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人生を変える英語学習 教育×英語×お仕事

子育て中のやり直し英語でTOEIC講師、実務翻訳者という自分の夢を叶えながら子供たちの英語教育リテラシー向上も果たしました。
「勉強しなさい」と言わない子育てで、長男は東大合格、長女が国立大医学部に合格しました。
教育コーチングを通して学習の自立をサポート

日本の真珠湾攻撃は、日本のだまし討ちと言われますが果たして本当にそうだったのでしょうか?

 

東京裁判でもだまし討ちだったと裁こうとしましたが、逆に事務的な手続き上のミスでアメリカ側に通達が送れただけだという事実が確認されています。

 

さまざまな偶然が重なって、「交渉打ち切り、宣戦布告」の電報をアメリカ側に手渡すのが遅れ、その前に攻撃が実施されたというのが真相です。

 

さらに、暗号解読に優れていたアメリカ政府は日本大使が送れて通告する前にすでにその事実を知っていました。

 

Remember Pearl Harbor-はアメリカが国民を鼓舞し、戦争へと誘うときの常套句です。

 

実は是と同じことをアメリカはその昔やっています。

 

テキサスがまだメキシコの領土だった頃、アメリカ人は1835年に独立戦争をお越し、劣勢となったアメリカ義勇兵たちは、翌年155人がサンアントニオのアラモ砦に立てこもって応戦しました。しかし、メキシコ軍によって壊滅させられたのです。

 

このとき、アメリカが掲げたのが「リメンバーアラモ」の合言葉です。

アメリカは復讐に燃えて、総力戦を展開し、独立を勝ち取り、1846年に併合してテキサス州としました。そればかりか、余勢をかって、メキシコに宣戦布告、勝利し、当時のメキシコ領の半分にあたる膨大な領土を手中に収めました。

 

この時、奪取したのが減税のカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ネバダ、ユタ、ワイオミングの各州です。

 

アラモ砦のアメリカの義勇兵は、メキシコ侵略の囮だったと言われています。

 

次回は、「リメンバーメーン号」について触れますね。

1941年8月、プリンスオブウェールズ号感情で、イギリスのウィンストン・チャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領は大西洋会談を行います。

 

いかに、日本に先制攻撃を仕掛けさせられるかという協議をしていたと言われています。

 

ヒトラーのドイツは、ドーバー海峡にまで侵攻し、ロンドンに砲撃が及ぶようになり、チャーチルは焦っていたのです。何とかアメリカを参戦したかったのです。

 

ルーズベルトはルーズベルトで、すぐにでも参戦したかったのですが、一つ問題がありました。

当時、アメリカ国内の世論は孤立主義が支配的で、ルーズベルトも第二次世界大戦の戦場にはアメリカの青年は送らないとの公約を掲げて、当選していたのです。参戦するには、戦争に反対する世論を納得させるだけの理由が必要でした。例えば、先制攻撃を仕掛けられるーというような。

 

そのため、ルーズベルトは、潜水艦をつかってドイツの商船を二度沈めています。しかし、ヒトラーはのってきませんでした。

 

そこで、日本にその役をやらせようと考えたのです。

 

そんなことを知らない日本では、10月になっても平和的解決を模索していました。10月16日に、近衛内閣が倒れて東条英機内閣ができます。東条はこの時、陛下より、あくまでも外交交渉を続けるようにとのお言葉を賜ります。これを知ったグル―駐日アメリカ大使もクレギー駐日イギリス大使も、本国に「日本は真に平和を望んでいる。今こそ、和を結ぶべき」と打電しますが、ルーズベルトもチャーチルも取り合いませんでした。

 

その代り、アメリカがつきつけてきたのは、「ハル・ノート」です。その内容は、

・中国大陸からの全面撤退

・日独伊三国同盟の即時破棄

など、日本が到底のめない条件でした。

 

