戦国のグルっぽで織田兵衛さんが信長公の大量虐殺について書かれていたので、誤解を解く為に改めてブログできちんと説明したいと思います。
織田兵衛さんの様に比叡山焼き討ちや長島一向一揆殲滅を非難する人は多いです。
たぶんそういう人の多くは焼き討ちされた比叡山や一向一揆衆を過小評価しているからなんですね。
多くの人の当時の僧侶のイメージは真面目で大人しく人達で、また、一向一揆のイメージも民が武器を持っただけの弱い集団という感じのものだと思います。
しかし、当時の宗教を信仰する僧侶はとんでもない武装集団であり(全てではありませんが)今で言うテロ行為も平気で行っていました。
「天文法華の乱」や「山科本願寺合戦」など調べて頂ければ直ぐに分かるかと思います。
特に「天文法華の乱」では一万人以上の僧俗や女・子供が犠牲になったそうです。
しかも、比叡山延暦寺はかなり前から信仰心を失い、女色に耽り、民に重い重税をかけたり、高利貸しなども行っていて、本来のあるべき姿から逸脱していました。
当時のこうした宗教勢力は深刻な社会問題でした。
しかし、当時の将軍はおろか天皇さえ彼らに手が出せません。
それほどまでに比叡山延暦寺の力は強大になり、信長公が焼き討ちするまで完全に独立国家だったのです。
信長公の目的はあくまでも天下布武もとい天下統一。
なのに日本のうちにもう一つの国が出来てしまってはどうしようもない。
織田兵衛さんの様にもっと寛容にと言う人もいるかもしれませんが、この時に信長公が非難されてでもこのような行為にでなければ天下統一も出来ないし、太平の時代も築けない、近世の扉も開くことも出来ません。
それ以前の問題に、この時に比叡山焼き討ちを決行しなければ滅んだのは織田軍の人達です。
更に、軍事研究家の藤本正行氏の『信長の戦争』によれば「長島一揆を殲滅させたことで、信長は大量虐殺者とされている。そのこと自体は間違いないが、一揆を一方的な犠牲者扱いして、その潜在的な戦力を無視、ないし過小評価するのはいかがと思う。土壇場で信長に裏切られたことを知った(ちなみに本願寺が先に裏切ってます)一揆軍の反撃の凄まじさを見れば、信長が当時、武士同士の戦いで常識になっていたルールを無視してまで一揆軍を殲滅させようとした理由が分かる。彼らは長嶋城を明け渡したとはいえ、武装解除された訳ではない。少なくとも刀剣類は携帯したままで退去しようとしたのである。これこそ、野に虎を放つようなものではないか」と述べられています。
そして、『偽書・武功夜話の研究』では「一向一揆を江戸時代の百姓一揆と同じように見るのは、明らかに後世の感覚であって、当時の人間の見方ではない。宣教師の報告などでも、本願寺勢力は紀州の雑賀衆であったとしているし(イエズス会日本年報)本願寺関係の文書でも、同様のことをいっている。(顕如上人御書札案留)
雑賀衆は新鋭の兵器である鉄砲を大量に保有し、有力な水軍も備えた土豪たちの集団であって、ろくな武器もなしに竹鑓を引っさげたような農民の一揆だったわけではない。」と書かれています。
当時は伊勢長嶋の一揆衆だって延暦寺の様に高利貸しなど行って、民衆からものを奪取したこともあったそうです。
そして、もう一つ。
石山戦争に詳しい神田千里氏によれば「領民は住民の保護者として、彼らの安全を確保する能力を問われる存在だった。だから領民は城中に避難し、保護を受ける権利があったのである。長島城内の領主である願証寺や一向一揆の僧侶、武士たちの場合も同様であった。したがって、城中に逃げ込んだ非戦闘員を大量虐殺することは、領主に対して、住民を戦乱から保護する危機管理能力のないことを宣告し、さらにそれを一般民衆に宣伝するものとなる。(中略)虐殺によって、民衆が信長に怨恨をもつよりも、信長の虐殺を招いた領主から民衆が離れていくのである。戦乱の時代に、非戦闘員を虐殺したか否か、人道的であるか否かは問題ではない。戦乱に生きた民衆は、何よりも強い危機管理能力の高い領主を求めた。これが虐殺作戦の時代的背景である」と述べておられます。
確かに信長公は多くの人を殺しました。現代人から見れば完璧に大量殺人犯です。
しかし、非難する前に当時と今は全く違うということを考えて頂きたいのです。
常識も思想もルールも何もかも全く違う時代です。
上述した様なことが当たり前の本当に厳しい世の中だったのです。
その厳しい生きるか死ぬかの時代であるのにも関わらず、一方的に信長公ばかりを責めるのはあまりにも不公平だと思いませんか?理不尽だと思いませんか?
もう少しその辺りを考えて「織田信長」という人物をもう一度評価して下さい。