前回の日記の考察を続けようと思う。テーマは「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」というものである。詳細は前回の日記を参照されたい。
結論から述べよう。「現代のサブカルは、決して昔のサブカルに劣っているわけではない。だがしかし、決して勝っているともいえない。」もう少し別の言い方を選ぶと、こうなる。「現代のサブカルと昔のそれとを、単純に比較することは不可能である。」どういうことか。
この問題を考察するに当たって、まず、「なぜ昔のサブカルが現代になっても評価され得るのか」という問題に一応の決着をつけねばならない。その解によって、サブカルに対して我々の抱く「おもしろい(楽しめる、というべきか)」という主観の考察をすることができる。結局、サブカルへの評価は、ユーザーの抱く主観的評価の集合体となって社会に体現する。評価の基準は主観から始まる。そしてそれが社会的に影響力を持つことで(経済的効果、ブームなど)、客観的な評価が現れるのだ。いずれにせよ、我々はまずこの主観を第一に料理しなければなるまい。
「なぜ昔のサブカルが現代になっても評価され得るのか」。この問に対して、「思い出説」という解答が導き出される。「思い出説」とは、簡単に言うと、「懐かしいから楽しい」のである。少年期にはまっていた漫画やゲームを数十年後にもう一度やってみると、作品自体の面白さに加えて、過去の記憶が蘇って来る。それは「懐かしい楽しさ」であるとも言えよう。事実、彼や彼女は、当時その作品を否が応にも楽しんでいたのだ。楽しんでいた記憶の復活は、現実の楽しさに結びつくであろう。このように、人は「楽しかった思い出」を「楽しむ」ことができるのである。これが「思い出説」である。
しかし、この「思い出説」には限界がある。よしんばこの説が、20代~30代の人々が、過去の思い出と共に昔のサブカルを楽しむことは説明できたとしても、過去の記憶を持たない人々(10代前半~10代中頃)が、彼らの物心つく以前の作品を楽しむという事実は説明不可能である。現実に今の小中高生は、現代主流のサブカルを楽しむと共に、数十年前のサブカルに興味を持つことがある。20代の若者とて、彼らが生まれる以前の映画や音楽に正当な評価を下すこともありうるのだ。これらの事実は、「思い出説」では説明できない。さらなる見解が必要である。
前述の事実をいかにして説明することができるのか。おそらくそれに対する答えが、「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」というテーマに対する答えに近づく、有効な手がかりになる。ではその答えとは何か。それは「作品のおもしろさには独立性がある」ということである。
例えばFFⅢとFFⅩという作品を比較してみよう。グラフィックやサウンド、操作性などは抜きにして、その作品自体の総合的おもしろさを、である。結果は、「どちらもおもしろい」(非常に個人的例示だが)である。客観的評価軸である、経済性と社会的ブーム性をみても、両者は拮抗している。(ちなみに、FFⅢの総売上は約140万本、FFⅩは約230万本。数値に大きな違いこそあれ、当時140万本のセールスは怪物である。同様に、約230万本という数字も凄まじい。用は、その時代における売上本数の相対的インパクトの比較である。)その他の例を挙げても結果は同じであろう。すなわち、俗に名作といわれるエンタテイメントは、いつの時代にも強烈な影響力を持って、社会に存在していたのである。
重要なのは、それらを一つの土俵に乗せて優劣を決めることは不可能だ、ということである。我々が名作と崇めるサブカルは、いつの世にも高い評価を得てきた(例え経済性やブーム性などの客観的評価が低かったものだとしても、今主観的に楽しめる作品は、当時も主観的に楽しまれていたはずである。称してそれらを、「マイナー」「マニアック」と呼ぶ)。過去の名作を現代の(すなわち時代性という)レンズを通して評価するのはナンセンスである。同じく、現代の作品を過去のレンズを通して評価するのもナンセンスである(というより、不可能である)。再び強調しておこう。古今の作品は、単純に比較できない。その時代ごとの需要があってこその評価が重要だからである。すなわち、作品の面白さは「独立」なのである。そして「独立した面白さに対する評価も独立」なのである。ここに、前述した「現代のサブカルと昔のそれとを、単純に比較することは不可能である。」という結論に至る。
