人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事 -188ページ目

人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

明治時代、日本の近代国家への道のりはそれは大変なものでした。

 

精神性、教育といった無形財産はあったものの、有形財産はほとんどなかったからです。

司馬遼太郎さんは

「江戸270年の無形の精神財産の上に成立し、たった1セントの外貨の手持ちもなく、財産上の遺産としえば、大貧乏と借金と、それに横須賀ドックだけ」と仰っています。

 

その上、帝国主義各国からなくなく結ばされた不平等条約が重くのしかかっていたのです。

 

資力には乏しかった明治政府ですが、西欧の進んだ技術を学ぶために、身を切る思いで欧米の著名な学者や技術者を招へいしました。報酬は、当時の大臣並みだったそうです。そんなに高い報酬を払い続ける資力がなかったので、招へいは長くても2年。1年という期間でした。

学生も、事情が痛いほどわかっていたので必死で学んだのです。この時代の先人たちの頑張りがあって、私たちの日本は近代国家になったのです。

 

この時代は、欧米の侵略主義から国を守るために必死で防備を固めた時期です。

 

明治時代の「富国強兵」が日本の侵略の野心の始まりだったとする学者の方もいらっしゃるようですけれど、そうではなくて、本当に、明治政府が始まったときに必死に国防を考えたから今の日本があるのです。

 

当時は、太平洋からはアメリカ、東南アジアからはイギリス、フランス、オランダ、ドイツなどのヨーロッパ諸国が、また、北からはロシアが迫っていたのです。中国大陸の清は風前の灯で、その属領だった朝鮮半島ともども侵略される危機が迫っていた中、懸命に防備を固めていった時代だったのです。

 

 

さて、吉田松陰先生の教育のおかげで、国論を一つにして「無血革命」=明治維新を成し遂げた日本人ですが、学校の教科書では、このころの日本人の髪型や着物姿が欧米人からみたら奇異だった・・・というような書き方をされていなかったでしょうか?

 

実際のところは、そんなヘアスタイルやファッションの奇抜さよりも日本人の「精神性」が欧米の人たちから驚嘆されていたのです。

 

「渡航し、西洋文明の本質を見極めなければ日本は滅びる」という吉田松陰先生の心意気は幕府に影響を与えます。

 

1860年、日米和親条約批准のため2隻の軍艦をアメリカに派遣します。一隻は、米軍艦「ポータハン」。この船には、幕府の施設、静止の新見豊前守正興、福祉の村垣淡路守範正、目付け役として小栗豊後守忠順とその随行員が乗り込みます。

 

 

もう一つは、オランダで建造された幕府の軍艦、咸臨丸です。艦長は、あの勝海舟、そしてこの船には若き日の福沢諭吉先生も乗船していました。〈この船にのるために福沢先生はつてを求めて奔走したそうです。)

 

 

勝海舟と福沢諭吉は初めて西欧文明に触れ、日本の文明開化の必要性を痛感しました。

精神性、教育など無形の財産は蓄積されていましたが、現実の有形財産がほとんどなかったからです。

 

そして、西洋文明の研究が急務だとさとり、岩倉具視使節団の派遣へとつながります。

 

幕府は、先の使節団の前後、何回も使節団を派遣していますが、この岩倉使節団は総勢数百人を超える使節団でした。また、顔ぶれも、大久保利通(大蔵卿)、木戸孝允(参議)、伊藤博文(工部大輔)と明治の重要閣僚が並んでました。

幕府の重要閣僚が2年間も、海外の視察をするわけです。

この使節団の目的は3つ

1、明治新政府としての挨拶まわり(条約締結国元首の酷暑を奉呈する)

2、不平等条約改正の準備

3、西洋文明の見聞、吸収

でした。留学生も大量に派遣することにより、西洋文明を早急に学んで建国の原動力にしようとしたのです。

 

これは大成功で、、留学生の中からは、中江兆民団琢磨(後の三井財閥総帥)、津田梅子金子堅太郎〈日露戦争終結に向けて、アメリカとの斡旋に尽力した)が輩出され、明治国家の基礎を築きました。ちなみに、津田梅子は当時8歳だったというから驚きです。

 

そして、これらの使節団は欧米に日本人を初めて披露したのです。若き日の明治の元勲たちの堂々とした立ち居振る舞いに欧米人は驚嘆し、感動したそうです。

 

日本人はこのように、この時代から素晴らしかったのです。

 

 

吉田松陰は、昨年NHKの大河ドラマでその妹が主人公となりましたので、ご存知の方も多いと思いますが、1830年、萩に生まれます。山鹿流軍学師範の吉田家の養子となり、11歳の時にはすでに藩主毛利敬親の前で『武家全書』戦法編三戦を講じて認められるほど早熟でした。

 

19歳のときには、長州沿岸を巡視、その翌年に九州を巡視し、長崎、平戸で迫りくる外圧を実感します。その後、水戸学を学び、武士道精神、大和魂の本質を会得、志士たちに大きな影響を与えただけでなく、私塾松下村塾からは、山形有朋、伊藤博文などの人材が輩出されます。

