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人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

日露戦争での日本の勝利は、アジアの覚醒を促しました。

 

清は戦勝国日本に学べと、留学生を次々と送り込んできました。周恩来もその一人でした。

ピークのときには、中国人留学生は一万以上になりました。孫文は、留学生を組織し、「中国革命同盟会」を東京で結成しました。この同盟会が核となり、ちゅごく近代化の夜明けとなった辛亥革命を成功させました。

 

ベトナムでは、ベトナムの革命家ファン・ボイ・チャウは「ベトナム光復会」を結成しました。ベトナム光復会は、日本に軍事支援を求めますが、犬養毅、頭山満、大隈重信らはベトナム青年の教育が先決とし、ベトナム独立運動に挺身する200余人の青年を密出国させ、日本に留学させました。フィリピンでアギナルドやリカルドが独立運動に立ち上がったのもこのころです。インドでも、インドネシアでも、ビルマ(現ミャンマー)でも独立運動が起こります。

 

その影響力はアフリカにも及び、1977年、日本アラブ協会常任理事であった田中正明氏が、エジプトのアンワル・サダト大統領を訪問した折、大統領からこう言われたそうです。

 

「私は、近く日本を訪問するが、そのときは真っ先に明治神宮を参拝するつもりだ。今日エジプトが独立し、このような繁栄をきたしたのも、その根源をたどれば明治天皇様の率いる日本軍が、白人帝国主義のチャンピオンたるロシア帝国を破ったことに起因する。エジプトで今なお愛唱されている『日本の娘さん』という歌は、日露戦争に従軍看護婦として出征する日本の女性なのです。」

 

このように日本は、有色人種の国の希望の星だったのです。

「一戦終わればすぐさま和議」という作戦で始めた日露戦争でした。

児玉源太郎参謀長も「緒戦は必ず勝ってみせますから、必ず和議を結ぶよう頼みますぞ」と何度も伊藤や桂に念を押したといわれています。

 

日本は、イギリスとアメリカの支持を取り付けて、1904年に開戦します。多くの犠牲者を出しながら、旅順を占領し、奉天開戦に勝利。そして、当時、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃沈、セオドア・ルーズベルト大統領に仲介の労を頼み、巧みな外交交渉でロシアと講和条約を締結して、戦争に勝ったのです〈ポーツマス条約〉。

 

この条約で、日本は朝鮮の支配権をロシアに認めさせて、中国の遼東半島南部の権益を譲り受け、南樺太の領有を確認しました。

 

この戦争について、

「明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧氏族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが日露戦争である。」

 

と書いたのは、司馬遼太郎さんです。(『坂の上の雲』より)

 

生まれて間もない有色人種の国、日本が世界最大の陸軍国・海軍大国であった白人の帝国、帝政ロシアに勝った、このよう争外の勝利はロシアの脅威にさらされていたアジアの国々に希望をもたらしました。

 

私は、大学を卒業した年にトルコを訪れましたが、トルコには「ノギ・ソカタ(通り)」「トーゴ―・ソカタ」の名が残っていますし、各家庭に明治天皇と東郷平八郎の写真が飾られていました。

(ノギ=乃木希典陸軍大将ー二百三高地を陥落させた トーゴ―=東郷平八郎元帥海軍大将、バルチック艦隊を破り東洋のネルソンと言われた。)

 

 

とりわけ、欧米列強にしいたげられ続けていたアジ化の国々は喜びます。

 

インドのジャワハルラール・ネール首相は

 

「小さな日本が、大きなロシアに打ち勝ったことは、インドに深い印象を刻みつけた。日本が最も兄弟なヨーロッパの一国に対して勝つことができるなら、そうしてそれがインドにできないことがあろうか。長い間、インド人は白色人種であるイギリス人に対する劣等感にとらわれていた。イギリス人の長い支配や、1857年の反乱の野蛮な弾圧が、それを養ったのだ。兵器法によって武装を禁じられていた。我々に与えられた教育までもが、われわれに劣等感を与えた。そして、ヨーロッパ人は、アジア全体が一つの取り残された大陸であり、将来長くヨーロッパ人の支配を受けるべきものだと思い込んでいた。それ故、日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。そして、インドでは、我々が長くとらわれていた劣等感を取り除いてくれたのである。」

 

また、孫文も

 

「アジア人とヨーロッパ人とを比べるのに、以前は世界で優秀なのは白人だけだと考え、何事も白人の独占となっていた。我々アジア人は、白人にはおよびがたきものと諦め、中国人だけでなく、アジアのすべての民衆が絶望していた。そこへ、日本が忽然としておこり、世界の一等国になったのを見て、アジアの民族に無限の希望が輝き始めた。白人のやることはアジア人にもやれた。皮膚の色の違いは、知力や才能の優劣とは関係ない。そういうことがわかったのだ。」と語っています。

 

次は辛亥革命に日本が与えた影響についてです。

義和団の乱は、ロシアに満州に付け入る指揮を与えました。

 

他の7か国は鎮圧後、兵を引いたのに対し、ロシア軍だけは満州に居座り、朝鮮半島に触手を伸ばし始めたのです。ロシアの南進を阻止するために、日本は日英同盟を結んだ後、ロシアに宣戦布告をします。

 

当時、ロシアは日本の10倍の国家予算と軍事力を有する世界大国です。勝算はありませんでした。しかし、このまま見すごしていくと、ロシアの極東における覇権は増大するばかり、日本がやがて飲み込まれることは確実でした。日本の生き残りをかけて、戦わなければならない、これが日本政府の決断だったのです。

 

