攻殻機動隊S.A.C(以下、SAC)を見直している。なんでもOVAであるsolid state societyが3D劇場版になるということなので、今までのシリーズを振り返っておいて損はないだろうと考えたからだ。そこで今回はSACという作品が世に提示したことについて考察したい。シリーズとしては劇場版GITS、1st、2ndGIG、SSS、そして漫画原作があるが、本稿では特に断りが無い限りSAC 1st についてのみ言及したいと考えている。
言うまでも無く、本作はさまざまな方面から論評され、その多くは既にネット上で閲覧可能であり、今なおそのブームは過ぎ去っていないといっても過言ではない。その理由として、本作が内包するテーマやエッセンスの多様性が挙げられる。近未来サイバーパンクにおける社会像、高度に情報化した社会とそこに生きる人間、サイボーグとロボット、政治と正義など、見方によっては数え切れないほどのメッセージがこめられた作品なのである。私にとっても本作にはいくつか好みのテーマがあり、それらについて言及したいと考えているが、議論をシンプルにするために論ずるテーマをひとつに絞りたい。それはアイデンティティである。
テクノロジーの進化によってサイボーグ、アンドロイド、ガイノイド、バイオロイドといったものが生まれるのは、おそらくそう遠い未来ではない。そういった近未来社会、サイバーパンクを取り扱った作品は既にいくつかある。小説で言えば、フィリップ・k・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?」、学術的にはダナ・ハラウェイ「サイボーグ・フェミニズム」といった作品が代表的である。おそらくSACもこれらの影響を少なからず受けているように読み取れる。こういった作品群の中核的テーマにあると考えられるのが、人間と機械を分かつものはなにか?ということであろう。すなわちSACの世界で言えば、体を完全に義体化し、個人の所有物は脳しかない(その脳も電脳化が施され、純粋な形で残っているとは言いがたい)人間と、人間と違わぬ外見と機能を有する体を持ち、機能的には人間の脳に匹敵するAIを持つロボットとの違いはどこにあるのか?攻殻機動隊シリーズではその結論を一見ゴーストの有無というところで落ち着かせているように見える。しかし作品の中ではそのゴーストについて、論理的に説明をしている項はない。人間とはゴーストを所持しているものであり、ゴーストとは人間として持つ何か、というようにトートロジー的にしかこの問題を表現していないように思えるのである。おそらくこれは人間と機械の違いという問いに対する結論を急がず、われわれに思案の幅を持たせるという措置であると考えられるが、私は実はSAC本編には裏の結論として(結論のひとつとして)提示しているテーマがあると見ている。それがアイデンティティである。
本編には明確な対立項として、人間とロボット(思考戦車、タチコマ)が描かれている。これは意図的にヴィヴィットに表現されており、われわれが意識するしないに関わらず、SACにはこの対立項を軸にストーリーに没入していくような仕掛けが施されている。簡潔にまとめれば、それは不特定多数の人間が並列化(笑い男化)することと、機械(タチコマ)の並列化の反復が個を獲得することの対比として描かれる。
高度に情報化し、緻密なネットワーク網が張り巡らされ、あたかもその中に埋め込まれた破片のごとく生活する人間は、一見個々に独立した存在であり、「個」を持つ「孤」であるように思える(2ndGIGではこれを個別主義と呼んでいる)。しかし笑い男事件の一連の流れでは、特段相互に直接的干渉の無い不特定多数の個人が、あたかも蜘蛛の巣上のネットワークの端から中心に流れるが如く、同じ方向へ動く。アオイや薬島幹事長をはじめとする厚生疑獄の首謀者たちとその周辺、果ては少佐までもが笑い男を演じることとなった(少佐の場合は捜査の一環としてのことではあるが、彼女自らが笑い男を演じたという現象のみを見ればそうなる)。作中ではこの現象をStand Alone Complexと呼んでいる。重要なのは「stand aloneなのにcomplex」なのではなく、「stand alone だからこそcomplex」であるということだ。電脳化が一般化しネットによって容易に、また即座にさまざまな情報にアクセスが可能になったことで、人間はある意味で物理的にstand aloneとなった。しかし彼らがアクセスしているネットは究極的にはすべて相互に干渉可能な一本の道であり、繋がり合っている。それが複雑に絡み思わぬ形で並列化がなされることによって、孤立した人間が同じ行動を起こす。現代社会にも通じるところがあるが、作中でアオイは社会には常にこのような装置がシステムとして内包されていると論じる。その意味で、ゴーストという唯一無二の身分証明書を持っているとはいえ、人間のアイデンティティなるものは概して不明確なものである。
一方で、タチコマというAIは並列化を繰り返すことによって個を獲得する。厳密に言えば、並列化のための経験知を得ようとする「好奇心」が、バトーを救いたいという自己犠牲の精神を抱くきっかけとなった。並列化という個性とは一見対極に位置する所作を繰り返したAIがむしろ個性を獲得したという描写は、人間が笑い男化する現象の対比として描かれている。好奇心がその原動力となったという説明には正直首肯しかねる部分が無くは無いが、AIが好奇心を持つというシニカルな設定は、人間の並列化という現象を引き立たせる強烈なスパイスとして効いている。並列化を繰り返すAIであっても、アイデンティティを持ちうるのである。
つまるところ、人間であってもアイデンティティを持っているかといえばそうではなく、AIであってもアイデンティティを持つことが出来る。これこそが私の捉えたSACの重要のテーマのひとつである。さらにこのテーマは、人間と機械の違いとは何か、という問いに対するひとつの結論を提示している。その結論とは言うまでも無く、人間と機械に違いは無い、というものである。結論を放棄しているのではない。正確に言えば、可能性として想定しうる、ひとつの結論を提示していると考えるのが無難である。人間は自信を証明する唯一の証であるアイデンティティをいとも簡単に失うことが出来る。ナチス時代のドイツを見るもよし。現代の政治的ポピュリズムを見るもよし。不特定多数の個人が奇妙なほど同じ方向へ進む様は、まさに並列化と表現するにやぶさかではあるまい。そこにはアイデンティティなどというものはなく、その行動はまさしく「機械的」である。他方、作中の表現ではあるがAIがアイデンティティを欲し、ついには獲得する。アイデンティティを持つことが人間の証明であると仮定すれば、この仮定は即座に棄却される。いったい何を持って人間とし、何を持って機械とするのか。少なくともSACの劇中にある材料を考察する限り、その答えは「ない」と断ずるほかは無い。
劇場版GHOST IN THE SHELLやイノセンスでも人間と機械を分かつものはなにか、というテーマは一貫して存在するため、それらの作品を改めて考察する必要があるだろう。しかし少なくともSACにおける本命題への回答は、上記のようなものであろうと、ひとまずここでは締めくくることとしたい。
