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人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

対日戦略のオレンジ計画が立てられていることなど知らなった日本は、日露戦争の戦勝を機に、大陸への進出を急激にはやめます。

 

1910年、韓国を併合

1932年、五族協和、王道楽土のスローガンを掲げ、満州国を誕生させます。

 

こうした動きは、あくまでもロシアの脅威から日本を守るための防衛の一環でした。

 

そして、韓国併合、満州国の建設にあたっても、西欧列強がアジアで行った植民地支配のように資源の収奪、住民の奴隷化といった西洋方式の侵略には一切手を染めていません。

 

むしろ日本は、教育、インフラ整備といった韓国、満州の近代化に、乏しい資源の中から巨額をつぎ込んだのです。

 

満州国に日本が進出した背景には、アメリカの人種差別、東洋人の締め出しがあったことも触れておきます。

 

1914年から始まった第一次世界大戦には、日英同盟により日本も参戦しました。連合国からはヨーロッパの戦線にも参加してくれとの要望がありましたが、これは断り中国のドイツの租借地に軍艦を派遣して占領しました。大戦後、戦勝国の一国としてパリ講和会議に出席した日本が要求したのが「人種差別撤廃」です。

 

パリ講和会議では、国際連盟の下準備も同時に勧められ、国際連盟の規約を作成するにあたって、第21条に人種差別撤廃の規定を盛り込むように提案したのですが、圧倒的な反対に会い、否決されました。

 

それでも日本は諦めず、西園寺公望を団長とする日本代表団は「大戦に勝ったはインドがイギリスに協力し、ベトナムがフランスに協力したからではないか。日本も戦ったではないか。だから人種差別はこの際に撤廃して、人種は平等という原則を打ち立てようではないか。だから人種差別はこの際に撤廃して、人種は平等という原則を打ち立てようではないか。国際連盟の前文でもいいから、人種は平等であるという一行を加えてほしい」と何度も訴え、小委員会に付託されるまで粘ったのです。

 

小委員会では、11対5〈反対はイギリス、アメリカ、ポーランド、ルーマニア、ブラジル)で賛成多数を勝ち得ましたが、議長であったアメリカのウィルソン大統領はこのような重要問題の決定は「全会一致、少なくとも反対者がいないこと」が必要だとのまやかしの論理を振りかざし否決しました。ほんの90年ほど前でも、人種平等という4文字さえ認められなかったのです。

 

このときの確執が、後に日本の国際連盟の脱退につながっていきます。

 

 

オレンジ計画というのは、アメリカ政府内の委員会で検討された「カラープラン」と呼ばれるアメリカの対仮想敵国戦略の一部で、日本がオレンジで示されていたことから、対日本の計画のことを言います。

 

オレンジ計画が策定された第一の理由はその地政学的前提です。日米は、歴史的に友好関係にあったとしても、地理的に、いつか二国間で戦争が勃発するとの見通しがあったからです。

 

日本は、極東の小国であり、人、資源の支配のため領土の拡大政策をとる、一方アメリカは西欧勢力の守護者となり、民族の自決と貿易の自由を重んじる国であり、その二国がぶつかるのは必至。この戦争で、日本白衣の命運をかけ、国力を総動員する、しかし、海上封鎖を強めれば地理的な要因から日本の補給路は立たれアメリカが勝利、最後は空爆によって日本全土の生産施設を破壊し、沖縄を占領、日本を完全に孤立させて降伏を余儀なくさせるという計画だったのです。

 

日米は、セオドア・ルーズベルトが想定した通り、35年後に激突、オレンジ計画は実行に移されました。二国間にとどまらず、世界大戦となるなど相違点はありましたが、大筋ではほぼ計画通りだったのです。

 

日本の方は、アメリカをどうみていたかというと、多少国際情勢に疎かったというか、平和国家としての宿命なのか、ロシアの脅威のみを考えていたふしがあります。

 

1904年から1905年いかけて定められた「帝国国防方針」や「帝国軍要綱領」では、アメリカを仮想敵国の一つと想定はしていましたが、朝鮮半島に迫るロシアの脅威が主題で、第一の仮想敵国はロシアと考えていました。

 

戦争に明け暮れていた欧米とは違って、日本は日清戦争に踏み切るまで外国と戦争と呼べる戦いをしてきませんでした。日本がまれに見る平和国家であったがゆえ、陰謀渦巻く国際情勢が見えず、アメリカは未来永劫とまでは言わなくても、当分は友好国であり、北に対する備えをしておけば大丈夫だと思っていたのです。

ここ、今の日本とよく似ていませんか?

 

次回は、第一次世界大戦についてーです。

アジアの人々には希望を与えた日露戦争の勝利でしたが、一方、西欧にとっては「黄色人種が白色人種を将来おびやかすのではないか」という脅威となりました。

 

ドイツのカイゼル(皇帝)が、黄禍論を唱え始めます。

要は、黄色人種は白色人種にとって脅威であるという差別的な論です。

各国の黄禍論については、こちらをご覧ください。

 

黄禍論

 

対応な人間とみなしていなかった有色人種の国、日本が日英同盟のおかげとはいえ、白人の大国ロシアと戦い、勝利を収めたのですから、白人世界は心中穏やかならぬものがあったのです。

 

日本が日清、日露戦争の勝利に酔いしれていた頃、アメリカでは着々と将来に向けての世界戦略づくりが進められていました。セオドア・ルーズベルト大統領の手によって、陸軍統合会議が「オレンジ計画」の作成に着手します。これ自体は、アメリカの戦争計画であるカラーコード計画の一部ではありますが、アメリカが単独で日本のみと戦う場合を想定して作られたものでした。

