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  白色革命の成果

 

白色革命の「白色」とは「皇帝・国王が命じた」という意味です。フランスで「白」がブルボン朝の国王を象徴する色であったので、白色は皇帝・国王を意味するようになりました。皇帝・国王側が反対勢力の指導者を暗殺する行為は「白色テロ」と言われます。イランの白色革命も、国王が自ら行う変革なのでそう言われています。

 

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パフレヴィー2世は白色革命を進める中で、財務省から予算編成の権限を企画庁に移し企画予算庁に変えて権限を強化し、王族などの支配層の利権を守りながら、白色革命の目的の一つである、経済発展に多くのイランの資源が向かうように指導しました。パフレヴィー2世は自身は重要な外交案件、軍事と石油外交以外の分野には細かく口出しはせず、経済政策を若手官僚たちにほとんど任せます。ただ経済政策においてパフレヴィー2世は拒否権を持ち、意にそぐわない企画予算庁の決定を覆すこともありました。この白色革命もアメリカの支援の下で行われました。

 

 

こうしてイランは経済成長率が1964年から1976年までの12年間で平均約12%となる高度成長を成し遂げます。イランのGDPも1964年は約53億8000万ドル、1966年は67億9000万ドル、1968年は約86億2300億ドル、1972年は約171万5000億ドル、1974年は約462億1000ドル、1976年は約680億6000万ドルと12年で約12.6倍にもなりました。1960年代のイランは大きなインフレもなく安定した経済発展ができていたのです。

 

 

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  白色革命の弊害

 

白色革命は成功したかに見えました。ところがイランの実情を無視して強引に行われたことも数多くあり、その弊害が出始めます。
外国からの輸入品を載せた船がやってきても、港湾施設が劣悪で、荷揚げに時間がかかって船が長く待たされたり、発電能力、輸送能力や通信設備などの容量は不足して物資の輸入・輸送の遅れや頻繁な停電が起こり、生産の足かせとなります。大地主の土地を零細農民に分け与えても、水源から用水路と耕地を結ぶ灌漑をつくるお金がなく、土地で耕作ができなくなり、たくさんの農民が土地を放棄して都市に流れ込んできました。これらの農民は必要な労働力にもなりはしましたが、多くの農民は教育を受けておらず識字率も低く、インフォーマルセクターという店舗を持たずに路上で商売を行ったり、行商を行ったり、ゴミを集めるなどといったような仕事しかできず、都市では大規模なスラムも形成されてしまいました。

農業生産は低下し、食糧も不足、輸入しないといけなくなります。各産業が求める専門職や技術職の人材も大変不足し、企業の一部は高い賃金で技術や知識のある外国人労働者を雇うはめになりました。そもそもイランは近代化するための基礎ができていなかったのです。なのでイランはアメリカの支援で投資をしても、投資に見合あう利益が出なくなります。

 

 

にもかかわらずパフレヴィー2世はオイルショックの石油価格暴騰で得た莫大な収入も白色革命につぎ込み、積極的な金融政策や財政政策を行って通貨量は急増。消費財への需要が高まったうえに、先程の述べたような人材不足や脆弱な社会資本で消費財の生産費用が高騰して、イランは1970年代からCPIが20%を超えるような年もあるひどいインフレが続き、民衆の生活が苦しくなりました。また政治家、官僚、王族が職権や地位を濫用して、不正な行為をする汚職や賄賂が横行します。貧しい人々は見捨てられ、国王やアメリカやヨーロッパの西側諸国のにすり寄る者だけがどんどん金持ちになっていき貧富の差も拡大しました。

 

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  イスラム教の軽視

 

 

イスラム教徒の女性は「ヒジャーブ」という髪の毛を隠すベールを着けます。「ヒジャーブ」とはアラビア語で「隠す」という意味です。イスラム教の経典コーランにはっきりヒジャーブをつけるようにと書いてはいません。「女性は顔と手以外は人に見せてはいけない。」「女性が人前に出るときは、必ず長衣で頭から足まですっぽり体を包み込めば、害されない。」書かれています。

イスラム教は人間は弱い存在で誘惑に負けやすいとされ、そのため、髪の毛のような魅力的な女性の美しい部分を隠しておくことで女性が男性からいやらしい目でみられることや、男性が誘惑に負けて罪を犯すことをを妨げるという考えがあります。同時に、女性を顔立ちや体型といった容姿ではなく内面で判断するようにという考えもあります。コーランには女性をじろじろみてはいけないとも書かれており、男性も厳しく律しています。

