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人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

満州事変以降、中国では反日、侮日運動が高まり、各地で日本人が殺される事件が起きます。

満州では、小学生が通学するに当たり、関東軍の護衛つきでなければ、危なくて仕方がないといった緊迫した事態にまでなりました。

 

当時の政治状況は以下の状況です。

 

1911年、歴史的な孫文による辛亥革命が成就し、清は滅亡しました。その後、中華民国が誕生します。

 

臨時大統領に孫文が推されますが、まもなく、軍閥の代表、袁世凱が実験を握り、孫文は退きます。しかし、独裁体制を固めていく袁世凱に対し、孫文は対抗、1914年、真の民主政府を樹立するために再び立ち上がります。中華革命党を結成して、袁世凱の死後、1917年に軍閥政治打倒を掲げて広東にもう一つの政府を打ち立てました。この時出来たのが、中国国民党で、軍司令官を務めていたのが蒋介石です。

 

一方、1921年には、毛沢東、周恩来らが中国共産党を誕生させました。

 

この二大勢力は1935年にぶつかり、毛沢東の共産党軍は、蒋介石の国民党軍に還付なきまで叩き潰されました。毛沢東は、北へ北へと逃げ、延安に到着します。そこで、延安を警備していた張作霖の息子である張学良をそそのかし、西安に督戦のためにやってきた蒋介石を捕虜にしてしまいます。延安から、周恩来の軍制もかけつけ、蒋介石の運命はもはや風前の灯だったのです。ところが、そこに、ソ連のスターリンから電報が入ります。

 

その内容は

 

「蒋介石を生かして日本と戦わせろ」

 

スターリンは日露戦争の敗北の恨みを晴らそうと、その機会を虎視眈々と狙っていました。狡猾なスターリンの考えたこの戦略は、孫子の兵法の「戦わずして勝つ」に基づいていました。敵同士を戦わせ、両者が疲れ果てたときに、漁夫の利を得るーというものです。

 

この場合の敵とは、日本、中国国民党だけでなく、アメリカ、ドイツ、イギリスなどの欧米資本も含まれていました。

 

その後のシナリオがご存知の通り、最後の最後にソ連は参戦。

日本から北方4島や樺太を奪い、中国、東欧などの共産主義化に成功したのです。さらに終戦のどさくさに紛れて、日本人105万人をシベリアに長期抑留、奴隷同前に使い、酷寒の地でシベリア鉄道の建設に携わらせ、40万人もの日本人を虐殺したのです。

 

 

満州事変に関して、国際連盟はイギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣し、調査にあたらせました。

 

その報告書では、

「満州における西欧各国の不法行為が日本の安全を脅かしたことは認め、日本の権益を承認はしたものの関東軍の行動を自衛行為とはみなさない」とされました。

 

このため、関東軍の撤兵と満州の国際管理を勧告します。

 

日本政府は、これを拒否し、満州国を承認。

 

1933年には、国際連盟を脱退します。

 

この満州事変に対しては、下記のような意見が出されています。

 

張学良軍の日本への圧迫・弾圧は筆舌に尽くし難く、奉天近辺だけでも暴行や器物・施設の破壊などの日本人及び日本企業関係の被害が、1年間で30万件を超える有様だった。

また、日中間で満鉄と並行する鉄道は敷設しないという取り決めになっていたのに、中国側は約束も日本の抗議も無視して2本の平行鉄道を作り、満鉄の売り上げは1/3に激減した。(社員4千人の解雇も)

日本が既得権を持っていた関東州と満鉄を奪い返すという中国の方針が、重光葵公使と王正廷外交部長との折衝中に露呈してしまった。以上のことから、満州事変は既得権を守る自衛の戦いであった。  田原総一朗 「日本の戦争」

 

満州事変の実態を言うと、前年あたりから国民政府は「革命外交」を始めた。(不平等条約を撤廃し、租界・租借地を回収し、鉄道も返してもらうというもの。国民政府は革命だからというだけで、国際法上の根拠は何もないままこれをやろうとした) たとえ不平等であっても、国際条約で決められた権益だから当然諸外国は反発した。日本も幕府が結んだ不平等条約を、革命政府である明治政府が血のにじむ努力で改正していった。それを条約改正なしにやろうというのだから理屈は通らない。だから「衝突路線」をとったのは国民政府の方である。

しかし国民政府にしてみると、条約がある以上、国際社会で法律論争をしても勝てるわけがないし、武力を使えばそれこそさらに権益を失うことになる。そこで国民党が指示を出し、排日侮日運動が行われる。婦女子に対する暴行・日本製品の不買・日用品を日本人には売らないといった嫌がらせが毎日行われた。これを繰り返すことで、いたたまれなくなった日本人に出ていってもらうという戦略。
満州にいた日本人が結束し、自衛のために立ち上がらなくてはならないと考えたのも当然である。しかし当時の日本政府、特に幣原外相は動かない。そこで関東軍が動いた。 渡部昇一 岡崎久彦 諸君!2002/11月号

外国人の意見も紹介します。

 

中国が自分から博打に負けて、満州を手放してしまったのだ。 
      K・カール・カワカミ 「シナ大陸の真相 1931‐1938」

「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分が、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだと、我々は解釈しなければならない」マクマリー メモランダム(邦訳「平和はいかに失われたか」)1935年時点

民主主義諸国は、自分たちの利益が脅かされるとみれば中国で頻繁に武力を使った。満州事変における日本の武力行為は、それ以上のものではなかった。  へレン・ミアーズ 「アメリカの鏡・日本」

ここから、日本と中国の対立が激しくなってきますが・・・ここにも各方面の陰謀があったのです。

だんだん、重いテーマになってきましたがご家庭でママが子供たちに真実の歴史を語れる何かのヒントになればいいなあ、子供たちが誇りを持てる人生を歩んでほしいなあという思いで書いています!(^^)!

