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  事件を容認するホメイニ師

 

人質事件は、パフレヴィー2世がアメリカに入国してすぐに起きてはいませんでした。事件が起きたのは1979年11月4日ですが、その前日の11月3日に、アルジェリアの首都アルジェで対イラン・イスラム共和国の強硬派であったアメリカのズビグネフ・ブレジンスキー国家安全保障担当補佐官とアメリカに親和的なバーザルガーン首相と会談していたことが世界的なニュースになりました。

アメリカがパフレヴィ―2世を受入れをしたことに怒っていたイスラム法学校の学徒たちは、この会談を見てアメリカがバーザルガーン首相を使って1953年のモデッサク首相を倒したクーデターに倣って、ホメイニ師を倒そうしていると考え、怒りが爆発してイラン・イスラム共和国政府高官や革命防衛隊と結託し、大使館を占拠に動いたのではないかと言われています。

 

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占拠されるわずかな時間の間に、機密を守り悪用を防ぐため、大使館職員・海兵隊員らは、大量の各種機密書類やドル紙幣を焼却炉で焼いたり、通信機器などを破壊します。しかし焼却炉はすぐ壊れてしまい、シュレッダーで重要機密を裁断するはめになります。この頃のシュレッダーの多くはストレートカットといって書類を縦一方向にしか裁断できず、後にイラン・イスラム共和国政府がペルシャ絨毯織り職人、女性や子供たちまで動員して書類が復元されてしまい、アメリカの機密情報がイラン・イスラム共和国政府に渡ることになります。この事件を契機にシュレッダーは復元が困難な縦横に裁断するクロスカットやさらに細かいマイクロカットという形式が採用されるようになりました。

実は1979年2月にもアメリカ大使館は占拠されているのですが、この時は占拠したのは共産主義者たちで、アメリカとの関係はまだ悪化しておらず、ホメイニ師は事態の解決を命じて、犯行集団は捕えられました。ちなみにイランの共産主義勢力はパフレヴィ―2世と敵対しており、イラン革命を支援しましたが、ホメイニ師は共産主義にも強く反対しており、秘密交渉ではカーター政権に共産主義者を政権には入れないを約束して革命後に共産主義勢力を弾圧していました。しかし今度の占拠はホメイニ師がアメリカがパフレヴィ―2世を受け入れたことは秘密交渉の合意を破るに等しいと激怒、占拠事件翌日にアメリカをパフレヴィ―2世と手を組む「大悪魔」と呼び、激しく批判、事件を起こしたのがホメイニ師を熱狂的に支持するイスラム法学校の学徒たちが中心だったこともあり、事件を容認します。

 

 

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  ホメイニ師への反対

 

「外交関係に関するウィーン条約」という国際法では諸外国の大使館がおかれている国の政府は大使館や職員の安全を守らないといけないというという規定があり、イランの事件の容認はこの国際法に違反していたため、諸外国からの大きな非難を受けますが、ホメイニ師は聞こうとしません。

 

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当時ホメイニ師に任命されていたバーザルガーン首相は、先程述べたようにアメリカと親和的で、次第にイスラム教の思想を政治に強く反映させるホメイニ師に反対するようになっていました。ホメイニ師の事件容認の姿勢も批判し、首相を辞任してしまいます。その後のバーザルガーン元首相は、ホメイニ師とイラン・イスラム共和国政府に批判的な「イラン自由運動」という政党の政治家となります。イラン革命でホメイニ師は国民の圧倒的多数の支持を受けましたが、ホメイニ師への反対勢力も存在しており、革命後は反対勢力を徹底的に弾圧します。その一方でホメイニ師はイラン・イスラム共和国政府の政治に対する不満を少しでもやわらげるため、あえてホメイニ師と政府を批判できる唯一の野党としてバーザルガーン元首相がいるイラン自由運動を認めます。しかし元首相は政府の支持者の迫害に苦しむことにもなりました。

 

 