このハル・ノートは、ハル国務長官の案ではなく、財務省高官であったハリー・ホワイトが起草し、ルーズベルト大統領が「これで行け」と言ったものであることが戦後明らかになっています。ホワイトは、戦後も要職にありましたが、その後スパイ容疑が出て自殺しています。

 

また、ハル・ノートが手渡される前日、ホワイトハウスでは、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官が会合しています。スチムソンが当日の会議の様子を、日記に明確に記録しています。

 

「我々が課題な危険にさらされないで、日本の最初の一弾を撃たせるように、どのように誘導していくかが話合われた。」

 

日本軍が進駐したインドシナ沖に、アメリカは軍艦に仕立てた四隻の廃船をおとり船として浮かべ、日本が攻撃したら戦争のきっかけにするという挑発も行っていました。

 

また、『操られたルーズベルト』

 

 

という本では、大統領の長女の夫であるカーチス・ドール氏が、家族との会食の席でのルーズベルトの発言について触れています。

 

「私は決して宣戦はしない。私は戦争を創るのだ。」

 

また、真珠湾攻撃の前日には「明日戦争が起こる」とつぶやいていたそうです。

 

次回、「リメンバーパールハーバーとは何だったか」について書きますね。

日本と国民党軍が、日支事変に突入すると、アメリカはイギリスと組んで露骨に介入をしてきました。

 

日本が満州国を誕生させた1932年、アメリカではフランクリン・ルーズベルトが大統領となります。彼は激しい人種差別主義者で、とくに日本人が嫌いでした。ここに日本の不幸があったと思います。

 

ルーズベルトが日本叩きに利用したのが蒋介石です。アメリカとイギリスはフランス領であった北部仏印〈インドシナ半島〉のハノイとビルマから重慶の蒋介石政権に武器弾薬、食糧などの援助物資を送り、抗日軍事援助を行ったのです。ルーズベルトの狙いもスターリンのそれと同じでした。蒋介石政権と日本軍が泥沼の戦いを繰り広げ、共倒れになれば、アメリカにとっては都合がよかったわけです。なぜなら、日中両国が疲弊すればするほど、中国での利権獲得が容易になるからです。

 

1940年、アメリカは「フライングタイガー」と名付けられた正規の空軍200人を蒋介石群に派遣、日本と戦わせたのです。日本とは中立条約を結んでいたにもかかわらず、宣戦布告もなしに義勇軍という名を借りて、事実上参戦したのです。さらに蒋介石政権に多額の借款を与え、経済的にも支援をしました。

 

一方、日本に対しては、1937年7月、通商航海条約の破棄を通告し、10月にはアメリカ大使が条約の締結を拒否、翌年、条約は失効しました。

 

ここに至って、当時の阿部信行内閣は、フランス政府と協定を結んで、アメリカの支援ルート遮断に動きました。しかし、アメリカと戦おうとは思っていませんでした。物資の豊富なアメリカと戦っても、1年ももたないとわかっていたからです。政府は、一方で急激に悪化しつつあった日米間系の緩和に懸命に努力を重ねていたのです。

 

それにもかかわらず、アメリカはイギリス、中国、オランダと交渉を重ね、共同戦線を張って経済封鎖を敢行します。(ABCD包囲網ーAはアメリカ、Bはイギリス、Cはチャイナ、Dはダッチ〈オランダ〉)。日本は、日独伊三国同盟を結んでアメリカと対抗しようとしました。

 

1941年、たまりかねた日本はアメリカとイギリスの中国への物資援助ルートを絶ち、資源を手に入れるべく、インドシナ半島へ駐留を開始します。

8月になると、この動きに対し、アメリカは日本への石油の全面禁輸を実施しました。当時日本は、石油の99%を輸入に頼っており、その大半がアメリカとオランダ領インドネシアからでした。

 

この両方を遮断されれば国内に入ってくる石油はほぼゼロに等しくなります。

 

