芥屋 -5ページ目

芥屋

ワンピースの王下七武海と歴史上の織田信長公を愛する自己満ブログ!!

何これ!ものすご行きたい!!


http://www.azuchi-shiga.com/201009-shirodemeguru.pdf  


信長公のゆかりの地を巡るツアー!!


ぎゃぼーーーーー!!!!・°・(ノД`)・°・行けるかぁぁぁぁ!!(泣


しかも、限定四十名だし・・・。


どのみち、もう満員だろうから無理かな・・・。だって上様人気だもん。


あーもう!本気で現実逃避したい!!


誰か私に一千万ほど恵んで下さい。


そのお金で私は旅に出ます。


私が幸せなら世の中みんな幸せだよ(黙れ


ふぅ・・・駄目だ、何処にも行けないって本当ツライ(´・ω・`)


何で私こんな田舎に住んでいるの?信長ラーメン食べたい。


あーでも一番ツライのは回りに歴史に詳しい人が皆無なので誰とも語れないことですね。


語れないからこうしてブログを書いている訳ですけど、まだそれでは欲求不満というか←


私はまだまだ勉強不足でブログだから偉そうに書いたりもしていますが、まだまだ無知でそれで色々な歴史家さんの本を買ったりして読んだりしているわけですが、もっと色々なたくさんの人の意見を聞いてたくさん学びたいんですよね。


とにかく、そういう欲求不満が溜まって軽くストレスですね・・・。(´д`lll) はぁぁー


あ、何かすみませんちょっと暗い内容に・・・・(^▽^;)


でも、あの信長ツアーを見つけた時は泣きたくなるくらい羨ましかったです。

芥屋-2010091323020000.jpg

観ました。

…?

「織田軍の配下が裏切る」という嘘の情報を流して勝頼を誘き出す。

…初めて聞きました。
そんなのあったっけ?
通説でも聞いたこと無いんですが…いや、しょせん○HKだ。深くはつっこむまい(-_-;)
でも、こんな番組でも上様が褒められると上様ファンには嬉しいものでニヤニヤしながら観てました(キモイ
先日に行われた名古屋おもてなし武将隊と伊達武将隊の共演の動画があったので観てみました。

うん…悪いが伊達武将隊は名古屋おもてなし武将の迫力や演舞の上手さに完璧に負けている(^_^;)
まぁ、まだ新人さんだから仕方ないね。
結局、信長さまが仕切ってしまってるし。
伊達武将隊を信長さまが紹介していく時、分かりやすく皆に教えていく辺り流石だなって思った。
やっぱ、あの信長さまはスゴいですね
(・∀・)
信長さまが政宗に似た黒い人に

「誰にタメ口きいとんじゃ!」

って言ったのが面白かった。
そして、最後に

「わしらは天下布武のために一生懸命生きる!政宗!ついてこい!!」

「御意!!」

と信長さまと政宗の対話。(うろ覚え
ていうか、信長さま、既に伊達を家臣扱い!?
信長さまのカリスマ性半端ねぇ!!

でも、史実では織田と伊達はなかなかの友好関係を築いていたし。
政宗は上様を尊敬していた節があるし。
もし本能寺の変が無かったら、本当にあんな会話があったかも…!?なんて(笑)
歴史にもしもは無いけど、こういう事を考えるのも楽しいよね!
そう言えば明日は名古屋城で名古屋おもてなし武将隊と伊達武将隊が共演するそうですね(・∀・)
良いなぁー楽しそうー!
でも、行けない。
つか、暫く何処にも行けない!!(泣)
いやぁ、ちょっとお金がね…(^_^;)
あーでも、辛い。
お城もまだ名古屋城と岐阜城と安土城祉と熊本城くらいしか行けてないし…。
もう現実逃避して今すぐ清洲城に行きたい!(一回行ったけど定休日で中に入れてないorz
神社仏閣も色々回ってみたいし…
ていうか、実はお城とか戦国とか上様とか関係無しに日本全国色々旅してみたい!!
昔から旅に憧れているんですよねー。
お城&神社仏閣巡りかつ日本列島の旅ってのが一番良いかも!
めちゃ金かかるけど!!
ある意味、それが将来の夢ですね!
もっとお金を稼げるようになったらもっと色んなとこに行きたいのだ\(^o^)/

