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  ロシアの近代化

 

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この講座では19世紀中頃から世界恐慌の頃までのロシアはどうなっていたかも触れておきます。ロシアでは皇帝による民衆を意のままに支配する専制政治が長く続き、民衆の生活は苦しいものでした。中世のヨーロッパやロシアでは「農奴制」という社会制度があり、19世紀中頃のロシアでは「農奴」と呼ばれる身分の農民がまだ多数存在していました。農奴とは領主貸し与えられた土地を耕作し農民です。移動の自由がなく、領主のために労働する義務、領主に様々な税を払う義務があり、領主間で土地とともに売買されました。ただ奴隷と違い、家畜や労働手段を持ち、家族を養い財産を子に残す権利は持っていました。

クリミア戦争でロシアが敗北し衝撃を受けた当時のロシア皇帝、アレクサンドル2世は国と軍備の近代化を考えて国の改革を行います。アレクサンドル2世は農奴制は農民の徴兵の邪魔になると考え、農奴に土地を与えて自由にするために1861年3月に農奴解放令を出します。しかし与えられる土地は有償で、農民にはそんなお金はなく、不完全なもので農奴制は20世紀初頭まで残ることになりました。しかしこの改革でロシアでは工業化が進むことになりました。ただ労働者の生活は苦しいもので、資本家に対して処遇改善を求める労働運動も盛んになりました。

 

 

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  共産主義の流入

 

労働運動が激しくなる中、労働者や農民の貧困の解決を模索していたロシアの思想家の中で19世紀末、西ヨーロッパに移住した者たちはドイツの思想家であるカール・マルクスさんとフリードリヒ・エンゲルスさんが提唱した共産主義に触れます。世界の国々の経済のしくみは個人が自由に財産を持ち、商売できて利潤を上げようとする仕組みであるの資本主義で、資本主義の下では売り手や買い手が自由にモノ・サービスの売買を行い、その需要と供給がバランスよく行われ、モノ・サービスとお金が効率よく流通するような経済が市場経済がとられます。しかし資本主義は貧富の差を拡大させ、資本家の搾取や失業を生みます。資本主義に対して共産主義は財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を国民が共有することによって、貧富の差、資本家の搾取、失業のない社会を実現しようとする思想でした。

こうしてロシアに共産主義が入り込み、1898年3月には共産主義政党であるロシア社会民主労働党が結成されました。

 

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1904年2月に起こった日露戦争でロシアが敗北したことをきっかけに、1905年1月、民衆がロシアの首都のサンクトペテルブルクで各地で戦争反対や生活改善を求めて大規模なデモを起こすロシア第一革命が起こりましたが、当時の皇帝ニコライ2世は武力で弾圧します。それまで多くのロシアの民衆はニコライ2世を信頼しており貧困は皇帝のせいではなく貴族、官僚、地主、資本家などのせいだと考えていましたが、これがきっかけでニコライ2世は信頼を失います。その後もロシア各地で騒乱が起こり、ニコライ2世は民衆に少し譲歩し事態を治めましたが、すぐ専制政治を強化して民衆を抑圧。民衆の不満は高まっていきます。

 

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この頃から「ソビエト(:Soviet:会議、話し合いと言う意味)」という労働者や農民が権利を主張する集団が数多くつくられ、ロシア社会民主労働党もソビエトに入り込みましたが思想家のウラジミール・レーニンさんが率いる、武力により急いで共産主義革命を進めることを主張する武闘派のボリシェヴィキと穏健派のメンシェビキが党の路線を巡って対立し1912年1月に党は分裂状態になります。

 

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  ロシア革命の勃発

 

