これまでに感じたことのない恐ろしい感覚に突然おそわれたのは、正月休みが明けた仕事始めの
日の朝だった。
朝早く(4時頃だったと思う)に目が覚めて、すぐに異変に気がついた。
その恐ろしい感覚はとても言葉で言い表すことができるものではなく、頭の中は「もうダメだ、もうダメだ」という意識に支配されていた。
とにかくもういちど眠ろうと思うのだが、布団の中で寝返りを打つばかりでいっこうに眠気が感じられない。妻の千沙子は隣で静かな寝息をたてている。
一時間もしないうちにじっとしていられなくなり、ベッドから起きあがった。
居間のソファーに移動して、とりあえずテレビのスイッチをつけてみる。
テレビからは早朝のニュース番組が流れていた。
少しは気が紛れるかと思ったのだが、テレビの内容など少しも頭に入ってこない。
気がつくと、ソファーの上で膝を抱えてブルブルと震えている自分がいた。
心臓の鼓動が速くなって、呼吸も荒くなっている。
「落ち着け、落ち着け」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやいてみても、何も変わらない。
そうだ、風呂に入れば少しは落ち着くかも知れない。
重い体を引きずるように浴室まで行って、浴槽に湯を入れ始めた。
浴槽に湯が溜まるまでにはまだしばらく時間がかかる。
しかし、その時間すら待っていられず、僕はすぐに裸になって、まだ湯がほとんど溜まっていない浴槽に体を沈めた。
浴槽にお湯が溜まるまでの間、僕はただひたすら震えながら深呼吸を繰り返していた。
思い返せば、去年の秋頃からその前兆はあった。
仕事の打合せに出かけるのが、とても気が重く感じるようになった。
別に仕事上のトラブルがあったわけでもなく、客先の担当者との人間関係も良好であった。
にもかかわらず、客先に向かう地下鉄のホームで、
「このまま電車に飛び込んで死んだら楽になるかな。」
などと漠然と考えることが時々あった。
以前はとても楽しみだった、月に一度程度の週末の草野球も、なぜかあまり楽しく感じなくなっていた。
野球の後、ビールを飲みながらの仲間との馬鹿話にも、心の底から笑えなくなっていると感じるようになっていた。
年末近くになると、朝早くに目が覚めてなかなか眠れない日が多くなっていた。
仕事のことや将来のことが漠然と不安に感じられて、ベッドの中で悶々とした時間を過ごしていた。
でも、それは毎日ではなくて、仕事で疲れている日などは朝までぐっすり眠っていることも多かった。
その頃は、少し疲れているのかな、といった程度にしか思っていなかった。
風呂から上がって居間に戻ると、ちょうど千沙子が寝室から起きあがってきた。
「あら、今日はずいぶん早いのね。」
「うん、何だか早く目が覚めちゃったんだ。」
妻に異変を悟られないように、必死で平静を装って答えた。
それでも、朝食を終え出かける準備ができた頃には、さすがに妻も僕の異変に気が付いたようだ。
「どうしたの?なんだか調子悪そうだけど。」
「ああ、正月ボケかな、ちょっとだるいだけだよ。」
妻に心配をかけたくなかったから、僕は笑顔でそう答えたつもりだった。
でもきっと、そのときの笑顔はずいぶんと不自然だっただろう。
右の頬と左の頬の筋肉が交互に引きつりながら、唇の両端を無理に引き上げていく感覚が僕にもわかった。
「今日は会社、休んだら?」
妻は心配そうにそう言った。
「仕事始めだし、そういうわけにもいかないよ。」
実際、普通に仕事ができる状態ではなかったが、家に一人で居ることも耐えられないと思った。
それに、何より会社のことが心配だった。
僕が社長を務める会社は、建築や土木の設計を主とした社員7人の小さな会社で、妻の千沙子もその社員の一人だった。
会社を興してから4年間、病気で休むことなど全くなかったから、他の社員にも心配をかけてしまうことがいやだったし、何より自分が居ないと進まない仕事があるのだ。
幸い会社は自宅から歩いて20分程度の距離にあり、満員電車に揺られる必要はない。
天気の良い日は妻と二人で歩いて出勤するのだが、その日はタクシーを使った。
出社して、新年の挨拶もそこそこに皆はいつもどおりの仕事を進めていた。
社員には異変に気づかれないように、普段どおりに振る舞っていたが、手のひらには脂汗がにじみ、心臓の鼓動は激しかった。
昼前までは何とか耐えていたが、もうこれ以上は耐えられない。
「ちょっと挨拶まわりに出てくる。今日は直帰するから。」
事務を担当している吉田雅子にそう告げて、会社を出た。
吉田雅子が不思議そうな顔で僕を見ている気配を背中で感じた。
もちろん、挨拶まわりに行く予定などなかったし、そんな状態でもない。
近くの喫茶店に入り、入り口近くのスポーツ新聞を手にとった。
コーヒーを頼んで、スポーツ新聞に目を通したが、5分もしないうちに疲れて読むのをやめた。
煙草に火をつけたとき、誰かに見られているような気がして、店の中を見渡した。
店の中には僕とウェイトレスの他には1組の客しかいなかった。
その客は若い女性の二人組で、何やら楽しげに話し込んでいる。
ウェイトレスは退屈そうに窓の外を見ていた。
誰も僕の事なんて気にしていない。
しばらくすると、昼時の店は満席になった。
テーブルの上の小さな灰皿は煙草の吸い殻であふれている。
慌てて店を出てタクシーを拾うと、まっすぐ自宅に向かった。
部屋に入るとすぐに日本酒をグラスに2杯立て続けに流し込み、そのままベッドに横になった。
いつの間にか眠っていたようだ。
気がつくと外は真っ暗で、居間に明かりが灯っているのがわかった。
時計を見ると7時を少し回っていた。
居間に行くと妻の千沙子が心配そうに僕を見て言った。
「よく眠っていたから起こさなかったんだけど。何か食べる?」
ぐっすり眠って少し気分が楽になっていたので、
「ああ、何か軽く食べようかな。」
と答えた。
服を着替えて、いつものようにビールを飲みながら千沙子のつくってくれた料理を軽く食べた。
その後、ぼんやりと2時間ほどテレビを見て、10時頃にはまた眠りについた。