戦国のグルっぽで織田兵衛さんが信長公の大量虐殺について書かれていたので、誤解を解く為に改めてブログできちんと説明したいと思います。

織田兵衛さんの様に比叡山焼き討ちや長島一向一揆殲滅を非難する人は多いです。

たぶんそういう人の多くは焼き討ちされた比叡山や一向一揆衆を過小評価しているからなんですね。

多くの人の当時の僧侶のイメージは真面目で大人しく人達で、また、一向一揆のイメージも民が武器を持っただけの弱い集団という感じのものだと思います。

しかし、当時の宗教を信仰する僧侶はとんでもない武装集団であり(全てではありませんが)今で言うテロ行為も平気で行っていました。

「天文法華の乱」や「山科本願寺合戦」など調べて頂ければ直ぐに分かるかと思います。

特に「天文法華の乱」では一万人以上の僧俗や女・子供が犠牲になったそうです。

しかも、比叡山延暦寺はかなり前から信仰心を失い、女色に耽り、民に重い重税をかけたり、高利貸しなども行っていて、本来のあるべき姿から逸脱していました。

当時のこうした宗教勢力は深刻な社会問題でした。

しかし、当時の将軍はおろか天皇さえ彼らに手が出せません。

それほどまでに比叡山延暦寺の力は強大になり、信長公が焼き討ちするまで完全に独立国家だったのです。

信長公の目的はあくまでも天下布武もとい天下統一。

なのに日本のうちにもう一つの国が出来てしまってはどうしようもない。

織田兵衛さんの様にもっと寛容にと言う人もいるかもしれませんが、この時に信長公が非難されてでもこのような行為にでなければ天下統一も出来ないし、太平の時代も築けない、近世の扉も開くことも出来ません。

それ以前の問題に、この時に比叡山焼き討ちを決行しなければ滅んだのは織田軍の人達です。

更に、軍事研究家の藤本正行氏の『信長の戦争』によれば「長島一揆を殲滅させたことで、信長は大量虐殺者とされている。そのこと自体は間違いないが、一揆を一方的な犠牲者扱いして、その潜在的な戦力を無視、ないし過小評価するのはいかがと思う。土壇場で信長に裏切られたことを知った(ちなみに本願寺が先に裏切ってます)一揆軍の反撃の凄まじさを見れば、信長が当時、武士同士の戦いで常識になっていたルールを無視してまで一揆軍を殲滅させようとした理由が分かる。彼らは長嶋城を明け渡したとはいえ、武装解除された訳ではない。少なくとも刀剣類は携帯したままで退去しようとしたのである。これこそ、野に虎を放つようなものではないか」と述べられています。

そして、『偽書・武功夜話の研究』では「一向一揆を江戸時代の百姓一揆と同じように見るのは、明らかに後世の感覚であって、当時の人間の見方ではない。宣教師の報告などでも、本願寺勢力は紀州の雑賀衆であったとしているし(イエズス会日本年報)本願寺関係の文書でも、同様のことをいっている。(顕如上人御書札案留)
雑賀衆は新鋭の兵器である鉄砲を大量に保有し、有力な水軍も備えた土豪たちの集団であって、ろくな武器もなしに竹鑓を引っさげたような農民の一揆だったわけではない。」と書かれています。

当時は伊勢長嶋の一揆衆だって延暦寺の様に高利貸しなど行って、民衆からものを奪取したこともあったそうです。

そして、もう一つ。

石山戦争に詳しい神田千里氏によれば「領民は住民の保護者として、彼らの安全を確保する能力を問われる存在だった。だから領民は城中に避難し、保護を受ける権利があったのである。長島城内の領主である願証寺や一向一揆の僧侶、武士たちの場合も同様であった。したがって、城中に逃げ込んだ非戦闘員を大量虐殺することは、領主に対して、住民を戦乱から保護する危機管理能力のないことを宣告し、さらにそれを一般民衆に宣伝するものとなる。(中略)虐殺によって、民衆が信長に怨恨をもつよりも、信長の虐殺を招いた領主から民衆が離れていくのである。戦乱の時代に、非戦闘員を虐殺したか否か、人道的であるか否かは問題ではない。戦乱に生きた民衆は、何よりも強い危機管理能力の高い領主を求めた。これが虐殺作戦の時代的背景である」と述べておられます。


確かに信長公は多くの人を殺しました。現代人から見れば完璧に大量殺人犯です。

しかし、非難する前に当時と今は全く違うということを考えて頂きたいのです。

常識も思想もルールも何もかも全く違う時代です。

上述した様なことが当たり前の本当に厳しい世の中だったのです。

その厳しい生きるか死ぬかの時代であるのにも関わらず、一方的に信長公ばかりを責めるのはあまりにも不公平だと思いませんか?理不尽だと思いませんか?

もう少しその辺りを考えて「織田信長」という人物をもう一度評価して下さい。

久しぶりに名古屋おもてなし武将隊のブログを見てて
ふと伊達武将隊もブログあんのかなぁと思って

ググったら

それよりも目についたものは…!!

芥屋-i.jpg

「山形おきたま愛の武将隊」
……

………

…………









本当に群雄割拠になってるー!?

