前回、源義経(みなもとのよしつね)さんが

大陸に渡って、モンゴルの英雄である

チンギス・ハンになった、という説があるって

やんわり話したけど、それはあり得るのか。

 

今回はそのへんを検証してみよう。

 

てゆーか、まず義経さんとチンギス・ハンの

ビジュアルをざっくり想像してみてほしい。

 

義経さんは背が小さくて

戦場を軽やかに飛び回るイケメン。

 

対してチンギス・ハンは、

背が高くて筋骨隆々。

立派なひげをたくわえた威厳のある剛の者。

 

ビジュアルだけでこんなにも違う。

だから別人です。

検証終わりー。

 

てゆーわけにもいかないのでちゃんと検証。

 

まず家系から。

 

源義経。

清和天皇から始まる河内源氏の家系。

父・源義朝(みなもとのよしとも)と、

母・常盤御前(ときわごぜん)の子。

 

常盤御前が産んだ子は3人で、

今若丸(いまわかまる)、後の阿野全成(あのぜんじ)

乙若丸(おとわかまる)、後の源義円(みなもとのぎえん)

牛若丸(うしわかまる)、後の源義経(みなもとのよしつね)

 

異母兄弟で、義朝さんの3番目の子、

源頼朝(みなもとのよりとも)とは

12歳離れた兄弟だった。

 

次に、チンギス・ハンの家系。

モンゴルでの伝説上の始祖、アラン・ゴア氏の子、

ボルジギン氏の家系。

 

父・イェスゲイ・バアトルと、

母・ホエルン・ウジンの子。

本名はテムジンで、史料上では5人兄弟の長兄とされる。

 

父・イェスゲイはモンゴル部族の有力者だったけど、

テムジン幼少の頃に毒殺されてしまった。

母・ホエルンは夫の死後一族から見捨てられて

5人の子どもを困窮の中、女手ひとつで育てた。

 

義経さんは河内源氏の名門の子だけど、

父の敗死で立場を失った家系の子。

テムジンさんは、ボルジギン氏の有力家系の子だけど

父の死で一族から見捨てられた子、

という点では似たような境遇にある。

 

それじゃ次は、それぞれの略歴。

 

源義経。

1159年、京都で誕生。

1160年、平治の乱で源氏敗北、父義朝死亡。

1160年代、鞍馬寺に預けられる。

1174年頃、15歳頃に奥州平泉へ向かう。

1180年、21歳、頼朝の挙兵に参加。

1184年、宇治川・一ノ谷で活躍。

1185年、屋島・壇ノ浦で活躍。

1185年、頼朝と対立し、追われる立場となる。

1187年、奥州藤原氏を頼る。

1189年、31歳、衣川館で自害。

 

テムジン。

1162年、テムジン誕生。

1170年代、父死亡、一族から孤立。

1180年代、20代の頃、勢力を広げ部族抗争を勝ち抜く。

1180年代後半、ジャムカらと対立。

1190年代、30代の頃、モンゴル諸部族を統合。

1206年、クリルタイでハンに推戴(すいたい)、

    チンギス・ハンとなる。

1211年、金王朝へ侵攻。

1215年、53歳、中部(北京あたり)攻略。

1219年、ホラズム遠征開始。

1225年、63歳、モンゴルへ帰還。

1227年、65歳、西夏遠征中に死去。

 

義経さんは戦場の英雄だけど、人をまとめられずに

追われて自害することになった。

テムジンさんは部族をひとつにまとめて、

国家のシステムまで作ってモンゴル帝国の英雄になった。

 

ふたりはどっちも没落貴族の出で

武力が高かったことは共通するんだけど、

政治力の才覚に大きな差があったってことだね。

 

ビジュアル面での差に加えて、

その点でも大きな違いがあったし、

家系も日本とモンゴルでそれぞれしっかりと差があるから

ふたりが同一人物だったって説は

完全に否定されるんじゃないかな。

 

じゃあなんで義経さんがモンゴルに渡って

チンギス・ハンになったなんて話が生まれたかというと、

義経さんは江戸時代、

舞台を賑わす悲劇の英雄として大人気になった。

 

どんだけ人気があったかを示す話にこんなのがある。

 

江戸時代、歌舞伎とか人形浄瑠璃の

義経さんに全く関係ないお話しの中で

なんの脈絡もなく義経さんが登場。

 

「ここに現れ出たる義経公!」とアナウンスが入ると

観客がもーどっかんどっかん大喜び!

