うつ病になったSE(システムエンジニア)の夫とその妻の鬱克服日記!! -9ページ目

うつ病になったSE(システムエンジニア)の夫とその妻の鬱克服日記!!

SE(システムエンジニア)でバリバリ働いていましたが、現在"うつ病"で心療内科に通院中。

同じようにSEでうつ病になった方、もしくは身近な人がうつ病になってしまったという方に役立つ体験談となるよう、鬱を克服してゆく様子を記します!

僕は、かぶとむしやクワガタなんかの昆虫を取るのは、好きでしたが父親と夜中に虫取りに行くのは絶対に嫌でした。

ここでいう虫取りは、カブトムシやクワガタムシを捕まえるというものです。



なぜかといったら、深夜2時を回ろうかというのに、クワガタムシが好むクヌギの気が生えていれば、墓であったり、まむしがうようよしている田んぼだったり、イノシシだでたりと、そんな中に連れて回るんです。

かといって、じゃあ「車で待っておくか?」と言われても、後ろの座席に知らない人が乗ってたらどいうしようと、[「やっぱり一緒に出るよ」と苦渋の決断に迫られた覚えがあります。

父は「虫取り」やら「潮干狩り」、「ワラビ採り」、「つくし採り」、「カニ取りによく」連れてってくれました。こうかくと子供思いな父親と思うかもしれませんが、要は自分が遊びたくて、一人じゃさみしいから男の長男である僕を連れてまわしていたんです。

その頃は13cmのミヤマクワガタ捕獲したりと、その捕獲したミヤマクワガタは近所の少年にやるので、僕の父は近所の少年から”昆虫ハカセ”と呼ばれていました。

僕はクワガタ売ったらお金になるのに・・・とそんなことばっかり考えていました。

もうちょっと少年期にお付き合いください。

次は、「学校で大惨事」
僕の生き物が好きでした。図鑑なんかに乗っているいきものを探しに行って捕まえるのが本当に趣味ででした。

もちろん皆さんも子供のころは、カブトムシ取りや魚つりなんかしたと思いますが、僕はそれに飽き足らず、蛇を捕まえてみようと思いました。


昔は、田んぼにいくと運が避ければヘビに遭遇することができます。



蛇がいたので、後ろからバケツで覆いかぶさって捕まえました。しかし、バケツもキチンと蓋をしないとバケツから出てしまいます。

友達の間でこれどうしようか?という話しがでたんですが、僕が学校に持って行って、水槽でヘビを飼おうよなんていったんんだから、みんな気分がのって「そうしよう!」ということになりました。

その日は、僕の家にヘビを連れて帰り、学校に持って行きました。

学校にもっていくなり、友達が「何、持ってきたの?」っていうもんだから、「ヘビを持ってきた」といったら皆後ずさりしていきます。そりゃそうですよね、ヘビなんて間近でもると怖いですもの。

先生が来るまで、教室の後ろのスペースに置いておくことにしました。

さて、一時間目も始まるし、トイレに行こうと思って、なにげにバケツのヘビを見たら、ヘビがいない!!