アメリカを始めとする白人諸国の「日本人の移民反対政策」によって、満州がいよいよ日本の生命線になったことは前回触れました。

 

さて、いよいよ満州事変です。

 

日露戦争の勝利にによって日本は満州南部の関東州を租借し、南満州鉄道(満鉄)の営業権を譲り受けました。昭和の初期には、満州に20万以上の日本人が住んでおり、その保護と、関東州、満鉄を警備するため1万人の陸軍、関東軍が駐屯していました。

 

満州事変とは、広辞苑にこう書かれています。

「悪名高き関東軍が武力で満州を占領したという満州事変。関東軍は線路爆破し、
それを中国軍の仕業だとして戦闘を開始した。」
(事変=国際間の宣戦布告なき戦争《広辞苑》)

それでは当時を振り返ってみましょう。

 

当時、満州を支配していたのは軍閥・張作霖です。張作霖は、人民から収奪はしても内政を行わないという悪徳政治家でした。「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べています。

 

そして1928年、張作霖爆殺事件が起きます。張作霖自身が、虫の息で「日本軍がやった」と言ったとされていますが、他方、毛沢東伝の「マオ」によると「コミンテルンの謀略」としており、異説を唱える人も多くいます。 渡部昇一氏もその後ソ連の解体から出た資料から、コミンテルンメンバーが実施した資料が出てきているとし、この説をとっています。 また爆破写真を見ても貨車の天井が飛んでいるので、自分が内部から爆破したというコミンテルンのメンバーの証言の方が信憑性が高いとされています。

 

 

そして、満州事変の勃発です。柳条湖事件とも言われます。

1931年9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件です。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表し、関東軍が満州を占領します。

 

アメリカのとった排日政策について触れます。

 

1913年 カリフォルニア州が外国人の土地所有を禁じる土地法案を成立

(日本人移民は、主としてカリフォルニア州に固まっていたので、これは明らかに日本移民を狙ったもので、俗に「排日土地法」と呼ばれている)

 

1920年 第二次「排日土地法」がカリフォルニア州法として定められ、日本人がアメリカ生まれの子(アメリカ市民)の名義で土地を取得することや、土地を所有する会社の社員や株主になることさえ禁じられ、農地の貸借権も禁止される。

 

1922年 日本人の帰化権が剥奪される。

黄色人種は帰化不能外国人であり、帰化権はないとされた。しかも、過去にさかのぼって適用されるとされ、第一次世界大戦でアメリカ兵として兵役に服し、帰国後、帰化権を得てアメリカ市民になった500人以上の日本人も帰化権をはく奪された。

この帰化権剥奪のため、80%の日系移民が、汗を流して作り上げた農地を残して帰国したのです。

 

そして・・・

 

1924年 「絶対的排日移民法」を可決し、日本人移民をシャットアウト。

 

これにならい、オーストラリアも白豪主義を打ち出し、カナダやニュージーランドでも日本人移民を拒否しました。

 

アメリカの排日運動は多分に戦略的な意味合いも含まれていましたが、当時はこれが偽らざる有色人種に対する白人の考え方だったのです。

 

帝政ロシアのニコライ皇帝も日本人を終生、「マカーキー〈サル〉」と呼んで憚らなかったのです。呼んだだけでなく、公文書にまで書いていたのですから心底そう思っていたのでしょう。

 

それまで日本人は、どちらかといえば親米、尊米でしたが、一気に反米感情が高まりました。

 

当時の日本は人口過剰で、なおかつ貧乏でした。

 

白人諸国に移民の道を閉ざされたことで、満州がいよいよ日本の生命線となったのです。

国際連盟の規約に「人種差別撤廃条約」を盛り込もうとしてかなわなかったわけですが、当時の有色人種に対する考えはどんなものだったのかについて触れたいと思います。

 

日英同盟を結び、世界の列強の仲間入りをした日本ですら、同じ人間扱いはされませんでした。

 

1906年、サンフランシスコ大地震が起きます。日本政府は、日露戦争後の苦しい財政の中から、当時の国家総予算の千分の一以上にあたる50万円、現在の貨幣価値に換算すると約600億円という巨額の救援資金をサンフランシスコ市に、5万円を在留邦人に送りました。日露戦争の際のアメリカの仲介に対するお礼と、日本人移民への差別を少しでも緩和したいという願いがあったからです。

 

しかし、なんとサンフランシスコ市はどうしたでしょうか?

 

地震によって学校が壊れたり焼失し、公立学校が狭くなったという理由で、日本人、朝鮮人、中国人を焼野原に立てた小さな小屋に隔離してしまったのです。

 

日本の支援で建てられた新しい学校には、誰ひとり入れてもらえなかったのです。

 

当時のサンフランシスコ市の日本児童は100人にも満たない数です。新しい学校に入れるはずはないという理由は、有色人種の児童の隔離の口実でしかなかったのです。

 

そして、その後のアメリカは次々に排日政策を実施していきます。

また次回に触れますね。