 

ただ、ほんっとーになんの脈絡も関係もないので、

「さしたる用もなかりせば、これにて御免。」

別に用はないから帰るね、と義経さんがしゃべって

すぐに舞台袖に引っ込んじゃったらしい。

 

でもそれを見た観客はやっぱり大喜び。

「今日も義経さん見れたよー!」

「義経サイコー!」

「でもやっぱりすぐ引っ込んじゃった!」

「また顔見せてよー!頼むねー!」

と、一瞬しか出てこない義経さんを求めて

舞台は大盛況だった。

 

あんまり人気がありすぎて

こんなのが定番ネタになってたらしい。

 

現代で言うと、夜のメロドラマに

ドラゴンボールの悟空が急に登場して

「おっすオラ悟空!じゃあ急いでっから!またな!」

って飛んでっちゃうみたいな。

 

本筋の役柄演じてる役者さんは

「何この時間」って、しらーっとしちゃうだろなぁ。

 

義経さんは江戸時代、

こんな異常な人気があるキャラクターだったから

そりゃもー歴史ひんまげてでも

実は生きてて北海道行ってたんだとか

大陸に行ってチンギス・ハンになって

モンゴル統一したんだよなんて言われたら

「さすが義経さん!かっこいー!」って

大喜びされたんだろね。

 

このお話しを親友が教えてくれたときには

私もお腹抱えてめっちゃ笑ったもん。

 

とゆーわけで結論。

江戸時代のエンタメ、なんでもアリ。

 

UTDN-0065

こんにちわ、私はうてゅうでぃんです。

どうも地球での生活が上手にできないので、

もしかして私はうてゅうでぃんなんじゃないかとか、

なんならうてゅうに帰ったほうがいい感じに生活できるんじゃないかなとか、

そんなことを考えたことがあります。あるだけです。

天の川銀河のオリオン腕に住んでることだけは確かです。

 

北海道各地にある、源義経伝説。

 

源義経は亡命先の

奥州平泉(岩手県南西部、西磐井郡平泉町)で

藤原泰衡(ふじわらのやすひら)軍に囲まれて自害した・・・

 

はずだったけど、実は生き延びていて

武蔵坊弁慶や静御前たちと一緒に

青森とか北海道に逃げ延びた、という伝説がある。

 

加えて大陸に渡って、

モンゴルの英雄チンギスハンになったとか

そういう伝説もあったりする。

 

私としては荒唐無稽で信じてない説なんだけど、

江戸時代に、義経は若くてイケメンで

壇之浦の戦いで功績をあげたにも関わらず

兄の頼朝に嫉妬されてころされてしまった

悲劇の少年ヒーローとして大人気になって

判官贔屓(ほうがんびいき)、

今でいう「義経推し」の対象になった。

義経さんが亡くなったのは31歳の頃で

「少年ヒーロー」って言うには無理あるけどね。

 

ただこの義経という人は

なかなかやんちゃな人で、

初代鎌倉幕府の征夷大将軍である兄頼朝の家来を

「兄貴の家来なんだからおれの家来だよね」

とか横柄なこと言い出して

「なにこいつ」って思われてたってエピソードがある。

そりゃお兄ちゃんとしても

「やばいこいつどうにかしないと」ってなると思う。

 