 

カラーコード計画は、連合国VS枢軸国の対立を想定したレインボー計画に先行した計画です。

 

アメリカの仮想敵国を、ドイツは黒、イギリスは赤、メキシコは緑、日本はオレンジ色で表現していたことに由来します。オレンジ計画が策定された第一の理由は、地政学的前提でした。日米は歴史的に友好関係にあったとしても、地理的にいつか二国間で戦争が勃発するとの見通しだったのです。

 

確かに、西漸計画にそってフロンティアを進めてきたアメリカが太平洋に進んでくることは明らかで、そこに日露戦争に勝利した希望の星、日本がいるーこれは、いつか日米の覇権戦争が起こるとみるのは、至極当然であったと私は思います。

 

次回、オレンジ計画の具体的内容に触れますね。

日本が誇るべき軍人には、東郷平八郎ともう1人、広瀬武夫氏がいらっしゃいます。

 

広瀬氏は、戦前は「軍神」として誰もが知る人物だったそうです。

 

広瀬武夫中佐は、日露戦争の折、旅順港閉塞作戦に福井丸の指揮官として参加します。

あるとき、福井丸がロシア駆逐艦の攻撃を受けて自沈します。殆どの部下は逃げられたのですが、一人だけ、杉野孫七上等兵曹の行方がわかりません。そこで、広瀬は懸命に杉野上等兵曹を探し回り、どうしてもみつからないのでやむを得ず、短艇に乗って逃げようとしたときに、敵の砲弾にあたって戦死しました。

 

広瀬のこの行動は、その後長く語り継がれ、軍人の模範とされ、唱歌にも歌われています。

 

 

一、轟く砲音 飛来る弾丸
    荒波洗うデッキの上に
    闇を貫く中佐の叫び
   「杉野は何処杉野は居ずや。」

二、船内隈なく 尋ぬる三度
    呼べど答えず さがせど見えず
    船は次第に 波間に沈み
    敵弾いよいよ あたりに繁し

三、今はとボートに 移れる中佐
    飛びくる弾丸に 忽ち失せて
    旅順港外 恨みぞ深き
    軍神広瀬と その名残れど

 

また、次のような逸話も残っているそうです。

彼がロシアから引き揚げる途中、とても危険な難所にさしかかったそうです。そのとき、広瀬は日本のある子供とロシアの郵便切手を持ち帰る約束をしたことを思い出します。この約束を果たすため、その子にあてた手紙とロシアの郵便切手を封筒に入れ、「もし、わたしが死んだらこの手紙を子供に届けてください」と一文を添えて、自分の兄の元に送ります。

 

わが身を顧みず、部下を心配し、行方を探すー子供との些細な約束でも守ろうとするー

吉田松陰も「激誠の人」と呼ばれましたが、広瀬中佐にも私は「誠」を感じるのです。

 

このような素晴らしい日本人の祖先が、必死に守り、創り上げてきた日本を、素晴らしい国として子供たちに伝えてまいりたいと思います。

日露戦争で「グレート東郷」と世界の尊敬を集めた東郷平八郎について、少し触れておきたいと思います。

 

東郷平八郎は、1848年、薩摩に生まれます。15歳で戊辰戦争に参戦したのを皮切りに、宮古港海戦、函館海戦に従軍します。1871年に、当時、世界最強の海軍を誇っていたイギリスに留学し、海軍の技術を学びます。

 

(「東洋のネルソン」と言われたそうですが、やはり、ご縁があったのですね~。)

 

帰国後、海軍軍人として、出世をし、日露戦争の準備を始めるにあたって連合国艦隊司令官に抜擢されます。といっても、けっしてエリートコースではなく、地味な存在で、当時は閑職に就いていたそうです。彼を発掘、抜擢したのは山本権兵衛海軍大将でした。

 

東郷は決して才気煥発ではありませんでしたが、大軍の将は才気だけでは務まりません。度胸満点で決断力に優れ、命令も必ず遵守する東郷こそ大将の器にふさわしいと山本は考えたのです。

 

いざ、戦いが始まると、この山本の起用が間違っていませんでした。バルチック艦隊の進路について部下が質問をすると、あっさり「それは対馬海峡だよ。」と言い切ったそうです。

 

秀逸なのは、1905年、連合艦隊を解散するにあたっての訓辞です。

 

「昔、神宮皇后が朝鮮に進出してから400年、日本は半島に拠点を築いていたのに、ひとたび海軍が衰えると(白村江の戦いで)たちまちこれを失った。近年でも、徳川幕府の時代に太平に慣れてしまっていたら、ほんの数隻のアメリカ軍艦にも立ち向かうことができなかった。平和なときこそ、軍人は鍛錬を怠ってはいけない。そして、時代に取り残されないように技術の進歩を常に図っておかなければならない。一勝に満足して太平に安閑としている者は、ただちにその栄冠を取り上げられるであろう」

 

勝って兜の緒を締めよーこれが東郷の警告だったのです。

 

残念ながら、その後の日本の政治家、官僚にはこれを理解しませんでしたが、この東郷の合理的な精神に皮肉にも海の向こうで感銘を受けた人物がいたのです。

 

アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領です。

彼は、東郷の戒めに触発され、アメリカ海軍の装備の近代化に努めるとともに、効率的な戦術の開発に腐心して、着々と軍事力を蓄えていきました。

 

次回は、私の大好きな軍人、広瀬武夫さんをご紹介しますね♪