「科学的根拠のない事象は真理ではない」。現代社会において、このような主張はほぼメインストリームであり、テーゼとされている。それはある意味で当然の帰結である。なぜなら、科学は近代における最も重要な発明だからである。
M・ウェーバーは近代を説明する理論として、次のような言葉を残している。曰く、近代は「世界の呪術からの解放」である、と。
伝統的社会において信じられてきた超自然的、神秘的現象は、近代科学の発展によりたちどころに否定され、科学的に解明されてきた。科学は普遍的であり、何人もその成否を疑うことはできない。ただ科学的実証という方法を除いて。近代とは科学という普遍的な、ある種の思想によって形成され、発展した。科学なくして、近代以降の我々の生活は存在しないであろう。
このような近現代における科学の強烈な支配力を認識する限り、冒頭に挙げた命題が信仰される現実には納得がいく。しかし、如何ともしがたい現状が、この現代には蔓延っている。それは、科学に依拠しない物事を徹底的に否定するという自体である。
例えば、心霊現象である。心霊現象は世界各地、場所をいとわず様々な形でその実態が報告されている。しかもそれは、太古の昔から現代に至るまで、人類の存在した全期間を通して恒常的に、である。あらかじめ述べておくが、心霊現象は伝統的社会における超自然的、神秘的現象のことを指す場合もあり、その場合そのような現象は、ウェーバーの述べる「呪術」的な意味をとる。即ち、人間社会における「意味」としての現象である(ある人間が死んだとしよう。そしてその原因が癌であったとしよう。死因が癌であるというのは科学的な認識である。一方、意味的な認識としてはその人間は現世において悪徳を働いたから、ということになる。その場合の死の認識は、原因-結果という因果関係ではなく、意味としての死という現象となる)。もしくは、心霊現象がある種の心理的作用による結果であることも往々にしてあるだろう。しかしそのような解釈では納得のいかない、真の意味での超自然的、神秘的超常現象たる心霊現象も存在するのである(と思う)。人はそのような現象に対して、科学的根拠が肉薄であるという理由から、それを完膚なきまでに否定し、存在すら認めない。これこそ冒頭に挙げた命題における最大の罪悪である。
それでは、科学的根拠のないものを否定することがなぜ罪悪なのか。このことについて論理的に、且つ倫理的に説明したい。
そもそも科学とは道具である。つまり、人間がよりよい生活を送るため、また人間として更なる飛躍を遂げるためのツールに過ぎない。それは伝統的社会において信じられてきた、超自然的、神秘的現象をなんとか人間の手に届くところに降ろしてこようとする試みである。いわば、自然や神を人間の手で支配しようとする行為である。そのための道具として科学が存在する。このことを踏まえたうえで、もう一度科学的根拠のないものを否定するということを考えてみよう。それは手段の目的化である。即ち、本来超自然的な現象を解明するための道具(手段)であるはずの科学が、社会認識という目的になってしまっているのである。認識は手段を通して初めて正当性を得、達成される。科学はあくまで手段であり、現実を科学的に認識することは矛盾に満ちている。
またこの問題を倫理的に考察すると次のような事が言えよう。従来、伝統的社会において人々が信じてきた超自然的現象理解には意味があった。その意味とは、人間の営みにとって殊更重大な意味である。例えば、我々は過度の森林伐採をよいものとは思わない。それは環境破壊という問題を鑑みての認識である。しかし現実に我々は、環境破壊によって生活を豊かにし、社会を発展させることができた。森林伐採の是非を環境破壊という観点から解釈する時、我々は自己矛盾に陥る。結果、森林伐採に対して声高に反対の意を表するほどのモチベーションを持たない。ところが、伝統的社会においては森の木を切りすぎることは、「山の神様がお怒りになる」といった認識から忌避されてきたのである。この認識は高度に意味的なものであって、科学的なものではない。しかし、その抑止力の効果から言えば、科学的認識を圧倒的に凌駕する。ウェーバーの「世界の呪術からの解放」という言葉には、実は近代社会に対する皮肉が込められている(ウェーバーは元々批判的近代化論の論者である)。即ち、伝統的社会において脈々と引き継がれてきた「意味」という概念が、近代においては消滅してしまうということである。そしてそれは、科学という一見普遍性を持つ、そして強力なイデオロギーによってなのである。
我々は科学を認識の目的としてはならない。科学はあくまで道具として認識されることによって、その力を最大限に活用できるのである。同時に、この世界には科学によって証明できない様々な現象が起こりうることも理解しておく必要があるだろう。例えば、地球上には以前未開の地があり、未確認生物も多数存在する(このことは皮肉にも、科学的に実証されている)。さらに、地球の外に目を向ければ、あまりに広大すぎる大宇宙空間が我々の理解を超越して、悠然とこの地球を取り巻いている。心霊現象にしても同様である。自然科学、人文科学、社会科学といった学問において、経験的な実証に基づく研究スタイルはもはや自明の理とされている。それは当然のことであるし、否定すべきことではない。ただ、経験的実証はあくまで問題解明の道具的手段というレベルにおける議論であって、経験的実証のみがこの世界を構成しているとは、誰の口からも聞いたことはない。
最後に名作「AKIRA」より、鉄雄が残した有名な台詞を引用して、この論議の幕を閉じるとしよう。
「科学と真理では次元が違うんだよ。」