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  大アヤットラー

 

イスラム教シーア派の特に秀でたイスラム法解釈書を著したアーヤットラーの称号である「大アーヤトッラー」の称号を名乗っているのはホメイニ師だけでなく何人もいます。この大アヤットラーは「アーヤト・アッラーフ・アル・ウズマー」ともいいます。

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ホメイニ師の師匠であるホセイン・ボルジェルディ師も大アーヤットラーの称号を名乗っていましたし、

 

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ホメイニ師よりも年下ですがイスラム法学者としてはホメイニ師よりも格上であったモハメド・カゼム・シャリアトマダリ師も大アーヤットラーを名乗っています。このシャリアトマダリ師はホメイニ師を大アーヤットラーとして認めた有力者でもありました。

大アヤットラーは権威者からはっきりした任命などがあるわけではなく、長い経験を積んで優れた法解釈書を著せば、自ら大アーヤトッラーを名乗ります。それに誰も異議をはさまずに、認められればそのまま大アーヤットラーの称号を名乗り続けられるといったものです。なので定数も証書もありませんし、大アーヤトッラーと名乗るものがいても、それが本当なのか確実なものではないのです。

これはシーア派もスンニ派もそうですが、イスラム教にはキリスト教のローマ・カトリックの神父のような聖職者、仏教の僧侶のように宗教に専従し教会や寺院を経営して、布教や冠婚葬祭などを専門とする者が存在しないのです。これはイスラム教の神であるアッラーの言葉を直接受け取ることが出来るのは ムハンマドだけとされ、イスラム教において、ムハンマドは「 最終にして最高の預言者 」と位置づけられています。なので信徒を仲介する権限はいかなる人間にも与えられていないので聖職者や僧侶が必要ないとされるのです。イスラム教では一般的な職業についている信徒が必要なときは法衣を着てコーランを読み、儀式を進行させます。イスラム教のモスクは自治体や非営利組織が運営をします。またホメイニ師のようなイスラム法学者は「学者」でしかなく、聖職者や僧侶ではありません。またイスラム教の創始者であるムハンマドも特別な存在ではなありますが、カトリックのローマ教皇のような最高位の聖職者ではありません。ちなみにキリスト教のプロテスタントも人間は皆同じ立場であると説くため聖職者をおきません。プロテスタントの儀式などを執り行う「牧師」は聖職者ではなく、一般信徒の代表でしかなく「教職者」と呼ばれたりします。

 

 

 

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  スンニ派とシーア派の違い

 

 

イスラム教はスンニ派とシーア派に別れていますが、イスラム教はこの2つの宗派しかないわけでなく、スンニ派とシーア派と大まかに大きくわかれているだけで、この2つの中にも様々な宗派があります。イスラム教が大きく2に分かれているのは複雑な経緯があるのですが、大雑把に説明すると創始者であり、イスラム教の指導者であったムハンマドが後継者を指名しないまま西暦632年に死んでしまいました。イスラム教の指導者は男性でないといけませんが、ムハンマドには生涯で13人程の妻がいて7人の子供が生まれましたが、6人とも幼い頃に死んでしまったりと短命で、残ったのはファーティマという娘1人だけでした。こうしてムハンマドの後に誰を指導者にするかでイスラム教内では対立が起こりました。ムハンマドの後継は「カリフ」と呼ばれ、このこのカリフを巡る対立ではムハンマドの血筋にこだわることなく、コーランやハーディスを正しく理解し、能力のあるものがカリフを務めるべきと考える勢力と信徒からカリフとして選ばれた者は、単なる信徒にすぎないので信仰上、間違えを犯すことがあるが、アッラーの言葉を聞くことの出来たムハンマドの血筋を受け継ぐ者は間違えを犯すはずがないので、能力だけでなく血筋を重んじてカリフを選ぶべきと信じる勢力に別れました。前者の信徒がスンニ派あるいはスンナ派といわれ、「スンニ」「スンナ」はアラビア語で「慣行・規範・先例」という意味です。後者の信徒がシーア派といわれ「シーア」とはアラビア語で「党」と言う意味です。