戦いも確かに上手ではあったんだけど、

例えば断崖絶壁から奇襲したり、

山に火を放って混乱してるとこを奇襲したり、

敵の武士が乗ってる船で操船してる

非戦闘員の漕ぎ手をまず攻撃したりとか、

よく言えば効率的、でも悪く言えば

武士道のかけらもない

卑怯極まりない手段で戦いに勝って、

「おれにかかればこんなんよゆーだし」

みたいな態度をしてたらしい。

 

なので部下からも

「ちょっとこいつやばくない?」って思われて

逃げられたり寝返られたりよくしたらしい。

 

武士道っていうのは、いくら敵であっても

相手のこれまでの人生で積み上げた

武術の研鑽と人として大事な

・義(人として正義を貫く心)

・勇(正しさを信じて実行する)

・仁(人への思いやり)

・礼(相手への敬意や礼儀)

・誠(人としての誠実さ)

・名誉(誇りを持つこと)

・忠義(主君への忠誠心)

これらの心を重んじて、

相手を尊重するという考え方。

 

鎌倉時代、武士の時代になるにつれて

武士道は「君主への忠義」から始まって

「武士たるもの、こうあるべきだ」

って考え方が広まったと言われてる。

(このへん諸説あるからわかんないけどね)

 

それらが欠けてる人は言っちゃえば

ただ武器を振り回して他人を威圧してるだけの

あぶない人でしかない。

 

義経は武術は確かなんだけど、

人として心が足りない人だった。

だからお兄さんからも部下からも信頼されない。

 

ここが私がいまいち義経さんを好きになれない理由ね。

 

ところで私はある時期、

北海道の新冠(にいかっぷ)という場所に住んでた。

人間より馬が多い牧場の町で、

名馬ハイセイコーの生まれ故郷として有名らしい。

あとレコードの町として町起こししてる。

あの音楽のレコードの歴史を紹介した博物館

「レ・コード館」がある。

 

そのレ・コード館のすぐ近くに、

「判官館(はんがんだて)」と呼ばれる

海に面した小高い丘がある。

 

当時調べた伝説によると、平泉から逃げ延びた義経は

小舟で新冠に辿り着くと、海に面した判官館の崖を

馬で駆け登ったという。

この崖にはいくつか不自然な穴があいてるんだけど、

それは義経がこのとき付けた蹄の跡だって。

 

すぐ横に平らな浜があるのに

わざわざ馬で崖を駆け登る

義経さんかっこいー。

 

そしてこの丘の上にあった木を使って館を作って、

北海道での第一拠点にしたという話。

 

ちなみに今はアスレチック場兼キャンプ場

「判官館森林公園」として使われてる。

 

ただおもしろいのは、

義経が育った平泉の「高館(たかだち)」と

この「判官館」にはいくつか共通点がある。

 

川の近くにある丘で、木材が豊富。

周囲は断崖絶壁で、周囲は密集した木に守られてる。

武士が守りの要衝とするにはぴったりの地形。

それがわかってた義経さんは

北海道沿岸を北上するにあたってこの場所を選んだ

というのはなかなか納得できる話だったりもするんだ。

 

それに新冠は元々資源も水も確保できる場所で、

アイヌの集落があった可能性も高い。

そして西暦1190年前後の鎌倉時代であっても

アイヌと和人(日本人)は交易してた可能性がある。

 

アイヌの毛皮とか海産物とかと、

和人のお米とか鉄製品とか漆器とか。

そういったお互いの文化にないものを

取引しあってたんじゃないかな。

 

ちなみに和人に対するアイヌ最初の武装蜂起は

記録上では西暦1457年のコシャマインの戦い。

 

義経が北海道に渡ったとすると

記録上の没年1189年よりあと。

それまでいろんな土地を経由していったとすると、

1200年くらいに到達した可能性がある。

 

記録上のアイヌと和人の交流が

確かにあった時期と比べるとその差250年以上。

 

その頃にアイヌと和人の交流があったのか、

そもそもその頃アイヌ文化があったのかは

実際のとこ微妙ではあるんだけど、

そこは歴史ロマンパワーでなんとかしてもらう。

 

