再び、攻殻機動隊シリーズ(主にアニメーション作品)に対する批評をしたい。というのも、本作品に対する自分自身の評価が、未だに定まりきっていないという浮遊感(のようなもの)があるからだ。また、最近偶然書店で見かけた『ユリイカ2005年10月号-攻殻機動隊特集』を読んだところ、自らの攻殻機動隊論に一定の刺激を受けたことにも起因する。
 再考したことによって、押井守と神山健司の表現方法や思想の違い、また「1st」と「2nd」における個人的評価の指針が明らかになった。

◇押井と神山-描き方の違い
 友人とよく意見が分かれるのが、『イノセンス』ってどこ面白いのか?ということだ。『イノセンス』は映画で押井監督作品である。僕は『イノセンス』には一定の評価をしており、友人はそうでもないのだという。友人曰く、神山監督作品であるテレビシリーズのほうが面白いのだそうだ。僕もテレビシリーズは好きではあるが、『イノセンス』はまた違った魅力がある作品であると考えている。その魅力とは何か?その答えは、押井・神山両監督の表現方法の違いにあった。
 
 押井と神山の攻殻機動隊の描き方で決定的に違うのは、ストーリーに重点を置くか、もしくはストーリーの語り方に重点を置くか、だ。友人は「『イノセンス』のストーリーは単純だ」、というが僕には当初、そうは思えなかった。しかしストーリーの要素をよくよく見直してみると、確かに単純であることに気が付いた。要は人間はなぜ人間の形態を模したサイボーグを作りたがるのか、という「身体論」一点で完結してしまえるのだ。では当初僕が感じた複雑さとは何だったのか?

 士郎正宗原作の攻殻機動隊は、幅広いテーマ性を備えている。ネット社会・電脳・ロボットと人間・イノベーション・政治・近未来…どこを切り口にしてもそれなりの料理が出来るだろう。神山の「1st」がセンセーショナルであったのは、テーマをあたかも既視的に認識できる程度の近未来に設定し、リアリティを追求した結果であると解しているが、押井の『イノセンス』のテーマは前述のとおりで、さほどの目新しさはない。サイボーグと人間の身体的関係性を主題としたSFなどおそらく 60年代であっても散見することが出来るだろう。であればこそ、『イノセンス』の評価は根っからの押井ファンにとっては決して高いものではないはずだ(※ 余談ながら、米国でこの作品が絶賛されたのはおそらく映像表現によるところが大きいと思われる)。友人もそうした観点から本作品の評価を下していると考えられる。畢竟、本作品が複雑性を帯びているはずはないと思われる。であれば僕が感じた複雑さは『イノセンス』ストーリーにではないということになる。つまりストーリーとは別の要素に内包された複雑さ、それはストーリーの語られ方であった。
 
 その複雑さはストーリーの語り方が、異常ともいうべき手段を採用していることに起因している。『イノセンス』における台詞の7~8割方は、現実の名言や格言を引用したものだ。そしてそれぞれの台詞に対する説明は皆無といっていい。つまり引用された名言・格言を理解していないことには、ストーリーの行間に隠された極小さな機微を咀嚼することが困難なのである。これこそが、僕が初見で感じた複雑さの正体である。

 こうしたストーリーの語り方を採用した本作は、当然賛否両論がある。中には気が付かぬままにのこ作品を難解であると断じてしまうことも。しかし一度本作を見て、引用の出典を調べ、その内容を多少なりとも理解した上で見直してみると新たな解釈が生まれるだろう。そしてこのストーリーの「語り方」の斬新さに得もいえぬ中毒性を感じるだろう。少なくとも僕はそうだった。つまり押井は攻殻機動隊のテーマ性を捨て、その表現方法に重点を置いた作り方をしていたのだ。神山健司は前述の『ユリイカ2005年10月号-攻殻機動隊特集』における対談で、この点を批判的に見ている。端的にいえば押井は表現方法に走ってしまったのだと。そして攻殻機動隊の持つ多様なテーマ性を語ろうとしていないと。

 こうした批判を神山が持つのは至極当然のことだ。なぜなら彼は「1st」「2nd」の作成を、一貫して攻殻機動隊のテーマ性から語ろうとしている。現在と地続きの近未来を、即ち極限までリアリティを追究したサイバースペースを攻殻機動隊で描こうとしているのだ(「1st」と「2nd」のリアリティの差異の問題は後述に譲る)。押井はそれを完全に無視した。まるで攻殻機動隊のテーマ性からのアプローチは、神山にすべて託す、と言わんばかりに。

 つまり僕は『イノセンス』の、押井のストーリーではなく、その語られ方を楽しんだのだ。こうした語り方をした作品に僕は出会ったことがなかった。語り方の手法として、ある種のショックを受けたほどだった。依然押井は「すべては引用で語ることが出来る」と言うニュアンスのことを述べたそうだ。それはパロディやモノローグのことを言っているのだと思った。しかしそうではなかった。まさに「引用」そのものであった。これほどまでにあからさまに、そして潔く行われる隠喩の嵐に、僕は隠しようもない心地よさを感じていた。