ラジオ深夜便 『葛根廟事件』 大島満吉さん
9月2日 ラジオ深夜便大島満吉さんのお話に惹きつけられ聴き入った。終戦日前日に起こった「葛根廟(かっこんびょう)事件」について、9歳の大島少年が経験したことをまるで目の前で起きているかのように感じました。はじめて知ることが多くて「聴き逃し」でもう一度聴きました。 葛根廟事件 ・・・1945年8月14日昼、旧満州の葛根廟(現在の中国内モンゴル自治区)に向けて避難する日本人の一団が旧ソ連軍の戦車隊に襲われた。自決や避難途中に死亡した人も含め1000人以上が死亡したとされるが、正確な被害実態は分かっていない。犠牲者の多くは女性や子どもだった。生存者は百数十人とみられ、うち30人以上は中国残留孤児となった◆ソ連軍の戦車隊が突っ込んできた 「戦車だ、逃げろー」。ソ連軍の戦車隊が突如、日本人の一団に突っ込み、人々をなぎ倒し、機銃弾を浴びせた。大島さんはとっさに目の前の自然壕(ごう)に飛び込み、難を逃れた。 1945年8月9日のソ連の対日参戦で、満州西部の街・興安に住む日本人の約半数が、南東約35キロにあるラマ教寺院「葛根廟」に向かって避難をしていた。汽車もなくなり、幼子や荷物を抱えた人々はひたすら大草原を歩いた。避難を始めた初日こそ炊き出しがあったものの、2日目からは食事もままならなかった。◆「もう駄目だ」死を覚悟 当時国民学校4年だった大島さんは、母と6歳の弟、3歳の妹と列にいた。ソ連兵は壕に逃げた大島さんの真後ろにも来た。「もう駄目だ」。死を覚悟したが、見過ごされた。 辺りは死体や息絶えそうな人、人、人…。避難の列を統率していた在郷軍人が解散を告げ「子どもは親が始末するように」と言った。母が「どうしようかね」とつぶやいた一言が、大島さんには「死ぬしかない」と同意を求めたように感じたという。「幼子を抱え、生きる道がなくなったと思ったんでしょう」◆「ずっと身内には話せなかった」 母は血まみれで倒れている男性の軍刀を借り、「ごめんね」と言って、目の前で妹ののどを突き、息絶えた妹にハンカチを掛けて拝んだ。「親が子どもを手にかけるなんて理解できないかもしれない。ずっと身内には話せなかったんです」 在郷軍人が刀で自決を補助する列に並んでいた時、はぐれた父と兄に再会。父が母を説得し、その列から抜け出した。列には同級生らもいた。 中国で難民となった家族の生活は悲惨だった。父が病に倒れ、家計を助けるため、新聞などを兄弟で売ってしのいだ。食べるものに困った長男が、中国の女性からもらった一片のかぼちゃが、父の命を救った・・・泣きながら、かぼちゃを持って帰った長男の姿が目に浮かぶ。◆「軍隊は国の機構を守るもの、国民は守れない」 現地の住民にも助けられ、生き永らえた一家は終戦翌年に帰国。守ってくれると思っていた関東軍は民間人より先に避難していたことも知った。「軍隊は国の機構を守るものであって、国民は守れない」と実感した。 生存者や遺族らでつくる「興安街命日会」は、毎年8月14日に東京都内で慰霊祭を続けてきた。今回の証言集「今に想う」には、生存者5人を含む25人が体験や戦争への思いを寄せた。大島さんは「人間が人間でなくなる、それが戦争。生き残った者として伝えるのが責務だと思っている」とかみしめた。映画「葛根廟事件の証言」太平洋戦争が終結する前日の昭和20(1945)年8月14日、旧満州(現中国東北部)から引揚げ避難中の日本人の一団が、ラマ教寺院葛根廟(内モンゴル自治区)付近で、旧ソ連軍の戦車隊の襲撃にあい、1,000人以上が死亡した。生存者は百数十人にすぎないとされ、犠牲者の多くは女性と子供だった。「葛根廟事件」は、日本敗戦の混乱時に満州で日本人が遭遇した惨劇の中でも、最も犠牲者が多いものだったといわれている。あの日、満州で何があったのか。事件の生存者、関係者のインタビューで構成したドキュメンタリー。福岡インディペンデント映画祭2018「ドキュメンタリー部門最優秀作品賞」。60分短縮版が、第20回ゆふいん文化・記録映画祭で、コンペティション部門最高賞の「第10回 松川賞」、「映文連アワード2017 企画特別賞」を受賞。2019年、新たな写真や図を加えて改訂し、「劇場版」として公開。出演:大島満吉、白浜真砂子、佐藤雅寛、大櫛戊辰、伏見惠子、藤原作弥、石田たか子、依田照子、横山艶子、高田京子、青木浩、烏森劇中劇:神田さち子ひとり芝居「帰ってきたおばあさん」2015年11月7日東京都大田区公演製作・監督・録音・編集:田上龍一撮影:片山和雄・田上龍一