新冠判官館に着いた義経さんたちは

ただそこに館を建てれば済む話じゃない。

食べ物も確保しなきゃいけないし、

生活必需品も用意しなきゃいけない。

 

だから義経さんは近隣のアイヌ集落にいって

イケメンを生かしてこう言うんだ。

「やあ子ねこちゃんたち、ボクと交易しなぁい?」

「きゃーするぅー♡」と

色めき立つアイヌの女の子たち。

 

ちなみにアイヌの女の子たちは

結婚適齢期に近づくにつれて

口のまわりにシヌイェと呼ばれる

大きな口の形の入れ墨をしていく。

(その頃のアイヌ文化にシヌイェがあったかは知らない)

 

義経さん、その奇妙な姿にどん引き。

 

でもまー、背に腹は代えられない。

とりあえず交易を始める義経さんとアイヌ。

このときお互いに

「こういうのはこうしたほうがいいよ」

みたいな文化交流があったかもしれない。

 

ちなみにアイヌ文化には

オキクルミとか、サマイクルとか

アイヌに生活を豊かにする文化を教えて

武芸も達者だったという英雄神の伝説がある。

それがこの頃北海道に渡った義経なんじゃないか

みたいな説もあるね。

 

まー、北海道に来てたら、

っていう前提から信じてないけど。

 

でもそれも歴史ロマン。

義経が北海道に来てたら

こういうところに拠点を構えるはず。

地形が高館に似てるし、

ここを判官館と呼ぶことにしよう、

みたいに考えた人は確かに義経さんの大ファンで、

しっかり地質的な知識も含めて

歴史考察できる人だったんだと思う。

(もっちょっと判官贔屓おさえてほしかったけど)

 

ちなみに当時調べた限り、

いちばんエキセントリックな義経関連伝説は、

北海道岩内町にある雷電岬(らいでんみさき)で

弁慶さんが大好きになっちゃったアイヌの女の子が

弁慶さんを引き留めようとするんだけど

「来年また来る」と嘘をついたあとに

雷電岬から飛び降りて

下に浮かんでる小舟に飛び乗った、っていう伝説。

 

その時の「らいねん」が

「らいでん」に変わって雷電岬と名付けられた、

なんてむりやりな由来つきで。

 

雷電岬の高さは最大約150m。

弁慶さんが海面に到着する頃には

落下速度秒速54m、

時速195kmほどに加速されてることになる。

 

弁慶さんの質量を巨体と鎧と武器コレクション含めて

軽く見積もって150kgだとすると、

海面に到達する頃の衝突エネルギーは22万ジュール。

 

万が一豆粒大の小舟に飛び降りたとしても

その場で小舟は粉砕!

弁慶さんの身体も粉砕!

 

目測を誤って海面に衝突したとすると、

高さ10m近い水しぶきがあがって

周囲数mに高さ3m近い波、

周囲20mでも1m近い波が押し寄せて小舟は転覆。

そしてやっぱり弁慶さんはたいへんなことに・・・。

 

てゆー概算になるって

「柳田理科チャットGPT」先生が言ってた。

 

当時「へぇー義経さん北海道きてたんだぁ」なんて

純真無垢に考えてた私ですら

さすがにそれはありえないって笑った伝説。

 

提唱したほうも

「さすがにそれはないかー」って思ったみたいで、

今調べたら義経さんがロマンスの対象に変わってて

ふつーに海岸線から小舟で出発したことになってる。

 

うん、まーいいんだけどさ。

 

弁慶さんにもロマンスさせたげて。

 

UTDN-0064

こんにちわ、私はうてゅうでぃんです。

どうも地球での生活が上手にできないので、

もしかして私はうてゅうでぃんなんじゃないかとか、

なんならうてゅうに帰ったほうがいい感じに生活できるんじゃないかなとか、

そんなことを考えたことがあります。あるだけです。

天の川銀河のオリオン腕に住んでることだけは確かです。

 

私は川越で生まれ育ちこそしなかったけど、

今に至るまででぃん生の半分近くを

川越で過ごしてて、川越のことが大好きだ。

 

