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URUオンラインスクールは主に起業や経営について学ぶものですが、竹花さんが日本経済について語った動画を見て、なぜ日本は今の経済状態になったかに興味を持ちました。またそれを知るためには日本経済に影響を与えた国際政治の歴史も勉強すべきと思い、学んだ知識を使ってブログを書きました。このブログの参考になった動画は一部公開ですが、YouTubeで以下のリンクから見られます。全て見たくなった方はぜひURUオンラインスクールに入学してください。

 

 

 

  イラク軍の苦戦

 

強大な軍事力のイラク軍は脆弱なイラン・イスラム共和国軍を圧倒し、イラン南西部の都市であフーゼスターン州のホッラムシャフルを占領します。その近くのアーバーダーン島に攻め入りますが、イラン軍は激しい反撃に逢います。士気が高いイスラム革命防衛隊の猛攻があったのです。

 

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弱体化していたイラン・イスラム共和国空軍も予想外の奮戦でイラク軍アーバーダーン島を占領することができず、1981年9月には後退を始めます。1982年5月にはイラン・イスラム共和国がホッラムシャフルを奪還。イラク軍は大損害を被り、増援もままならず、士気も低下。イラン領内からほとんど撤退します。イラン・イスラム共和国が予想外に協力でこのままでは戦争を続ければイラクの敗北もあり得ると恐れたフセイン大統領は、和平を模索しはじめ、即時停戦と2週間以内のイラン領土からの撤退を提案します。ところがホメイニ師はこの和平提案を拒否、バース党はイスラム教シーア派の敵であり、バース党を倒して賠償金を支払わせ、シーア派の政権をイラクに打ち立てるため、戦争を続けると宣言します。7月にイラン・イスラム共和国はイラク南部バスラ近郊で攻撃を開始しましたが、これはイラン軍の強固な防衛に阻まれ失敗、その後はお互いに一進一体の攻防が続きました。

 

 

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  アメリカとソビエトのイラク支援

 

イラクはソビエトから武器を大量に輸入していましたが、バース党はそもそも反共産主義であり昔からイラクとソビエトは関係悪化と和解を繰り返していました。イラクとの関係がまた悪化していたソビエトは反米であるホメイニ師のイラン・イスラム共和国を東側諸国に引き込もうと画策もします。共産主義に批判的でソビエトに不信感を持つホメイニ師は、ソビエトと手を組もうとはしません。このホメイニ師の態度と、イラクが苦戦したことにソビエトは考え方を変えます。

ソビエトは国内や同盟を結ぶ東側諸国に多数のイスラム教徒を抱えており、イラン・イラク戦争でイラン・イスラム共和国が勝利すれば、イラン革命の影響が国内のイスラム教徒に波及し、反乱が起こって各地の共産党政権が打倒されるかもしれないと考えました。

 

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それに1979年12月からソビエトはアフガニスタンに樹立された共産主義政権に対するイスラム教徒の反乱を鎮圧するため、大規模な侵攻を行っていました。アフガニスタンにイラン革命の影響が波及するとイスラム教徒が勢いづくことも恐れるようになります。イラン・イスラム共和国の勝利を望まなくなったソビエトにフセイン大統領は巧みな外交で悪化した関係を改善して、軍事支援を得ます。

当初中立だったアメリカも、イラン・イスラム共和国の反撃でイラクが敗北すれば、イスラエルやサウジアラビアなどの中東の親米国が脅威にさらされることを恐れ、またイラクをソビエトから遠ざけるため、レーガン政権は1982年2月からイラクの支援に乗り出し、後の1984年11月にはアメリカとイラクは国交を回復します。エジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦などの多くのアラブ諸国も、国内のシーア派や過激なイスラム教徒による反乱などを恐れて、イラクを支援します。

 

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  イランへの支援

 

イランを公に支援するのはイスラエル及びアメリカへの敵対しパレスチナ支持するなど、利害が共通していた中東のシリアとリビアでした。

 

