン・イスラム共和国との貿易をやめる国が続出しました。

これで貿易の縮小していしまい、長引く戦いと経済制裁、イラクによる石油施設攻撃で国は著しく疲弊もしていました。イラン・イスラム共和国政府の指導部はこれ以上戦争を続ければイラクがすべての都市に化学攻撃を行い、アメリカは人質をとっても怯まず全面戦争に突入すると考え、これではイラン・イスラム共和国は崩壊するとの結論を出し、指導部の一部はホメイニ師に決議598の受諾を進言します。ホメイニ師も苦渋の決断を強いられ、1988年7月20日イラン・イスラム共和国は決議受諾を表明。「この決議を受け入れることは毒杯を飲むことよりも苦しい決断です。」というホメイニ師の決議受諾に対する声明が国民に向けてラジオで読み上げられました。

8月20日に停戦が発効、こうして約7年10ヶ月に及ぶ長い戦いはようやく終わりました。両国の領土も戦争前と変わりありませんでした。死者数については両国の政府関係者が発表しており、イラクが約25万人、イランが約18万3600人とされていますが、お互いに領土深く攻め込んだ戦いは行っていないこと、その後の両国の国勢調査から死者はどちらももっと少ないであろうとも言われています。しかし戦争が悲惨だったことには変わりありません。

 

 

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  ホメイニ師の後継者

 

 

イラン・イラク戦争末期から高齢のホメイニ師は衰えを見せ、1989年6月3日87歳で死去します。イラン・イラク戦争で国民の不満も高まっていて戦争に敗北して間がないにもかかわらず、ホメイニ師の支持は絶大で、イラン・イスラム共和国政府の発表によれば、その葬儀には1020万人もの国民が参列したとされギネス記録にもなりました。葬儀ではホメイニ師の木製の棺に群衆が殺到、棺の蓋が開いてしまい、群衆がホメイニ師の遺体を覆っていた布を、神聖なものとして引きちぎって持ち去ろうとしました。兵士が威嚇射撃をして群衆を追いはらい、棺を取り戻しヘリコプターで埋葬地に移動させ、そこから遺体は鋼鉄製の棺に移され、厳重な警備の中でようやく埋葬されます。

 

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生前、ホメイニ師はお気に入りの弟子パフレヴィー2世の時代には投獄もされた大アヤットラーのフセイン・アリ・モンタゼリ師を後継者に指名していました。

ところがモンタゼリ師は強権的なホメイニ師のイラン・イスラム共和国の運営に疑問を持ち始め、批判する手紙を送ったりするようになります。

イランにはパフレヴィー2世に反抗したムジャヒディン・ハルクという武装組織があり、イラン革命にも尽力しますが、この組織は共産主義に近い思想を持っており、革命後に共産主義を嫌うホメイニ師に危険視され弾圧されます。そのためムジャヒディン・ハルクはイラン・イラク戦争ではイラクに味方し、ホメイニ師は報復として1988年に捕えていたイラン・イスラム共和国に反対する政治犯とともに大勢のムジャヒディン・ハルクの兵士たちを処刑しました。

またモンタゼリ氏が息子のように思っていたイスラム革命防衛隊の幹部でメフディ・ハシェミ氏がイラン・イスラム共和国に対して反逆を企てたとして捕らえられ、処刑されてしまいます。モンタゼリ師はホメイニ師にハシェミ氏の助命嘆願をしましたが受け入れられませんでした。ハシェミ氏はイラン・コントラ事件でイラン・イスラム共和国がアメリカと秘密裏に取引することを反対、取引をレバノンの雑誌「アシュ・シラー」に暴露し、1986年11月3日号で記事になりました。

この前の10月にコントラに物資を輸送していた飛行機が撃墜され、パイロットがサンディニスタ民族解放戦線に捕えられて、秘密取引が既に明るみなっていましたが、この暴露で秘密取引が事実であることが決定的となりました。これがイラン・イスラム共和国の立場を悪化させたとしてハシェミ氏の処刑につながったと言われています。このような処刑に反発したモンタゼリ師はホメイニ師から完全に離反し、公然と批判するようになります。激怒したホメイニ師はモンタゼリ師を政権から追放、大アヤットラーであるため死刑は免れますが、称号は剥奪、発言権は奪われてしまいました。しかしモンタゼリ師は体制批判をそのまま続けて、1997年から2003年まで自宅に軟禁もされていました。