川越にはいろんな伝説、伝承があるけど、

そのひとつに童謡「通りゃんせ」は川越発祥、

という言い伝えがある。

今回はそこを検証、

そして童謡「通りゃんせ」とはなんなのか

を紐解いていこうと思う。

 

通りゃんせ発祥の地と伝えられているのは、

川越城本丸御殿のすぐ隣にある、三芳野神社。

ここに通りゃんせ発祥の地とうたう石碑がある。

 

まずここで、通りゃんせの歌詞を確認。

 

通りゃんせ 通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ

天神様の細道じゃ

ちょいと通してくりゃしゃんせ

御用のない者通しゃせぬ

子どもの七つのお祝いに お札を納めに参ります

行きはよいよい 帰りはこわい

こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

 

この歌詞は短いながらも矛盾と謎がいっぱい。

 

川越城は、西の大手門から入って

中門または埋門を通って外曲輪、

そして三の丸、二の丸を通って

本丸御殿に到達できる正規ルートと、

南にある南大手門から入って、横の細道に入って

田曲輪門と天神門を抜けて三芳野神社に至る裏ルート、

(天神門を入ったところにさらに門があって、

 そこから直接本丸にも行ける)

北にある新郭門からぐるーっと大回りして帯曲輪門を通って

天神門を通って三芳野神社に至る大回りルートがある。

(新郭門から二の丸に直接行く蓮池門ルートもある)

 

伝えられるところによると、

南大手門→田曲輪門→天神門→三芳野神社

というのが三芳野神社参拝のメインルート。

 

でもそんな簡単に本丸まで行けていいのかな?

 

そして歌詞の内容を確認。

 

まずひとつめ、「通りなさい」とうながす言葉。

でもその後、「用がないなら通さない」と断ってる。

 

ふたつめ、「ここはどこの細道じゃ」と、

目的があって来たはずなのに確認する言葉。

 

みっつめ、スサノヲノミコトとクシナダヒメを主祭神とする

三芳野神社を「天神様」と呼んでいること。

 

「天神様」とは、菅原道真(すがわらのみちざね)公を

神格化したもので、全国で「天満宮」と呼ばれてるのが

本来の「天神様」のはず。(天満宮の主祭神は道真公)

 

一応、三芳野神社では

菅原道真公と誉田別尊(ホンダワケノミコト)を

配祀(はいし∕主祭神の他に神様を祀る)してるけど

主祭神をさしおいて「天神」と普通呼ぶかな、

っていう疑問が生まれる。

 

よっつめ、七五三の最後に、天神様にお札を納める、

という風習は、私の調べた範囲では確認が取れない。

七五三という風習は、確かに三歳、五歳、七歳という

子どもの成長の節目のお祝いをそれぞれ

「髪置の儀」「袴着の儀」「帯解の儀」として

平安時代の宮中から始まって、

江戸から明治時代にかけて一般に広まった風習で、

神前でその成長の感謝とこれからの無事を祈願する

というものなんだけど、本来は

・家の氏神(うじがみ)様、

・集落の鎮守(ちんじゅ)様、

・産土神(うぶすながみ)様、

・日頃から信仰してる社寺

とかに感謝、祈願するものであって、

それが「天神様」じゃなきゃいけないなんて道理はない。

川越にとって、天神様が重要な神様ならわかるけど、

わざわざ密偵を疑われながら城郭に入って、

本丸の近くまで行ってお祝いをしなきゃいけない、

なんて危険をおかす道理もないんだ。

 

いつつめ、「お札を納めに参ります」。

納めに、ということは、

それより以前にもらったお札を返すこと。

そのお札をいつもらったのかがはっきりしない。

 

むっつめ、「行きはよいよい 帰りはこわい」。

本丸の近くまで行く、ということは、

最悪、一般人に変装した密偵の侵入を

本丸近くまで許してしまう、ということ。

入るときにこそ厳重に調べられて、行動を見張られて

怪しい行動がなかったかを出るときまで見張られる。

行きもこわいし、帰りもこわいはずなんだ。

 