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第一次世界大戦でロシアはイギリス、フランスと共に敵国であるドイツと戦いましたが、軍の近代化が遅れていて敗北が続きました。国内では農村の働き手が次々と兵隊にとられ、穀物を輸送する鉄道も、戦争優先となります。こうしてロシアは農業生産が激減したうえに、穀物が国内で行き渡らなくなり、食糧不足が深刻化しました。度重なる敗戦と生活苦や食糧不足に怒った民衆は、1917年3月(当時のロシアの暦では2月)ソビエトを主体にして再びサンクトペテルブルクでニコライ2世の打倒と戦争離脱を叫び、2月革命という大規模なデモを起こします。ニコライ2世はまた武力で弾圧しますが、生活が苦しい兵士たちも多かった軍も民衆のソビエトに味方し、ロシア各地でソビエトの騒乱が起こります。こうしてニコライ2世は退位してロシア帝政は崩壊しました。11月(当時のロシアの暦では10月)にはロシア帝国政府の弾圧でスイスに亡命していたレーニンさんがロシアに戻り、ボリシェビキを指導して反対勢力を武力制圧する10月革命を起こし、政権を奪取しました。これら2月・10月革命が「ロシア革命」と一般にいわれ、広義の「ロシア革命」は第一革命も含みます。

ボリシェヴィキは1918年1月に「赤軍」という軍隊を創設。2月にはドイツなどと戦いますが敗れます。3月にはボリシェヴィキはロシア共産党と名称を変え、ドイツとブレスト=リトフスク条約(ブレスト条約)を結び、多くの領土をドイツに割譲。ロシアは第一次世界大戦から離脱。5月にはロシア帝国軍の元将校たち、ニコライ2世の支持者、メンシェヴィキや他の政党などまだ多く残っていた様々な反対勢力と赤軍との激しい内戦が勃発します。ロシア共産党は自分たちに反抗する勢力はすべて「白軍」と呼び、ひとくくりにしました。アメリカ、フランス、イギリス、日本などの資本主義国の列強は共産主義革命が自国に波及し為政者の地位が危うくなること、講和したドイツにロシアから物資が流れることを恐れ内戦に干渉。軍隊を送り込み、白軍の一部を支援しロシア共産党を倒そうとします。

 

  戦時共産主義

 

 

ロシア共産党はこの白軍や列強との戦いに勝つため、6月に「戦時共産主義」といわれる急激な共産主義化を推し進めます。農民から穀物をただで強制的に徴収し、食糧を配給制にしましたが農民が反発、そのため穀物生産は2月革命・10月革命前は7400万トンあったのが3000万トンに激減しました。私的な会社も禁止して、あらゆる会社を国有化、日用品の配給制、外国貿易の党の独占、鉄道を党が管理するなどししましたが、戦時共産主義はうまくいくはずもなく1918年から1920年までの間にサンクトペテルブルクの人口の75%、モスクワの人口の50%が流出。1921年までの工業生産額が1913年水準の20%にまで落ち込み、ロシア経済は壊滅状態になりました。7月にロシア共産党は捕らえていたニコライ2世一家を白軍に奪還されることを恐れ処刑。ロシア共産党に対する民衆の反乱も頻発します。

壊滅したロシア経済を立なおし、民衆の不満を抑えて戦いに勝つため、1921年3月レーニンさんは戦時共産主義を改めて、NEP(New Economic Policy:新経済政策)を採用して市場経済を取り入れます。小さな会社や中くらいの会社なら私的経営を認め、農民は新しくできた食料税を払って余った穀物を市場で売ることを認めました。これでロシア経済は持ち直しました。列強は第一次世界大戦でドイツを倒すと、内戦の干渉は無益であると考えロシアから兵力を減らしました。そもそも列強の軍隊は士気が低く、白軍は内紛も繰り返えしたため、兵力・戦術・戦略・統制力に勝る赤軍がなんとか1922年11月に内戦に勝利。壊滅したロシア経済を立て直すため。これでロシア経済は少し持ち直し、1922年12月にはロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシの4つの共和国から成るソビエト社会主義共和国連邦が成立します。

 

 

レーニンさんは1923年7月に首相にあたるソビエト連邦人民委員会議議長に就任しソビエトの最高指導者となりますが、1924年1月に死去します。実はレーニンさんは最高指導者ではありますが、国家元首ではありません。

 

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国家元首にあたるのは全ロシア中央執行委員会議長と言う役職で、古参党員であるミハイル・イヴァーノヴィチ・カリーニンさんが務めましたが、政治に実権がありませんでした。

 

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