伊達武将隊より早く動いていたのに全然知らなかったよ!

今度は直江兼続なのね。

スゴいな…本当…

戦国武将ブーム侮りがたし!(って前も言った気がするけど
次に結成されるのはどこの武将隊だろうか…。

某ブログで信長という名はどうしてつけられたかという記事があって・・・・。
『中間一人に荷俵を背負わせて、旅に出たところ、摂津四天王寺に参り、あたりの寺にさむらいらしきもの、6~7人おり、名乗り字を書き読みしていたところ、三助こと信長は、その内の一つを、自分に欲しいと頼み、どれが欲しいのかと聞き返すと、信長と言う名乗りを希望すると、一同笑って、この名乗りは、天下取りか、国取りの名乗りで、お前なんかが名乗る名ではないと笑われる。
三助は、名乗るのではない、国の土産として欲しいと食い下がると、それならと、その部分を切り取って持ち帰った』
もうひとつ沢彦が名づけたということも書かれてあったのですが個人的にこっちの方がドラマ的で好きです(*^▽^*)
作り話っぽいけどw

沢彦のはぶっちゃけよく分からないけど・・・とにかく信長という字は名将にふさわしいという事を言っているみたいです(本当か?

『沢彦曰く信長ノ二字ノ反ハ則チ桑シヲ大吉ナリ』

でも、その某ブログのコメントで・・・・

『「信」の9画、「長」の8画で「9(く)、8(わ)」になるということ』

と言う推量には思わず成る程と納得しました。

ていうか面白い解釈だなって思いました( ̄∇ ̄+)

『永禄6年(1563)、織田信長は、小牧山に築城して、清須城から居城を移した。

この当時の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、三河の家康と同盟を結んで東からの脅威を取り除き、尾張国内の統一をほぼ終え、たびたび美濃攻めを行っていた時期にあたる。

文献には、信長公記首巻 に記述があるが、信長の行動を物語るエピソードとして紹介されており、築城の年などの記述もない。

永禄10年に美濃の稲葉山城を攻略して、岐阜へ移るまでの4年間が信長の時代である。

信長以前に小牧山に城を築いたものはなく、現在残る小牧山の城郭遺構の基礎はこのときに築かれたとみられる。

また、小牧山の南に新しい城下町を築き、後に織豊政権が全国的に展開していく新たな都市政策を最初に実現した。

城下町は、南北1.3km、東西1kmの範囲に展開 した。城下町西部では、東西・南北に整然と配置された道で長方形街区を形成し、その中に間口が狭く、奥行きが深い短冊形の地割を計画的に密集して配置した。

そこには商工業者が集住し、御園町、紺屋町、鍛冶屋町、新町、油屋町などが形成されたとみられる。

一方、城下町の東部には、比較的大きな区画が配置され、有力な家臣団の住む武家屋敷や寺院、下級武士団の住居が配置されたと推定される。

江戸時代に至って完成する城下町の初源的形態がすでにここに見られる点で、注目される。』


これは小牧山城のサイトに載っていた事なんですが・・・。

すごい・・・この時点で既に先を行っていたんですね!上様は!!

小牧山城が単なる城では無いと聞いたことがありましたが、江戸の城下町の初源的形態だったんですね!

そういえば、天主も小牧山城にはあったとかいう説もありますよね。

やっぱ、上様の政治力や経済感覚や先見性はただものじゃ無いですね(*^▽^*)スゴイ!



長篠の戦いは来週ですが、今日は大阪の陣をやっているみたいなので観てみました(*^^*)
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いい加減、真田幸村って呼ぶのは止めよ…いや、もう良いです(・ω・`)
でも、物凄く分かりやすくて良かったですね~
あー毛利勝永の徳川本陣への突撃は失敗だったのね…
でも、テレビでやる事だから本当かどうか分からん。
NHKは平気で信憑性のない史料とか使って番組作っちゃうからなぁ~( ̄ー ̄)

しょこたんよ、夢を壊す様で悪いが真田信繁は決してゲームの様なイケメンでは無いよ。

大阪の陣では前歯も抜けて白髪だらけのお爺ちゃんだったよ。

でも、しょこたんの言う通り果敢に徳川勢に立ち向かったところはすごく格好良いよね!

父の昌幸には敵わないだろうけど、それでも仲間と力を合わせて頑張った真田信繁は大好きだよ(≡^∇^≡)



さて、来週はいよいよ長篠の合戦ですね!!
NHKとは言え、今更三段撃ち云々とか武田最強騎馬軍団云々は語らない…よね?
でも、予告で最強の武田軍とか何とか言ってたなぁ・・。
期待と不安の「名将の采配」ですね(^^)