ななつめ、「こわいながらも 通りゃんせ」。

恐ろしいけども、通りなさい。

そんな思いをしてまで通らなきゃいけない

なんて道理がわからない。

そもそも川越には、

城郭の外に菅原道真公を主祭神として、

三芳野神社とほぼ同時に開いた「菅原神社」もある。

どうしても菅原道真公に参拝しなきゃいけないなら

そっちを外宮(そとみや)として参拝すれば

一般人と警備兵、お互いにストレスもないし、

城郭のセキュリティも万全。

なのにそれをしないのは不自然。

 

こんな感じで、

川越城郭内にある三芳野神社が発祥とうたうには

この歌詞だけで七不思議がある。

 

ところで世の中には

必要以上に物事を怖がらせる情報を出して

一般人の目を引く、という手法があって、

「本当は怖いグリム童話」とかを代表するように

この歌詞もそういった手法の対象になる。

 

ただ私は思うんだけど、

「通りゃんせ」はもっと単純なんじゃないかな。

 

私が推すこの歌詞の意味の説、それは

「あくまで通りゃんせは童謡である」

というもの。

 

幼少期の生存率が低かった当時、

七歳を迎えた子どもは、

順調にそれまで成長してきたことを喜ばれる。

 

そして11歳から16歳頃に

「元服(げんぷく)」と呼ばれる儀式で

大人として認められるまでの準備期間に入る。

 

身体は成長して、

精神も大人としての作法を学べるくらいに成長。

これから大人としてなにを学んでいくべきか。

 

その第一段階として行われたのが

「通りゃんせ」という遊び。

 

これはよく知られる通り、

大人または少し上のお兄さんお姉さんが

手を繋いで門のような形を作って

「通りゃんせ 通りゃんせ」

と子どもたちを促して、

歌い終わりに「門の中」にいる子どもを

手を下ろして閉じ込めてしまうという遊び。

 

「ここはどこの細道じゃ」

「天神様の細道じゃ」

これは、「この門はなにを意味するものなのか」

という設定を子どもたちに教える歌詞。

 

「御用のない者通しゃせぬ」

ここで子どもに少し恐怖を植え付ける。

 

「子どもの七つのお祝いに」

「お札を納めに参ります」

でもこっちには通る道理はあるんだ、

だから通りますよ、と

恐怖をはね除ける子どもたちの意識を

ここで植え付ける。

 

「行きはよいよい」

「帰りはこわい」

ここでやっぱりこの門を通ることは

こわいことなんだよ、という意識を

あらためて子どもたちに植え付ける。

 

「こわいながらも 通りゃんせ」

でも目的があるから通らなきゃいけない、

その強い意思があるなら、通りなさい。

 

そしてひとりを閉じ込めて、

やっぱりこわい目に遭う人はいるんだ、

と、恐怖を可視化する。

 

この流れを遊びの中で繰り返しやって、

強い目的意識があれば

恐怖は乗り越えられるんだよ、

という意識を子どもたちに植え付けるのが

この歌と遊びの目的だって説。

 

怖がりな子どもに

ひとつ大人の階段を登らせる。

 

この説なら、

まだ幼い子どもたちと

遊びながらできる

一種の「通過儀礼」としてこの歌がある、

ということが過不足なく説明できるんだ。

 

この歌の成立時期は不明。

いつからあるのかも、

誰が作ったかもよくわからない。

 

じゃあこの歌を発祥とうたう

川越は嘘つきかな?

