閑散とした夜の宇都宮市内で遊んでいると
「昔は良かったのに…」「昭和の頃は凄かった…」
「全盛期のバンバ通りは“宇都宮の浅草”と呼ばれて…」
などと、数十年前の街の栄華を偲ぶ声をよく耳にする。
だが、私に言わせれば、
宇都宮が(他都市との同時期の比較において)最も繁栄していたのは
どう考えても【鎌倉時代】であるし、
1990年代に大々的に始めた町興しが奏功して
「宇都宮は“餃子”のまち」と自他共に認める存在に至ったが、
宇都宮は、もともと【“和歌”のまち】として鎌倉期に全国に名を轟かせた都市なのであって、
南北朝の動乱により没落するまでの一時期は
京、鎌倉に次ぐ、日本で三番目の「和歌の発信拠点」だったのだから、
「町興しをしようにも宇都宮は昔から文化不毛の地。そんな中、皆が見落としていた餃子に目を付けた」
というような市政担当者の言説を見聞きするたびに
「無知を晒すな」と思わず説教したくなるのと同時にこちらまで赤面してしまう次第である。
鎌倉時代の宇都宮一族、及びその周辺の僧侶等から優れた歌人を多く輩出し、
【宇都宮歌壇】と呼ばれるほどの一大ムーブメントを形成するに至った理由は、
宇都宮家第五代当主、宇都宮頼綱(1172~1259年)が
当時、既に名声高かった歌人・藤原定家(1162~1241年。藤原北家御子左流。中納言)と親交があり、
京の山荘・嵯峨中院に招待し歌会を開催したり、障子への和歌の揮毫を依頼するなど、
和歌への思い入れがかなり強かったこと、
そして、源頼朝が鎌倉に幕府を開きそこが政治の1つの中心地になると、
天皇があらせられる京の都、
奥州藤原氏の本拠地・平泉(現在の岩手県南西部)、
そして鎌倉というトライアングル・ゾーンは人の往来がとても頻繁になったので
その間に位置する宇都宮は高度な文化の影響を強く受け続ける地域になったことに因る。
『新和歌集』『信生法師日記』『前長門守時朝入京田舎打聞集』『沙弥蓮瑜集』など、
幾つもの私家集を宇都宮一族が自ら編纂していることや、
『新勅撰和歌集』『続後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』など、
13にわたる代々の勅撰集(天皇や上皇が編集した歌集)に
宇都宮一族が作った歌が数多く選出されていることから考えても、
鎌倉期の宇都宮はやはり相当に「文化の気風」と共に繁栄した街だったことは間違いないであろう。
さて、このように、
宇都宮の歴史を当の宇都宮市民の殆どが「知らない」し、「知ろうともしない」という
この“知的怠惰”こそが、この街を衰退させている根本的な原因なのではないか?と、
だいぶ以前から常々、そして深刻に考えてきた私としては
「餃子のまち」「ジャズのまち」「カクテルのまち」「自転車のまち」「LRTのまち」
も大いに結構だが、その前に50万人の宇都宮市民“全員”が
「もっと勉強しろ!」
「もっと本を読め!」
と声を大にして主張し続けたい。
新しい何かしらの試みをお祭り騒ぎ的に慌ただしく追い求めるよりも、
まず落ち着いてじっくりと「古典」を学べ。「歴史」を学べ。「教養」を身に付けよ。
「歴史を忘れた民族は滅びる」
というイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーの言葉を
宇都宮市民は肝に深く銘じるべきである。
話はそれからだ。
(「郷土の歴史を地元民が知らない、学ばない」というのは宇都宮に限らず全国的な話かもしれぬが…)
画像
『宇都宮は和歌のまち』の立役者、宇都宮頼綱