 

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  イスラム教の分裂

 

 

初代のカリフはムハンマドの親戚であったアブー・バクルという人物です。アブー娘の娘はムハンマドの妻の1人となり、アブーは若くしてムハンマドの義父にもなります。しかしアブーの後を継いだ2代目ウマル・イブン・ハッターブ、3代目ウスマーン・イブン・アッファーンの2人は暗殺されてしまいます。4代目のカリフはアリー・イブン・アビー・ターリブというムハンマドの父方のいとこにあたる人物で、いとこではありますが、ムハンマドの娘ファーティマの夫でした。ムハンマドのいとこといっても年が若かったため、初代のカリフには選ばれませんでした。

先代の3人よりもムハンマドのとの血縁が濃いアリーはシーア派が強く支持しました。なのでシーア派の「シーア」は「アリーの党派」という意味合いもあります。

しかしアリーも暗殺され、アリーの死後はムハンマドと同じ部族であるクライシュ族出身であり、父がムハンマドの側近の一人でもあったムアーウィヤという人物が内部対立を勝ち抜き、5代目のカリフを名乗ります。これまでのイスラム教は部族の集まりでもありましたが、ムアーウィヤはイスラム教に基づく国家の建設に乗り出し、ウマイヤ朝という王朝をつくり、ムアーウィヤ1世という初代国王となります。ウマイヤ朝はやがて中東のみならず東はウズベキスタン、タジキスタンの一部、西はモロッコ、ヨーロッパのイベリア半島まで勢力を拡大させます。

ムアーウィヤ1世は3代目のウスマーンの支持者で、ウスマーンの元でシリアを治めていましたが、ウスマーンが暗殺されると、4代目のアリーがウスマーン暗殺を企てたと考え、アリーと激しく対立して戦闘にもなっていました。このムハンマドとの血筋がなく、しかも支持していたアリーと対立したムアーウィヤ1世をシーア派は5代目のカリフとは認めませんでした。ムアーウィヤ1世は反抗するシーア派を弾圧します。

シーア派はアリーとその子孫だけを「イマーム」と呼び、ムハンマドの正統な後継の指導者としていました。西暦680年にはアリーの息子でイマームであるフサイン・イブン・アリーがムアーウィヤ1世の息子で6代目カリフであり、ウマイヤ朝の2代目国王であるヤズィード1世と対決するカルバラーの戦いが起こりますが、フサインが殺されてしまいシーア派は敗北、これがきっかけでイスラム教はとうとうスンニ派とシーア派に大きく分裂することが決定的となってしましました。

 

 

  12イマーム派と分派

 

 

 

 

後にシーア派もアリーの子孫の誰を後継者にするかでいくつか分派していきますが、シーア派内の1番の多数派は主にイランで主流の「12イマーム派」です。日本で「スンニ派」といえば、この12イマーム派を指します。12イマーム派ではアリーが初代でその子孫の12代目までをイマームとします。もちろんホメイニ師のような大アヤットラーはイマームではありません。12代目のイマームであるムハンマド・ムンタザルは9世紀この世から姿を消し、その間はイマームは不在となるが、世界の終末に再び現れて救世主となると説きます。シーア派の主な分派にはインドやパキスタンのイスマーイール派、イエメンのザイド派、異端のような存在であるシリアのアラウィ―派などがあります。
スンニ派は宗教的な分派がありませんが、イスラム法の解釈の違いで、主にハナフィー学派、マーリク学派、シャーフィイー学派、ハンバリー学派という4大学派が存在します。

初期のイスラム教にはまたスンニ派ともシーア派でもないハワーリジュ派という少数派がおり、現在ではその流れを組んだ唯一分派であるオマーンのイバード派が存在しています。

 

 

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