こういった結論を断言してしまうと、「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」という問自体への解答を放棄しているのではないかという声も上がるだろう。しかしこれは放棄ではない。「比較不可能」という解答を導き出したのである。さらにその点において重要なのは、「面白さの独立性」である。栄光を放つ作品、もしくは過去に栄光を放った作品は、各々独立した「絶対的おもしろさ」を保持している。それを保持しているからこそ、栄光を放つのである。その栄光は色あせることはない。時空を超えても、である。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を見るために、連日約4万人の人々が、パリのルーブル美術館を訪れる。それは美術館開設の1793年から現代に至っても変わることはない。同様に、我々はヴィヴァルディの「四季」を聞き、至上の感動を得ることができるのである。それらの作品群の中核を成す素晴らしさは「絶対的」で「独立」なのである。「絶対的」で「独立」なおもしろさをもった作品たちを並べて、どれが一番面白いかを決めるなどということは、カエルのフンのようにみすぼらしい行為である。真の芸術性を持つ作品は、我々人間にいつまでもその至高の美しさを示して止まない。それ故それらは、個々に普遍性を持つものなのである。
以上、「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」という問に対する考察と結論を、乱雑ながら述べてきた。わかったことは、サブカルを含め、人間の生み出す芸術は、進化するものではないし、進化させていくものでもない。名作と謳われる作品は既に、ある時代において誰にも到達できない高みに達しているのだ。人間はその都度、別の土俵(次元)でそれぞれの作品の頂点を目指し続けるしかないのである。そして唯一、頂点という楽園を見た作品こそが、時空を越えてその存在を猛々しく体現し続けることができるのであろう。
結論から述べよう。「現代のサブカルは、決して昔のサブカルに劣っているわけではない。だがしかし、決して勝っているともいえない。」もう少し別の言い方を選ぶと、こうなる。「現代のサブカルと昔のそれとを、単純に比較することは不可能である。」どういうことか。
この問題を考察するに当たって、まず、「なぜ昔のサブカルが現代になっても評価され得るのか」という問題に一応の決着をつけねばならない。その解によって、サブカルに対して我々の抱く「おもしろい(楽しめる、というべきか)」という主観の考察をすることができる。結局、サブカルへの評価は、ユーザーの抱く主観的評価の集合体となって社会に体現する。評価の基準は主観から始まる。そしてそれが社会的に影響力を持つことで(経済的効果、ブームなど)、客観的な評価が現れるのだ。いずれにせよ、我々はまずこの主観を第一に料理しなければなるまい。
「なぜ昔のサブカルが現代になっても評価され得るのか」。この問に対して、「思い出説」という解答が導き出される。「思い出説」とは、簡単に言うと、「懐かしいから楽しい」のである。少年期にはまっていた漫画やゲームを数十年後にもう一度やってみると、作品自体の面白さに加えて、過去の記憶が蘇って来る。それは「懐かしい楽しさ」であるとも言えよう。事実、彼や彼女は、当時その作品を否が応にも楽しんでいたのだ。楽しんでいた記憶の復活は、現実の楽しさに結びつくであろう。このように、人は「楽しかった思い出」を「楽しむ」ことができるのである。これが「思い出説」である。
しかし、この「思い出説」には限界がある。よしんばこの説が、20代~30代の人々が、過去の思い出と共に昔のサブカルを楽しむことは説明できたとしても、過去の記憶を持たない人々(10代前半~10代中頃)が、彼らの物心つく以前の作品を楽しむという事実は説明不可能である。現実に今の小中高生は、現代主流のサブカルを楽しむと共に、数十年前のサブカルに興味を持つことがある。20代の若者とて、彼らが生まれる以前の映画や音楽に正当な評価を下すこともありうるのだ。これらの事実は、「思い出説」では説明できない。さらなる見解が必要である。