 

それは断じてちがう。

 

川越市は一貫して

「発祥の地と言われています」

「そういう行事の様子が歌われていると

 伝えられています」

と断定を避けてる。

 

ただ、川越城の城郭の作りから、

細道もあるし、本丸の近くに神社もあるし、

歌詞とマッチする部分も多い。

 

だから観光資源のひとつとして

発祥をやんわりと主張しているのであって、

川越市は決して嘘は言ってない。

 

これを知ってなお、

小さい頃から遊び場として慣れ親しんで

長年川越に住んで川越が大好きな私も

「川越市なんて嘘つきだ」なんて思わないしね。

 

わざわざ北海道の平取(びらとり)に

立派な「義経神社」をひらいて

実は義経は平泉では死んでなくて、

その後蝦夷(北海道)に渡って

北海道各地のアイヌの女の子を

メロメロにして回ったり

北海道各地で足跡を残したりしたんだよ

なんて荒唐無稽な伝説を主張してるより

なんぼもましな観光資源の在り方だと思うよ。

 

義経さんに急な流れ弾。

 

UTDN-0063

こんにちわ、私はうてゅうでぃんです。

どうも地球での生活が上手にできないので、

もしかして私はうてゅうでぃんなんじゃないかとか、

なんならうてゅうに帰ったほうがいい感じに生活できるんじゃないかなとか、

そんなことを考えたことがあります。あるだけです。

天の川銀河のオリオン腕に住んでることだけは確かです。

 

ささのはさらさら。

今日は2026年7月7日。

七夕の日、じゃない。

 

え、7月7日は七夕だよね?

うん、おおむね合ってる。

 

えっと、今日7月7日だよ?

うん、でも七夕は今日じゃないよ。

 

さて、どーゆーことだー。

 

七夕は、天の川に隔たれた

織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)が

1年に1回だけ会う日。

どういう伝説かは、

まー有名だしここで書かなくていいね。

 

日本じゃ七夕の時期って梅雨まっただなか。

なのでその日は雨になることが比較的多い。

 

だから、会えない悲しさを表現する悲しい涙、

催涙雨(さいるいう)という解釈もあれば、

雲の上では会えてるんだから喜びの涙、

っていう解釈もあるんだけど、

実はどっちも見当違いだったりする。

 

この七夕という伝説は、中国が発祥。

実は2000年以上前からあるものなんだ。

 

7月7日は七夕なのに、七夕じゃない。

この不思議を解く鍵は、「太陽暦」と「太陰暦」にある。

 

太陽暦(たいようれき∕グレゴリオ暦)は、

地球が太陽を公転(1周)する

日数を基にして作られた暦(こよみ)で、

1582年にローマ教皇

グレゴリオ13世に制定されて、世界に広まった。

 

そして太陰暦(たいいんれき∕ユリウス曆)は、

地球の衛星、月が

新月から満月になって、また新月になる

そのサイクルを基にして作られたこよみで、

現代でも1月、2月、3月・・・と言われる由来。

その1年で新月になった日を月のはじめと考えて、

そのサイクルが何回目なのかをあらわしてるんだ。

これは紀元前46年に、

ローマのユリウス・カエサルに制定されたもの。

 

でもこの太陰暦だと、1年がだいたい354日になる。

足りない11日が積み重なっていくと季節がずれて、

1月が夏とかおかしなことになっちゃう。

 

だから3年に1度、「閏月(うるうづき)」を設けて

13月を作ることでこよみを修正していってたんだ。

これが、太陽太陰暦(たいようたいいんれき)。

日本では明治5年(1872年)まで

この太陽太陰暦が採用されてたんだけど、

文明開化を期に太陽暦に移行した。

 

2000年前、中国では太陰暦が使われてた。

そして7月7日の前後に、

上弦(じょうげん)の月になる。

月の形を弓になぞらえて、

弓の弦(つる)が上に来る、というのが上弦の月。

天の川の位置にさしかかったあたりで、

ちょうど舟に見える形になるってこと。

 

そしてその上弦の月が

旧暦(太陰暦)の7月7日前後に、

こと座のベガから、

わし座のアルタイルまで、

天の川を横切っていく様子を見た昔の中国の人は、

川に隔たれた恋人が

月の舟に乗って会いにいく、

なんて想像をしたんだ。

 

なんてロマンチック。

 