「石油の一滴は血の一滴」と言われた時代です。石油がなければ、軍艦も戦車もトラックも動かない、工業もとまるー戦争をするしかなくなります。これを知りながら、ルーズベルトは石油の禁輸に踏み切ったのでした。

 

日米開戦やむなしの状況に追い込まれた日本ですが、9月6日の午前会議では、この状態では対米英戦争は避けられない、しかし、同時に外交に全力を尽くし、平和裏に解決の道を探る、10月上旬までに交渉がまとまらなければ開戦を決意せざるを得ない、といった方針が決まりました。

 

しかし、昭和天皇の御心はあくまで外交での解決だったのです。

 

そのとき詠まれたお言葉にその思いが込められていると思います。

 

よもの海はらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

これは、明治天皇の御製を記した紙片を詠みあげられたものです。

 

人類はみんな兄弟だ、なぜそれなのに争うのであろうかという明治天皇の御製に託し、あくまでも平和的解決を望まれたのでした。

 

時の首相、近衛文麿は陛下の御意を受けてルーズベルトに連絡をとり、日米首脳会談を開きたいと申し込みます。

 

次回に続きます。

さて、この間のアメリカの動きについて見てみたいと思います。

 

張学良と組んで、満鉄包囲網を築いて、じわじわと満州の日本の利権を圧迫していったのです。

 

少しふりかってみますと、

 

満州を巡る日本のアメリカの確執は、日露戦争後直後から始まります。

 

日露戦争中、日本を支援し、莫大な戦費を貸し付けたアメリカの実業家にハリマンがいます。彼は鉄道会社の経営者で、日本が獲得した南満州鉄道の共同経営をもちかけてきました。日本政府は一度はこの申出を受け入れたのですが、仮契約の段階で、小村寿太郎外相が国益上から断固反対をし、仮契約を反故にします。

 

ハリマンのバックにはアメリカ政府の意図があったと見るべきだと思います。

 

柳条湖事件が勃発したころにっは、アメリカの満鉄包囲網は完成していました。

リットン調査団の報告には、これをほのめかす一節があります。

 

「四半世紀における国際戦争は、鉄道の戦いであった」

 

次回、アメリカについてもう少し触れますね。

 

敵同士を戦わせ、できるだけ長期戦に持ち込んで、両者が疲れ果てたときに漁夫の利を得るースターリンが考えた戦略です。

 

その後は、その通りに進んでいき、最後の最後になってソ連は参戦、日本から北方四島や樺太を奪い、中国、東欧などの共産主義化に成功ー

 

少し振り返ってみます。

 

いつ果てるともない中国との泥沼の戦い、日支事変い日本をひきこんだのもスターリンと気脈を通じていた中国共産党でした。義和団の乱なと、日本は西欧列強と同様、清国と条約を結び、北京周辺に四千万人の駐屯を派遣していました。

 

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた清水中隊に何者かが発砲する事件が起きます。〈盧溝橋事件〉。上官の命令がなければ応戦できないと7時間もの間、隠忍自重(苦しみをおもてに出さず、じっと耐え忍んで軽々しい振る舞いを慎むこと。)をしていましたが、三回目の発砲でやむなく応戦しました。これが発端となって、日本と国民党軍との全面衝突が始まります。

 

誰がしかけたのかーは今でも真相はわかっていません。

 

事件の翌朝、早くも中国共産党は「日本が蜂起した。北京が危ない。戦闘の準備を」との檄を飛ばしています。盧溝橋事件50周年を記念して、1987年に中国で出版された書籍には、共産党の策略が成功したとも書かれています。

 

最近のでは、中国共産党は国民党軍にも同時に発砲し、国民党軍と日本軍は互いに誤解して戦う羽目になったのだという見解が定説になっています。

 

確かなのはかつて訪中した社会党の国会議員が、毛沢東に「中国を侵略して日本は悪いことをした」と謝罪をすると、毛沢東は「何をおっしゃいますか。日本が国民党と戦ってくれたおかげでわれわれは天下をとれたのです。」と答えているのです。