自分ではどうしようもなく、先生にいったら、学校中の従業が停止になってヘビの散策に変わりまsちあ。ガーン

もう親も呼ばれこっぴどく怒られました・・・。

次は、「父と虫取りにく」です。
僕は今の病院の先生から初めて「双極性障害」と言われました。

双極性障害は、「躁うつ病」と呼ばれていた病気です。

うつ病の方が「うつ」の症状のみ現れるのに対し、双極性障害は「躁」と「うつ」の症状を繰り返す病気です。



僕はずっと「うつ」の病気に悩まされていたんで、「躁」とは思わないし、今まで罹っていた先生も双極性障害とは診断されませんでした。

その双極性障害。

原因は、まだ解明されていませんが、「うつ」から始まるケースが多いことがわかっています。

「双極性障害」は精神疾患の中で非常に自殺企画が多い疾患ですs。

約15,000人の双極性障害の患者さんを一定期間追跡した海外の研究では、約5人に1人(19.4%)が自殺で亡くなっているといいます。

僕も、自殺したんですが、一命をとりとめました。

「うつ病」と「双極性障害」とでは治療の方針が全く違います。

うつで長い間悩んでる方は、自分はそうではないか考えてみましょうね。ニコニコ
名古屋での生活は私が三歳なるまででした。

ホステスになるまえの母は、名古屋でも有数の百貨店に努めており、まわりからは「なんちゃん」と呼ばれ非常に可愛がられたそうです。

母がなぜ、百貨店を辞めたのかは聞いていませんが、子供(私)が生まれたこと、父と出会ったことが原因なのは間違いないどころです。

僕が3歳になるころ、父は母親をつれて故郷の福岡県田川市に帰りました。

田川には、祖父と祖母がいます。

田川というところは本当になにもないところです。字の通り、田んぼと川しかないような場所です。有名なところをあえていったら、三井田川鉱業所伊田竪坑の跡地の、石炭記念公園にある2本の煙突があります。



そんな田んぼと川しかないところで僕は幼年期を過ごしました。

保育園は1年しかいっていません。なんでも入学に申請が待ち合わなかったと親は言っていましたが、それも嘘のような気がしますね。

母親の性格からすれば、自分の子供を人様に預けるができないとチラっと耳にしたことがあったので、幼稚園でも預けることができなかったんでしょう。

それくらい私は周りから寵愛されながら育ちました。

そんななか、僕が6歳くらいでしょうか。一度、自宅の前の道路で三輪車を使って遊んでいる時に、坂の上から降りで飛ばしてきたタクシーに跳ねられたことがあります。

大怪我をしたかと思うと思いますが、傷は鼻から鼻血が出た程度でした。近所の整骨院にいって、体に異常がないことを調べられました。タクシーの運転手からは箱入りのチョコレートをもらったので子供心の僕は、得したと非常に喜んでいました。

幼年期の記憶は、これくらいのことしか覚えていません。

次は、少年期6~14歳の頃について語っていきたいと思います。
昨日の記事で「寛解」という言葉を使いました。

今日から自己分析をするために、自分の過去について振り返りたいと思います。最初は、0~5歳のときを指す幼年期のお話をしたいと思います。

僕は、1980年の2月1日に、名古屋市中区に3人兄弟の長男として生を授かりました。

兄弟は妹が二人います。



とても寒い夜で、小雪がちらつく日だったと聞いています。

中区の栄という場所で生まれたのですが、栄は名古屋テレビ塔、サカエチカ、女子大小路があったりと、非常に栄えた繁華街です。

父が27歳、母が32歳のときの子なのですが、父と母の結婚式と時にはもう私はお腹の中にいたといいます。

いわゆる「できちゃった婚」ですね。

さらに悪いことに、父はまだ学生だったらしいです。27歳で学生っておかしな計算になると思われる方いらしゃると思うのですが、父は大学に入るのに2浪し、3回留年したため、大学卒業するのに7年かかったそうです。

普通なら母方の親族はカンカンで怒鳴りつけるところですが、誰も父を責めることはなく、大学だけは卒業して結婚して欲しいと伝え、父は大いに奮起して卒業したそうです。



この写真を見て、どこの大学のキャンパスか分かった方は鋭い!

父と母の出会いのきっかけは、子供の頃から「喫茶店で知り合った」と聞かされてきたんですが、つい最近母から昔はホステスをしていて、そこでボーイとして働いていた父と知り合ったとカミングアウトされ、それで父はその話しになるとバツが悪そうにしていたんだなぁと思いました。

自分の妻も前の妻もバイトで一時期クラブで働いてたので、別に驚きもしませんでした。妹はその事を知りません。聞くとびっくりしてひっくり返ると思うので、母は言ってないそうです。

母は実家が三重県伊勢市にあり、仕事で名古屋に来ていたそうです。母は叔父と一緒に住んでおり、子供の頃はその叔父が父親みたいに可愛がってくれたそうです。

伊勢市といえば、ご存知、お伊勢さんがあるところですね。



一方、父は実家が福岡県田川市にあり、大学の進学のために名古屋に出てきていました。

今日は、ここまでにしておきます。

次回は、「父、故郷へ帰る」をお話します。