前述の事実をいかにして説明することができるのか。おそらくそれに対する答えが、「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」というテーマに対する答えに近づく、有効な手がかりになる。ではその答えとは何か。それは「作品のおもしろさには独立性がある」ということである。
例えばFFⅢとFFⅩという作品を比較してみよう。グラフィックやサウンド、操作性などは抜きにして、その作品自体の総合的おもしろさを、である。結果は、「どちらもおもしろい」(非常に個人的例示だが)である。客観的評価軸である、経済性と社会的ブーム性をみても、両者は拮抗している。(ちなみに、FFⅢの総売上は約140万本、FFⅩは約230万本。数値に大きな違いこそあれ、当時140万本のセールスは怪物である。同様に、約230万本という数字も凄まじい。用は、その時代における売上本数の相対的インパクトの比較である。)その他の例を挙げても結果は同じであろう。すなわち、俗に名作といわれるエンタテイメントは、いつの時代にも強烈な影響力を持って、社会に存在していたのである。
重要なのは、それらを一つの土俵に乗せて優劣を決めることは不可能だ、ということである。我々が名作と崇めるサブカルは、いつの世にも高い評価を得てきた(例え経済性やブーム性などの客観的評価が低かったものだとしても、今主観的に楽しめる作品は、当時も主観的に楽しまれていたはずである。称してそれらを、「マイナー」「マニアック」と呼ぶ)。過去の名作を現代の(すなわち時代性という)レンズを通して評価するのはナンセンスである。同じく、現代の作品を過去のレンズを通して評価するのもナンセンスである(というより、不可能である)。再び強調しておこう。古今の作品は、単純に比較できない。その時代ごとの需要があってこその評価が重要だからである。すなわち、作品の面白さは「独立」なのである。そして「独立した面白さに対する評価も独立」なのである。ここに、前述した「現代のサブカルと昔のそれとを、単純に比較することは不可能である。」という結論に至る。
こういった結論を断言してしまうと、「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」という問自体への解答を放棄しているのではないかという声も上がるだろう。しかしこれは放棄ではない。「比較不可能」という解答を導き出したのである。さらにその点において重要なのは、「面白さの独立性」である。栄光を放つ作品、もしくは過去に栄光を放った作品は、各々独立した「絶対的おもしろさ」を保持している。それを保持しているからこそ、栄光を放つのである。その栄光は色あせることはない。時空を超えても、である。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を見るために、連日約4万人の人々が、パリのルーブル美術館を訪れる。それは美術館開設の1793年から現代に至っても変わることはない。同様に、我々はヴィヴァルディの「四季」を聞き、至上の感動を得ることができるのである。それらの作品群の中核を成す素晴らしさは「絶対的」で「独立」なのである。「絶対的」で「独立」なおもしろさをもった作品たちを並べて、どれが一番面白いかを決めるなどということは、カエルのフンのようにみすぼらしい行為である。真の芸術性を持つ作品は、我々人間にいつまでもその至高の美しさを示して止まない。それ故それらは、個々に普遍性を持つものなのである。
以上、「現代のサブカルは昔のサブカルに劣るのか?」という問に対する考察と結論を、乱雑ながら述べてきた。わかったことは、サブカルを含め、人間の生み出す芸術は、進化するものではないし、進化させていくものでもない。名作と謳われる作品は既に、ある時代において誰にも到達できない高みに達しているのだ。人間はその都度、別の土俵(次元)でそれぞれの作品の頂点を目指し続けるしかないのである。そして唯一、頂点という楽園を見た作品こそが、時空を越えてその存在を猛々しく体現し続けることができるのであろう。