 

“Ayatollah Khamenei, the leader of the Islamic Republic of Iran, congratulated Nowruz 1403 CH in a televised message“©Khamenei.ir.2024.(Licensed under CC BY 4.0)

 

モンタゼリ師以外の大アヤットラーはホメイニ師から距離を置いているうえ、最高会議で多くの議員から支持を受けられるような大アヤットラーもいませんでした。そのためホメイニ師がモンタゼリ師の代わりに後継者に指名したのはモンタゼリ師同様にお気に入りの弟子だったアリー・ハメネイ師でした。ハメネイ師はパフレヴィー2世時代に6回も逮捕されているうえに、1981年6月には反体制勢力がテープレコーダーに仕掛けた爆弾が近くで爆発し、ハメネイ師は辛くも命は助かりましたが、重傷を負い右手が動かなくななど修羅場を何度も潜り抜けた弟子でした。

ところがイラン・イスラム共和国の最高指導者は憲法で大アヤットラーでかつ最高会議の投票で多くの票を得た者でないとなれないという決まりがありました。そこでホメイニ師は憲法を変えて、最高指導者は大アヤットラーでなくともよいとしました。そしてハメネイ師は50歳でホメイニ師の死の翌日の1989年6月3日に会議で最高指導者として任命され、85歳になった現在でもその地位にあります。

 

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  ホメイニ師の素顔と現在のイラン

 

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ホメイニ師は権威を保つため民衆の前では決して笑うことはなく、いつも険しい顔をしていましたが、子どもや孫たちの前ではにっこりしている普通のおじいちゃんのような一面もあります。
元外交官の駒野欽一さんの日本国際問題研究所の2006年3月の記事によれば、パフレヴィー2世の白色革命は、大型開発計画の利権に絡んだ賄賂などが横行し政治腐敗が引き起こされたり、反体制派への苛烈な弾圧、伝統的な商人たちの生活が脅かされたり、強烈なインフレがあったり、貧富の差が拡大しましたが、実際にはイラン国民全体の生活は向上しており、貧しい人たちの多くがラジオを持ったり、イラン人のごちそうであるケバブを食べられるようになり。国民がもう少し我慢をすれば白色革命は成功して、イランは大きな経済発展を遂げたいわれます。にもかかわらず、国民は白色革命の恩恵よりも政治腐敗を起こしたパフレヴィー2世への怒りがずっと大きく、カリスマ性を持った指導者であるホメイニ師がパフレイヴィー2世に様々な思想を持つ反体制勢力をまとめあげ国民を結束させました。それに対してガンに侵されたパフレヴィー2世は精神的に不安定となって同時に優柔不断になっていき、ホメイニ師をはじめとする反体制勢力に対して断固とした行動ができなくなり、これがイラン革命が起った要因でもありました。

 

 

イラン・イスラム共和国はは日本に親しみをもつ国であるといわれますが、国民が抑圧されている怖い国のイメージがあります。しかし実際に渡航したYouTuberの動画を見ると優しい人も多く、自由に生活している感じがみてとれます。

 

 

  第二次オイルショック

 

1973年のオイルショックの後、世界的に石油の節約が行われ、景気の悪化も続き、石油の需要はどんどん落ち込んでいきました。その一方で中東の産油国ではオイルショックの石油価格高騰に乗じて、増産を行う国が増えたり、OPECに加入していない国が増産したりして、石油の需要が過剰になりました。しかし世界各国の経済対策により、景気は弱々しくも回復しはじめ過剰だった石油の需要が高まります。1978年10月にイラン革命で石油産業の労働者による大規模なストライキがきっかけとなり、世界経済と石油供給に影響を第二次オイルショックが起こって82年4月まで続きます。

79年11月のアメリカ大使館人質事件でアメリカは経済制裁でイラン・イスラム共和国からの石油輸入を停止。80年9月のイラン・イラク戦争も勃発。この間にイラン・イスラム共和国の石油生産は著しく減少してしまいました。

 

 

OPECもこれに乗じて1978年12月から石油価格の値上げを実施します。このため78年11月は1バレル12.7ドルであった石油価格は79年11月は24ドル、80年4月は28ドル、81年10月には34ドルとなり、3年間で約2.7倍にまで跳ね上があり、この影響は82年4月まで続きました。

 

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