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人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

18世紀の末頃から、シベリアからアラスカまで広大な土地を領土におさめたロシアは、酷寒の地、シベリア経営のための食糧をはじめとする生活必需品の供給元を日本に求めて、蝦夷地に出没するようになります。

ロシアの東方進出、侵略の手先が日本にのびてきました。

1792年、ロシアの使節ラクスマンが根室に、続いて1804年には、レザノフが長崎に来航して通商を求めます。

幕府がこれを拒否すると、ロシアは樺太や択捉などに侵入し、日本の拠点を攻撃、略奪を働くようになり、一気に緊張感が高まります。

あの小林一茶が

◯春風の国 あやかれ おろしや舟(ロシア)

◯初雷や 蝦夷の果てまで 御代の鐘

と詠んだほどです。

このとき、注目を集めた人に

林子平という仙台藩士がいます。

海の防衛が急務だと『海国兵談』で説いたのです。

林子平は、江戸生まれですが、兄が仙台藩に召し抱えられたため、仙台に移住。その後、歴史や地理を学び、経済や国防に強い関心を持ち、江戸に留学。「書を読むはずなれども、足跡をもって実地検分には到底およばず」と悟り、諸国を歴訪。特に、ロシア事情をさぐるため、長崎には3度も出かけています。

広く見聞して、国防の必要性を痛感した子平がまとめたのが、前述の『海国兵談』です。

そして、ロシアの南下に備えるため蝦夷地の開発を強く主張したのが、『三国通覧図説』でした。

ところが、子平が最初に警告を発したころ、誰もロシアが攻めてくるなどということは信じず、幕府は子平の書を人心を惑わすものとして発禁にしました。

その主張が認められたのは子平の没後です。

幕府は、ようやく子平の主張に基づき、ロシアの侵略に備え、蝦夷地の松前藩を直轄領にするとともに、近藤重蔵、間宮林蔵などを含む蝦夷地の探検、調査に派遣しました。このときに、間宮海峡が発見されています。

(ちなみにロシアの脅威は、ナポレオンのシベリア遠征により緩くなりました。)

今、日本でも少数の方々が国防の重要性を訴えています。私個人としては、やはり中国の軍拡、南シナ海をはじめとする覇権主義、そして北朝鮮のミサイル開発をみるに、こういう方々の声に耳を傾けたほうがよいのではないか?と思います。

文明が進んだ今、兵器の破壊力も大きくなり、
子平没後にその主張が認められたというスピード感では、気づいたときはもう手遅れになりかねません。

歴史に学ぶー歴史を学ぶ意義の1つだと思います。

次は、ちょっとつらいかもしれませんが、日本に来るまでに、世界ではどんな風に西欧諸国が侵略、征服をしたのか、ご紹介いたしますね。

徳川幕府も、安穏と平和を貪っていたわけではありません。

 
太平の眠りを覚ますじょうきせん、たった四杯で夜も眠れず
 
とは言われましたが、これは庶民感覚だったと思います。
 
260年にわたる鎖国の間も、来るべき白人侵略に着々と手を打っていました。
 
戦争が200年もなかった時代は、世界史上まれです。
 
この長い平和の間に、学問はより一層発達しました。
 
士農工商の、最上位にいた武士は、戦がないため学問に励みました。幕府は、湯島に昌平坂学問所を開き、諸藩は藩校を開きました。
 
この昌平坂学問所にいた、佐藤一齋は佐久間象山の師です。
 
庶民教育においても、武士や僧侶が教師を務める寺子屋が各地につくられ、その数は10,000箇所にも及びました。
 
さらに有志による私塾も盛んで、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾もあり、国民の識字率は、7.8割に及んでいました。
 
幕府は朱子学を奨励していましたが、強制ではなく、諸藩はそれぞれの事情に応じて方針を出し、学問を奨励していました。
 
陽明学、折衷学などがありました。
 
日本人は、共存、共生の思想の持ち主なのです。
 
江戸中期から、新たな学問が次々に生まれます。儒学から水戸学、朱子学、陽明学、雪中学の他、蘭学も盛んになります。
 
「解体新書」により、医学の基礎、その他、天文学、地理学、化学、植物学などの自然科学が発達しました。
 
こうした教育制度や学問が、明治維新の原動力となります。
 
開国を迫った西欧列強が、力による制圧を諦めたのも、武力に加えて、日本人には高い教育レベルと技術、強靭な精神力、文化力があったからなのです。
 
千葉県には、偉人として伊能忠敬がいます。浦賀に来航したペリーは日本を攻略するにあたり、江戸湾とその周辺の測量を最新技術を使って測量しましたが、その結果は伊能忠敬の地図と全く同じであって、とても驚いたそうです。
 
以来、ペリーは日本の科学技術は相当進んでいると警戒したそうです。
 
次回は、林子平について触れたいと思います。
お花見で食べたいもの【投稿でドットマネーがもらえる!】ブログネタ:お花見で食べたいもの【投稿でドットマネーがもらえる!】 参加中
お花見は、やっぱり和食が食べたいですねー。

