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  加重平均

 

 

ちなみに、前のブログのIMFのSDRの算定基準で「加重平均」という言葉が出てきましたが、この加重平均はよく経済で使われる計算なので簡単に説明します。仮にあるスーパーでは、玉ねぎが1個150円、じゃがいもが1個100円で売っていたとします。ある日、スーパーでは玉ねぎが300本、ジャガイモが200個売れました。にんじんとジャガイモをあわせた平均単価を計算するとなると、(150+100)÷2個=125で125円ですが、2つの単価の単純に足して2で割るのは算術平均です。しかし算術平均では正しい平均単価にはなりません。正しい平均単価を求めるには、合計の売上高を、合計の売上個数で割る必要があります。売上高は、玉ねぎ4万5000円、ジャガイモが2万円で合計6万5000円、これを合計の売上個数500円で割ると6万5000÷500=130。正しい平均単価は130円になります。この算術平均のように単純に平均せず、平目それぞれの「量」の大小を反映する計算方法が加重平均です。この「量」は「重み」「ウエイト」と一般的にいわれており、人数、個数などに当たります。加重平均は株式指数にもよく使われます。

 

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  20世紀前半のイラン

 

1978年1月、中東の産油国のイランで「イラン革命」という革命が起こります。これが第二次オイルショックという再度の石油危機につながるのですが、ここからはイラン革命が起こった原因を解説していきます。
イランは1785年からアーガー・モハンマド・ハーンさんが打ち立てたガージャール朝支配し、国王の専制政治が行われていましたが、専制政治に反対する知識人の活動と民衆の蜂起によって1905年12月からイラン立憲革命が始まります。この革命で国王が憲法などの法に基いて政治を行う立憲君主制や議会・選挙制度が成立しました。イラン立憲革命は日露戦争で皇帝の専制政治が行われているロシアが立憲君主制の日本と戦って敗北したことがきっかけでした。

ガージャール朝のモザッファロッディーン国王から石油採掘の利権を獲得ていた、イギリス系オーストラリア人実業家のウィリアム・ノックス・ダーシーさんは1908年5月にイランの北西部マスジェデ・ソレイマーンで大規模な油田を発見します。これが初めての中東における最初の近代的掘削による油田発見となりました。しかし、イラン採掘や石油の販売といった利権は現在のイギリス石油メジャーBPの前身であるアングロ・イラニアンが独占するようになり、イランには石油の利益はほとんどありませんでした。ガージャール朝はオスマン帝国、イギリス、ロシアと後のソビエトの侵略とクーデターで弱体化。1925年10月にガージャール朝の廃止を議会が可決し崩壊。1926年4月に混乱していた国をまとめたレザー・ハーン首相がパフレヴィ―朝を打ち立て、議会にレザー・パフラヴィー国王として認められます。

 

 

第二次世界大戦でイランはイギリスとソビエトに反抗するためドイツに協力しますが、1941年8月にソビエトとイギリスが本格的にイランに侵攻。北はソビエト、南はイギリスに占領されます。レザー・パフラヴィー国王は両国の圧力で退位させれ1941年9月に、その息子であるパフレヴィ―2世が2代目国王として即位します。

 

 

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  1953年8月のクーデター

 

 

イギリスはイランを長期間占領する余裕や価値がないため、戦後撤退しますが、ソビエトは居座り、イランが交渉してなんとか撤退させました。1951年4月のイランの選挙で法学者で議員でもあったモハンマド・モサッデグ博士がパフレヴィ―朝の元で首相となりました。

イギリスは戦後もイランの石油産業は独占し続けていました。モサデッグ首相は石油産業を国有化し、油田や石油生産設備からアングロ・イラニアンを追い出しイギリスに反抗します。これにイギリスが猛反発、モサッデグ首相はかつてイランから撤退させたソビエトに接近しますが、モサデッグ首相はイランが共産化することを警戒しており、ソビエトもそんなモサデッグ首相を積極的に受け入れませんでした。ますます怒ったイギリスはメジャーと協力してイランの石油を国際市場から締め出してしまいました。これでイランは大きな石油減産に追い込まれ財政難に陥ります。モサッデグ首相の支持基盤も様々な勢力の寄せ集めで脆弱だったため、支持も失われていきます。