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リビアの最高指導者のムアンマル・アル・カダフィー大佐は、自らアラブ諸国の盟主になろうとしており、同じように盟主になろうとしてたイラクのフセイン大統領はライバルでした。そのためフセイン大統領がペルシア人であるホメイニ師に敗北することを望んでおり、イランを支援したのです。あと意外にもイスラエルがパレスチナ問題で敵対していたはずのイランに秘密裏に軍事支援を行っていました。イラン・イスラム共和国軍の兵器はほとんどがパフレヴィー2世が購入したアメリカやイギリス製で、その整備に必要な部品などが必要でした。イスラエルはイラン・イスラム共和国よりもソビエトと手を組んでいたイラクの方が大きな脅威とみなしていました。そこでイラン・イスラム共和国は兵器の部品などをイスラエルから調達できないかと、秘密交渉を行います。

当時、イラン・イスラム共和国には約8万人ものユダヤ人がいたといわれており、その安全を守るためにもイスラエルは交渉に応じ、秘密裏にイラン・イスラム共和国に石油と引き換えで軍事支援を行いました。パフレヴィー2世のイランはアメリカと同盟を結ぶ西側諸国であったにもかかわらず、アメリカ一辺倒の外交ではなく、ソビエトと同盟を結ぶ東側諸国にも影響力を持つためにルーマニア、ドイツ民主共和国(東ドイツ)友好関係をつくっていました。

北朝鮮は外交で大韓民国に勝とうと、アラブ諸国との関係構築を模索し、パフレヴィー2世時代のイランと関係をつくります。北朝鮮はイラクとも関係を持っていましたが、石油や資金の援助の条件をめぐり対立してイラクとは離れ、イラン・イスラム共和国と同じ反米で結束し、北朝鮮は公然と軍事支援します。この北朝鮮との友好関係は現在まで続くことになりました。この他、パキスタンと現在のイエメン共和国の南部にあたる南イエメン人民民主共和国がイランを支援します

 

  中国の支援

 

 

中国は1950年代からソビエトと共産主義思想の違いを巡り対立しており、ソビエトが影響力をアジアで拡大させることを防ぐため、パフレヴィー2世のイランと強固な関係を築きます。このため、当初イラン・イスラム共和国政府から信用されませんでした。しかし中国はソビエトに対抗し続けるためににイラン・イスラム共和国との関係つくろうと、アメリカ大使館人質事件で国連安全保障理事会による人質事件に対するイラン・イスラム共和国への制裁決議に棄権し、イランを支持、イラン・イラク戦争中イラン最大の兵器輸入国となります。他方、中国は第三次、第四次中東戦争でイラクに大量に武器を輸出しており、1971年には中国の国連常任理事国入りをイラクが認めるほど深い関係がありました。中国はイラン支援でイラクの反発を避けるため、イランの2倍にもなる量の兵器を輸出します。中国は両国の内政への干渉を避け、戦争の責任をどちらの側にも負わせず、アメリカとソビエトの対立とは一線を画し、中国は同じ発展途上国としてイラクとイラン・イスラム共和国との類似性を強調し、両国とうまくつきあって軍事支援をします。あとイラクを支援しているはずのフランスは秘密裏にイラン・イスラム共和国に大量の砲弾を秘密裏に輸出。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、東ドイツ、イタリアも中国やイギリスのように両国を支援します。しかし両国を支援するの国の目的は自国の利益のためであり、多くの国はイランが戦争に勝利して革命の影響が世界各地に波及するは危険視しており、イランの圧倒的な勝利を望んではおらず、イラクが勝つか、イランが勝っても国力が疲弊することを望み、イラクの支援を手厚くします。実は人質事件で苦しめられ、敵対しているはずのアメリカさえも、なぜか戦争の後になってイラン・イスラム共和国を秘密裏に軍事支援をします。

 

 

このように30ヵ国以上の国が、イラク、イラン・イスラム共和国、あるいは双方に軍事、財政支援を行いました。戦争は激しい攻防が繰り返され、長期戦となりますが次第に支援の量に勝るイラクが有利になっていきます。

 

 

 

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