お花見というのは、そもそも

「古来から祓(はら)いのための宗教的行事、元々は神事でお祭り」

だったものです。

「三日見ぬまの桜かな」と歌われたように、うっかりするとすぐに散ってしまうのが桜です。

 期日が設定され、野山に出かけ花を愛で、その下で楽しむことで、厄を祓(はら)い神さまと過ごすとされていたそうです。 

 かつては、秋の稔りを願い、花の下でお祭りをし、花で収穫を占い、開花は神様が降りられた証で、パッと散ると凶とされていました。

 お花見は平安時代より貴族が始め、今の京都の二条城のあたりに天皇が行幸(ぎょうこう)し桜見物を行ったとのこと。その後、貴族・武士の間で盛んになり、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」は有名ですね。 江戸時代になると庶民の娯楽として定着します。桜の季節が近づくとなぜか心が弾みますよね。

 お花見と言えば、桜なのは
「桜は山の神が降りてくる時の目印になる木として、特別に神聖視されており、お花見に付き物のお酒も、本来は神に供えたお下がりを皆でいただくものであった」のです。

 さくらの「さ」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)、「くら」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)のおわします座を意味し、桜の木は神様の依り代です。 


 そんなことに思いを馳せながら、日本人であることを喜んで、和食 チラシ寿司をいただきながら、桜を愛でたいなと思います♪




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江戸時代の御朱印船貿易は、純粋に貿易を目的としていたので、繁栄をお互いの国にもたらしました。

ここで、あえて

☆純粋に貿易目的

と書いたには理由があります。

大航海時代といえば、スペイン、ポルトガル、イギリスと西欧がすぐに思い浮かぶかと思います。

ところで、この大航海時代を誘発したのも実は日本をはじめとする東洋文明だったのです。

15世紀のヨーロッパでは、
「東洋には全く歯が立たない。しかも、東方からはモンゴルやイスラム勢力が迫っていて、東への道が閉ざされている。このままではなす術もなく制服されてしまう。」という危機感が広がり、新天地を求め、海に向かいます。

また、直接の引き金は

◯ペストです。これに効くと信じられていた胡椒を始めとする香辛料がほしかったのです。

◯もう1つは、先日ご紹介した、マルコポーロの東方見聞録です。

ここで、知っておいていただきたいのは、この西欧の大航海時代は、純粋に貿易を目的として双方に繁栄をもたらすものではなくて、実際は侵略と征服の歴史だったということです。先住民を侵略し、キリスト教の名の下に、征服し続けていったのです。(本来のキリストの教えは、こうではなかったと思います。)


これらのことを知っていた秀吉と徳川家康はキリスト教を、警戒していました。

17世紀はじめに来航したオランダやイギリスとの交易を平戸の商館に限り許可します。この二国はキリスト教の布教より、貿易の利益だけを求めていると判断したからです。

彼らからの情報で、スペイン、ポルトガルがキリスト教を広め、日本の征服を企んでいることを知ります。

そこで、スペイン船の渡航禁止、日本人の渡航、帰国の禁止とだんだん統制を厳しくしていきました。これが、鎖国の意図だったのです。

ただし、幕府には国を閉鎖しようという意思があったわけではなく、キリスト教の流入防止が目的で、貿易と海外情報収集は維持したいと考えていました。西洋の侵略の魔の手から逃れるためにも情報は必要だったからです。

当時は、鎖国という言葉はありませんでした。

だから、何も徳川幕府は自分たちの政権維持のために日本人を文明から隔離したかったのではなく、逆に日本を守るためにとった政策が、後に鎖国と呼ばれたのです。

そして、実際はこの当時の日本人の精神性は世界に類を見ないくらい素晴らしいものだったのです。

次回は、その点をご紹介したいと思います。
子供たちと話していて、誤解されているのが

☆鎖国

です。

このために、日本は近代化が遅れた、
閉鎖的な考えの民族だ

と誤解しています。

実際は、そうではなく、鎖国しなくてはならなかった状況があったのです。

話は少し江戸時代から遡り、秀吉の時代、学校で習う歴史区分でいうと「安土桃山時代」です。

秀吉は、一向宗のように武装して権利を求めない限りは、当初、キリスト教布教容認でした。

しかし、1587年、島津氏討伐のために長崎を訪れて方針を転換します。

長崎が教会領となり、寺院がキリスト教徒により焼き討ちされたのを知ったからです。

その後、「バテレン追放令」を出します。しかし、貿易による利益と海外情報窓口はほしかったので、南蛮貿易は認めました。だから、禁教は徹底しなかったのです。

そして、江戸時代。
江戸時代初期は、ご朱印船貿易を奨励します。

16世紀末より、大名や大商人が、盛んに東南アジア方面に船を出して貿易を行うようになり、幕府は日本の信用を高めるため、1604年に、国として認めた御朱印状を発行します。

このお墨付きをもらった御朱印船貿易は、30年の間に350隻もが東南アジアとの交易をはかったのです。

ここに海外渡航ブームが起こり、日本から台湾、マカオ、東南アジア各地にわたり、兵士となったり、現地で日本との貿易にかかわる日本人は一気に増えました。東南アジアには、20数箇所の日本人町が生まれ、その1つシャム(タイ)のアユタヤに渡った山田長政は、シャムの高官として活躍したほどです。

日本にも大航海時代があったのです。

しかも、日本の大航海時代は、純粋に貿易で、西欧のそれと徹底的に違ったのは侵略の意図はなかったのです。

では、どうしてここから鎖国へと政策が変わったのかはまた、次回に。