大アヤットラーのシャリアトマダリ師も人質事件を容認するホメイニ師を批判します。前にも述べましたが、かつてホメイニ師が1964年11月には逮捕され死刑宣告された時、サブァクのハッサン・パクラヴァン長官は死刑はイランの民衆の怒りを爆発させ、政権は危機的状況になるとパフレヴィ―2世に対し死刑に猛反対します。パフレヴィ―2世もそれを受け入れますが、死刑回避にはもっともらしい理由も必要でした。パクラヴァン長官はホメイニ師の死刑を回避する口実をつくるため、ホメイニ師を大アヤットラーとして認めてもらおうと考えます。イラン憲法では大アヤットラーは死刑にできないと定められていたからです。そしてパクラヴァン長官が尋ね、大アヤットラーとして認めることを了解したのがホメイニ師よりも年下にも関わらず、イスラム法学者の先輩格であったシャリアトマダリ師でした。

シャリアトマダリ師はホメイニ師の命の恩人で、ホメイニ師のイラン革命も支持しましたが、革命後にホメイニ師の政治はイラン国民の意思を組むものではなく、イスラム教に反すると批判し対立します。他の反対勢力とは違い、シャリアトマダリ師はホメイニ師の最大のライバルともいわれ支持者も多かったのです。シーア派の聖地ゴムで双方の支持者たちが衝突することさえあり、さすがのホメイニ師も簡単に倒せる相手ではありませんでした。ところがシャリアトマダリ師は後の1982年4月にホメイニ師の邸宅が爆破された事件で、事件の計画を事前に知っていたのにもかからず、誰にも知らせずに黙認したとされ、国営放送のテレビカメラの前でかつてその命を助けたはずのホメイニ師への謝罪に追い込まれます。大アーヤットラーとしても認められなくなり、発言力を失ったシャリアトマダリ師は、裁判にかけられはしなかったものの、生涯自宅軟禁とされました。シャリアマダリ師とホメイニ師以外にも大アーヤットラーは何人かいますが、そのほとんどはホメイニ師のイラン・イスラム共和国の政権中枢から距離を置いていました。

 

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  イランへの制裁

 

 

カーター政権は人質解放のためにイラン・イスラム共和国政府に経済制裁を行います。イラン・イスラム共和国からの石油輸入が停止され、アメリカ製品の流通も止めます。1983年12月のニューヨークタイムスの記事によると、革命前の1978年、アメリカのイランへの輸入総額は29億ドル、輸出総額は37億ドルでしたが人質事件が起こった1980年は輸入総額は約84%減の4億58000万ドルに減り、輸出総額に至っては約99.7%減のわずか2300万ドルしかなかったといわれます。

また大統領令12170号により、アメリカ国内のイラン資産約80億ドルも凍結されました。これらの制裁は革命直後の経済が混乱しているイラン・イスラム共和国をさらに苦しめていきますが、以前からイランとのつながりのあるヨーロッパの西側諸国が人質事件はアメリカだけの問題と考え積極的に制裁に加わらなかったため、なんとか耐え忍び、ホメイニ師もすぐに屈しません。イラン・イスラム共和国の多くの国民も、自分たちを苦しめる元凶はアメリカであると考え、ホメイニ師を支持します。

 

 

ちなみホメイニ師氏が亡命先をイランからアメリカとの同盟国であり、西側諸国であるはずのフランスに変えて入国できていた理由ですが、ホメイニは当初バーレーン、パキスタン、アルジェリアなどに行くことを考えていました。しかし側近がイランと通信が容易な西側諸国に移るべきであると進言。ホメイニ師はしぶしぶ応じて、ホメイニ師の家族と繋がりのある学生がいるパリへ移ることになります。またフランスのジスカール・デスタン大統領が、かつてパフレヴィー2世と会談した際に待たされたり、晩餐会での席の配置、贈呈品について非礼な対応をされたことに強い不満を持っていました。これがパフレヴィー2世のイランがアメリカとの同盟国であったにも関わらず、ホメイニ師のフランス入国を認めるきっかけなったのではと言われています。ところがフランス政府もホメイニ師の行動を次第に危険視するようになり、パフレヴィー2世にホメイニ師のフランスからの追放を提案しますが、パフレヴィー2世はホメイニ師がパリから追放されれば、イランに近づいて来ることをを危惧して提案を拒否しました。

 

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