イスラム教では女性は男性に比べて理性的な判断に劣るとれており、女性の選挙権と被選挙権は認められません。また一夫多妻制が認められており、これは男性のためではなく、女性の家事や育児の負担を軽くするためのものです。しかしパフレヴィ―2世は白色革命で、女性の自由をうたいヒジャーブの着用を禁止。女性の選挙権と被選挙権を認め、一夫多妻を禁止し、一夫一妻制としました。

またイラン人をイスラム教ではなく、民族意識で鼓舞するため1971年10月にアケメネス朝ペルシア帝国の遺跡ペルセポリスでイラン建国2500年祭典を開催。日本の皇族の三笠宮崇仁親王や西側諸国・東側諸国、そのどちらにも組しない国々の首脳や王族なども招いた盛大な式典で莫大な費用が投じられました。その反面1957年3月に「サヴァク」という、反体制勢力を隠密で監視・摘発などを専門に扱う、秘密警察を創設し、パフレヴィ―2世に反抗する大勢の人々を捉えて残虐な拷問を行い、殺害しました。

このようなイスラム教の軽視、国の事情を無視した急激な改革、反体制勢力のへの弾圧にイランのイスラム教シーア派の知識人たちが激しく反発します。

 

  ルーホッラー・ホメイニ師

 

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シーア派のルーホッラー・ホメイニ師はパフレヴィ―2世に対する抵抗運動を白色革命の早い時期から民衆に呼びかけていました。イスラム教は聖典コーランに書かれていることを基本として、知識人たちが長い歴史の中でつくり上げたイスラム教徒が守るべき戒律である「イスラム法」があります。イスラム法は浄め・懺悔・礼拝・施し・断食・巡礼・葬儀などに関する「儀礼的規範」と婚姻・離婚・親子関係・相続・契約・売買・訴訟・裁判・非イスラム教徒の権利義務、犯罪・刑罰・戦争など「法的規範」があり、前のドバイに関するブログで、異性同士のキスや酒に酔って外出したりすることが禁じされていると述べましたが、これらがイスラム法によるものです。

ホメイニ師もイスラム教の知識人であり、このような知識人は「イスラム法学者」といいます。ホメイニ師は優れたイスラム法学者として1930年頃から世間で有名になっていました。1941年頃からは、パフレヴィ―2世の独裁にも反対します。イスラム法を厳格に実践するホメイニ師はシーア派指導層の信用や信徒の支持を得て、1950年代初頭にはシーア派におけるイスラム法の権威の称号である「アヤトッラー」を授かります。1960年初頭には、特に秀でたイスラム法解釈書を著したアヤットラーにだけ送られる「大アヤトッラー」の称号を授かり、これでホメイニ師はイランのシーア派の実力者の一人になりました。

イラン国民の多くがイスラム教シーア派の信徒でもあるため、民衆への影響力を恐れたパフレヴィ―2世はホメイニ師を1963年6月から自宅に軟禁します。しかし民衆が軟禁に抗議するデモを起こし、軍が弾圧。その状況が世界のメディアに流され、国際社会からイラン政府は非難されます。このためパフレヴィ―2世は1964年4月にホメイニ師を開放。しかしホメイニ師は反体制運動を続けたため1964年11月には逮捕されました。この時ホメイニ師は死刑を宣告されたのですが、サブァクのハッサン・パクラヴァン長官が、影響力が強いホメイニ師を死刑にすれば、民衆が激怒するとパフレヴィ―2世に猛反対します。パフレヴィ―2世もそれを受け入れ、ホメイニ師は死刑を免れトルコ北西部のブルサに追放されます。

1年後にはイラク中部のシーア派の聖地ともいえるナジャフに逃れました。ホメイニ師はそこで弟子を育成し、本も出版してイランの民衆にパフレヴィ―2世への抵抗を約13年に渡り呼びかけ続けました。イランではオイルショックの後で石油価格が下がり、白色革命はいよいよ行き詰まり民衆の生活は苦しくなるばかり。パフレヴィ―2世は権力をより強化するため、それまで二大政党制だった議会を1975年に一党制にしてしまいます。それを激しく批判したホメイニ師の演説のカセットテープがイランに持ち込まれて広まっていき、民衆の不満がどんどん高まる一方となります。

Y.H X(旧Twitter)

 

 

 

 

 

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