当時、宣戦布告を御前会議で、明治天皇は落涙されたという記録があります。勝つ見込みのない戦争に突入しなければ、亡国が待っているーこれが陛下の苦しい胸の内でした。政府の首脳も同じでした。

 

長期戦は到底かなわないので「一戦終われば、すぐさま和議」というのが伊藤博文や桂太郎首相の腹づもりで、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領と同窓だった金子堅太郎に大統領への仲介工作をあらかじめ依頼したのです。

 

次回、日露戦争とその後の各国の反応について触れますね。

日清戦争後の下関条約によって朝鮮半島の独立は認められました。

 

清に対しては、賠償金と遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲が決定されました。しかし、条約締結の3日後、満州進出の野望をもつロシアが、フランス、ドイツと組んで、清への遼東半島の返還を日本に迫ります。(三国干渉)。列強と相対するほどの軍事力はない日本はこの要求をのみます。

 

日本が三国干渉に屈した結果、朝鮮の親日派は動揺して、親日内閣が倒れ、親露派が勢力を拡大します。

 

ウェーバー露大使は、朝鮮の王室に接近し、ロシア軍をソウルに導き入れました。さらに満州などに偽装したロシア帝国軍を送り込み、要塞を着ず手、日本の対馬の正面に位置する巨済島に拠点を置こうと企てたのです。日本の当時の外相、小村寿太郎は「満州は中国の領土ゆえ何も言わないが、朝鮮に兵を入れたり、要塞を築くのは中止してほしい」と申し入れますが、ロシアはこれを無視。朝鮮王国を王宮から奪取して、ロシア公使館に幽閉し、ここで政務をとらせるという暴挙に出ました。2年間、この状態が続きます。

 

一方、日清戦争で日本に敗北した清は、西欧列強に次々と租借地を奪われ、分割されていきました。これにより民衆の不満が高まった結果、1898年、貧農の間で拡大していた反キリスト教・反外国を主張する自衛組織「義和団」を中心として民衆が河北一帯で蜂起しました。これがいわゆる「義和団の乱」です。

 

義和団の乱は日本、イギリス、ロシアなど中国に利権をもつ8か国の連合軍が鎮圧しました。このとき、他国の軍隊は略奪、虐待、交換などの非道な行為がありましたが、日本が治安を担当した駐屯地ではそういうことは一切ありませんでした。このことは先進国各国のジャーナリストを驚嘆させます。この時の評判が後に有色人種が白色人種の強国と対等な関係で結んだ世界初の同盟関係「日英同盟」へとつながっていくのです。

 

 

 

1894年に起きた日清戦争ですが、日本と清との戦争でありながら、戦場もおもに朝鮮、そして原因もほとんど朝鮮半島についての問題という戦争です。

 

しかも、遠因はやはり西欧列強の支配から、日本は日本として自分の国を守るためだったのです。

 

日清戦争前の、朝鮮について少し触れておきます。

 

朝鮮も長らく鎖国状態でしたが、1840年ころからイギリスを始めとする欧州船がたびたび訪れるようになります。

 

朝鮮半島というのは、大陸から一本の腕のように伸びていて、地政学上、日本にとっては喉仏に突き付けられた匕首のようなものです。ここが西欧列強の支配下にはいると、日本攻撃のかっこうの基地となり、後背地を持たない島国の日本は自衛が難しくなります。

 

1840年のアヘン戦争以来、清国はイギリスの手が伸びていましたので、日本としては朝鮮に「西欧列強の支配に屈しない自衛力のある近代国家」になってもらうことが、日本の安全保障上、もっとも必要なテーマでした。

 

朝鮮の開国は、江華島事件から起きました。日本政府が測量のため送った軍艦雲揚が給水のため江華島へ訪れた際、雲揚から水深を調べる為に出た小船に江華島の砲台から発砲、雲揚が「応戦」した事件です。日本船籍の軍艦が朝鮮に寄航することは許されていたものの、首都を守る要所に雲揚が現れた事と日本国旗が地方まで知れ渡っていなかった事から、これを排除しようとしたものであったのですが、のち日本政府はこれを口実として砲艦外交を押し出し、1876年江華島条約(日朝修好条規)が結ばれました。釜山・元山・仁川の3港を開港、ソウルに日本公使館を開設したのです。

 

不平等条約の一面はありながらも、江華島条約の第1条には「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」とありました。これは、朝鮮が従来もっていた華夷秩序との葛藤が起こしていくことになります。


華夷秩序というのは中国を中心とした東アジアにおける秩序のことです。

 

日本は開国した朝鮮の近代化を助けるべく、軍制改革を援助しました。

しかし、朝鮮の宗主国を自認する清にとって、朝鮮での日本の影響が強まることはおもしろくなかったのです。

 

1882年には、軍制改革に取り残された朝鮮の一部軍人の暴動が起こり、これに乗じた清は数千人の軍隊を派遣し、暴動を鎮圧し、日本の影響力を一時的に弱めます。

 

1884年には、明治維新にならった近代化を進めようとした金王均らがクーデターを起こそうとしますが、このときも清は軍隊を派遣し、親日派を徹底的に排除しようとしました。

 

1886年には、親善を名目に清は購入したばかりの軍艦からなる北洋艦隊を長崎に入港させて、日本を威嚇します。このような経緯があって、清の朝鮮への出兵に危惧を抱いた日本は半島に軍隊を派遣し、ここに日清の激突が起こり、日清戦争が起きたのです。

 

このように、日清戦争の遠因にも西欧列強のアジア侵略があり、日本は国防、自衛を考えて行動していたということは、学校の歴史の教科書では触れられていませんが、私たちは子供たちにしっかりと伝えていく必要があると思います。