 

特筆すべきはその先見性です。

黒船をみて、松陰はたった四隻で国内をこんなに騒然とさせる力とは何なのか考えます。西洋文明の根源を知ることが大切だとの結論に達した松陰は、憂国の思いが生じて、1854年に密航を敢行します。当時密航は、国禁で、露見すれば死罪だったにもかかわらず、です。

 

それは松陰の中に「大和魂」があったからです。

 

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

これは萩から江戸の獄に下る途中で詠んだ句です。

 

「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」

という辞世の句も有名ですね。

 

松陰の中に常にあったのは国家でした。

 

1人の教育者の思いが、幕末の騒然とした世の中で、国論を統一し、無血革命という奇跡を成し遂げたといえると思います。

アヘン戦争から約10年後、1853年太平洋からペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航、幕府に開国を迫りました。

 

初めて見る蒸気船に日本側も驚きますが(「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌はご存知のことと思います。)、何度もご紹介している通りペリーもとても驚きます。

 

野蛮な未開文明の人間が住んでいると思っていたら、日本人は火器は自由に使いこなすし、規律も礼儀も正しく、教育レベルも想像以上だったからです。

 

そこれ、ペリーは威嚇による開国を迫る砲艦外交をしたのです。幕府はこれに屈し、1853年日米和親条約、つづいて日米修好通商条約を結びます。これは、関税の自主権がない、治外法権を認めるという不平等条約で、この改正までとても苦労をします。この条約を解消するために、近代国家への脱皮を図ったといっても過言ではありません。

 

通商条約は、経済にも深刻な打撃を与え、反幕府運動が急速に盛り上がります。西欧列強と雄藩の摩擦も高まり、薩英戦争、長州と英米仏蘭連合艦隊との武力衝突を引き起こします。

 

おもに薩長両藩は開国、倒幕へと傾いていき、坂本龍馬の仲介で薩長連合を結ぶと、倒幕運動は急速に進んで、大政奉還、五箇条のご誓文へと進んで近代国家の夜明けを迎えたのです。

 

世界史の奇跡とも言われる無血革命が鳴ったのは、立場の違いを超えて国論統一がなったからです。

 

この国論統一の背景には、江戸の学問の隆盛による人材の育成があったわけですが、特にその功績が大きいのが吉田松陰です。

 

また次回につづきますね。

江戸時代については、

知的な防波堤を築いた江戸時代

に書きましたので、今日は江戸時代後期におこった「アヘン戦争」について書いてみたいと思います。

 

その前の1808年、フェートン号事件が起こります。イギリスの軍艦フェートン号がオランダの長崎商館の引き渡しを求めて長崎港に侵入、長崎の出島の占領を図るという事件が起こります。当時イギリスはフランスと戦闘状態にあり、フランス陣営に属していたオランダの海外拠点を攻撃して獲得しようとしていました。

 

この事件で、イギリスの脅威を感じた幕府はフランス革命やナポレオンに関する資料を集め研究を始めます。日本も国際情勢の変化に影響されるようになります。

 

そこでアヘン戦争です。

イギリスは、インド産のアヘンを清に売り込み、巨利をむさぼっていました。アヘンはヘロンインやコカインと同様の麻薬で、常用すると身も心もぼろぼろになるものです。世界各国でも輸入を禁じ、国内に入れません。当時、イギリスも自国への輸入は禁じていました。そんな麻薬を、大英帝国が堂々と清に売りつけていた理由はなんでしょう。

 

イギリスのねらいは二つです。

1、麻薬貿易による利益

2、中国人の退廃

です。

 

当時、清は「眠れる獅子」と恐れられていました。植民地化するために真正面から攻め込んでいくと、こちらも甚大な被害を受けると考えたイギリスは、まずアヘンによって人々を退廃させ、国力を弱体化したうえでわがものにするのが得策との戦略を考えたのです。

 

国内が退廃し、経済危機に襲われた清の道光帝はついにアヘンの販売、吸飲もいずれも死罪という厳禁政策を決定、イギリスは自由貿易を口実にアヘン戦争をしかけます。

 

私はアヘン戦争から学べることは3つあると思います。

1、戦争は、このようにどうしようもない状況から起こることがあるということ(清がこのままアヘンによって国内が衰退していくのを待つより、厳禁政策をとったことは国としては当然の判断だったと思います。)

 

2、世界には、アヘンという禁じ手を使っても利益を求める国があるということ(これは、現在の北朝鮮が覚せい剤の密輸で巨利をむさぼっていることからもわかります。)

 

3、目に見える戦争よりも国を滅ぼすために、内部を腐らせるという戦略があるということ(こちらは、現在の日本がGHQの3S政策=SEX,SPORTS,SCREENに国民を浸らせ、精神を骨抜きにしようととった政策にもみられます。)

 

敵を知れば百戦危うからず、これらの3つのことからこれからの日本のために、母親として考えることはたくさんあるかなと思います。

 

今回は少し、シビアな内容もありましたけれど、次回は、「吉田松陰」先生について触れたいと思います。