イギリスはウィンストン・チャーチル首相が1952年後半から石油産業の利権を取り戻すためにアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に法を無視して武力で政権を転覆させるクーデターの支援を要請します。しかしトルーマン大統領はクーデター支援の正当性が乏しく、イギリスがイランの石油産業を独占していることへの不満もあり、イランとの仲介役にまわるだけでした。ところが次のドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー大統領は、イギリスと協力してソビエトに対抗することを1番に考えました。イギリスもグーデター支援の見返りに、独占していたイランの石油産業の利権をアメリカにも分けると約束したので支援を了承します。

アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は弟であるCIA(Central Intelligence Agency:中央情報局)のアレン・ダレス長官とともにクーデタ計画を練ります。パフレヴィー2世はアメリカ、イギリス寄りの人物で、モサデッグ首相のソビエト接近に反感を持っていました。そこでアメリカはパフレヴィー2世に接近。モサッデグ首相に反対するパフレヴィ―2世の支持勢力にも資金提供して、1953年8月に大規模なデモを行わせてクーデターを誘発。モサッグ首相は逮捕されてしまい、不当な裁判で死刑判決を受けます。ただ刑は執行されず、晩年は貧しい農民たちに無償で食事や医療を提供する活動などに力を入れ、1967年に死去しました。

このクーデターはイラン国民に、自由と民主主義を標榜しているはずのアメリカは、その国益のためには自分たちが選挙で選んだ首相さえ捕える偽善の国であるという印象を植え付けました。

 

  クーデターを起こしたCIA

 

 

アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は弟であるCIA(Central Intelligence Agency:中央情報局)のアレン・ダレス長官とともにクーデタ計画を練ります。パフレヴィー2世はアメリカ、イギリス寄りの人物で、モサデッグ首相のソビエト接近に反感を持っていました。そこでCIAはパフレヴィー2世に接近。モサッデグ首相に反対するパフレヴィ―2世の支持勢力にも資金提供して、1953年8月に大規模なデモを行わせてクーデターを誘発します。

モサッグ首相は逮捕されてしまい、不当な裁判で死刑判決を受けます。ただ刑は執行されず、晩年は貧しい農民たちに無償で食事や医療を提供する活動などに力を入れ、1967年に死去しました。このクーデターはイラン国民に、自由と民主主義を標榜しているはずのアメリカは、その国益のためには自分たちが選挙で選んだ首相さえ捕える偽善の国であるという印象を植え付けました。

CIAはバージニア州ラングレーに本部を置き、国防のために、国外の収集・分析し、政府首脳に報告する政府の情報機関です。スパイを要請してアメリカと敵対する国の政治・軍事・経済など諸般の情報を合法あるいは非合法な手段によって収集する諜報を行ったり、アメリカに友好的な国外の政権や政治勢力への援助、敵対する国外の政権や政治勢力の打倒、それらの指導者の暗殺も行います。クーデターはイギリス政府の情報機関であるSIS(Secret Intelligence Service:秘密情報部、通称「MI6」)も加担していました。

イランはパフレヴィー2世の独裁政治となり、石油産業もイギリスやアメリカのメジャーに独占されました。ところがパフレヴィー2世の独裁は政治腐敗を引き起こし、アイゼンハウアー大統領の次のケネディ大統領からは政治を改革しなければ支援をしないといわれます。そこでパフレヴィー2世1963年1月、アメリカやヨーロッパの西側諸国の一流大学出身の国際経験豊富な若手を官僚に登用、アメリカのコンサルタント会社の力まで借りて企画庁という組織をつくり、イランの近代化を図る「白色革命」を打ち出しました。白色革命では大地主の土地を零細な農民に分配する農地改革行い、農民の不満解消に努めると共に、都市・地方の再開発、原子力発電所・高速鉄道・製鉄所の建設、工業化の推進、森林・牧草地・水源の国有化、労働者の待遇・収入改善、女性参政権の実現、識字率の向上、教育の向上と無償化などを推進していきます。しかしパフレヴィー2世の独裁政治はますます強固なものにもなりました。

 

 

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