それが七夕のはじまり。

 

だから太陽暦でこよみが進んでる現代で

7月7日に月の軌道を見ても、

上弦の月でもなければ、

ベガからアルタイルへ行く軌道でもない。

 

これが「現代の七夕は、本来の七夕じゃない」

って言われる原因なんだ。

 

2026年の本当の七夕は、8月20日。

この日は旧暦(太陰暦)の7月8日にあたって、

ちょうど上弦の月が

ベガからアルタイルへの軌道を通る日。

 

梅雨もすっかり明けて、暑いさなかに

織姫と彦星は天の川で涼みながら会う日。

 

だから、あわてて願い事することないよー。

のんびり待って、来月願い事しよー。

 

まー、笹も短冊もないけどね。

 

UTDN-0062

こんにちわ、私はうてゅうでぃんです。

どうも地球での生活が上手にできないので、

もしかして私はうてゅうでぃんなんじゃないかとか、

なんならうてゅうに帰ったほうがいい感じに生活できるんじゃないかなとか、

そんなことを考えたことがあります。あるだけです。

天の川銀河のオリオン腕に住んでることだけは確かです。

 

私は日本語があまりしゃべれない海外の人の

おはなし相手をするのがわりと好きなでぃん類。

 

日本が好きでネットを介して

日本コミュニティに来る人とか

海外からの留学生の

OJT(※)をするのがわりと好き。

※On the Job Training / 仕事をしながら業務を覚える

 

だからって私は英語をしゃべれる訳じゃないし

純日本でぃんなのに、

日本語だっておぼつかない。

 

でも、言葉が通じなくたって

心が通じるってことはよくある。

 

相手がこちらに危害を加える気さえなければ、

身振り手振りとか目配せとか

なんぼだって心を通じさせることができる。

 

かえって同じ日本語の母語話者なのに

一向に心が通じない人だっている。

というか、そういう人はわりと多い。

 

なんでわかってもらえないのかって心を痛める前に

私は早々にこの人はそういう生物なんだ、

心を通わすなんて無理な生物なんだと諦める。

 

のれんに腕押し、ぬかに釘。

意味のないことはしてても意味ない。

 

おんなし人間だもん、話してわかんないことはない、

なんて幻想を追いかける前にその人とは距離を置く。

それを冷たいと表現して非難する人とも距離を置く。

私のでぃん生において意味を成さないから。

 

この前、英語圏出身じゃないけど、

ある程度英語と、ほんの少しだけ日本語がしゃべれる

学生さんのOJTを担当した。

 

私の職場に入ってきて1週間、

この職場において絶対にやっちゃいけないということを

平然とやってた留学生さん。

 

2日目にちょっと関わったときに、

「それやっちゃだめだよ」って説明したんだけど

にこっと笑って「わかりました」って言った直後に

またそれをやっちゃってた姿を見て、

あー理解してないなー、さーどうしよっかなー

って思ってたとこで、

今度は1日その子の担当をすることになった。

 

お互いの話をつたない英語と日本語を織り混ぜたり

身振り手振りで話しながら一緒に仕事をして、

上手くやってるときにはほめて、

なんか間違ったときには実際に私が自分でやりながら

「これNo!だめ!」

となぜだめなのかを実演しながらひとつひとつ教えた。

 

そうしてるうちにだんだん仲良くなってきたとこで、

いよいよその、絶対にやっちゃいけないことを

やってる現場を見た時に、私はいちばん語気を強くして、

「それNo!(だめ) Very Bad!(絶対だめ) Guilty!(罪)」

と呼び止めて、正しくやる方法を実演しながら教えた。

それを3回繰り返して、本人にもやらせた。

 

その子はびっくりしながら

神妙に「わかりました」と答えて、

しっかりと正しくその行動をするようになった。

そこで私はもう満面の笑みで

「Very Good! Perfect! Don't Forget! できたね!」

とほめちぎってハイタッチをした。

するとその子は「ありがとう、わすれない」って

笑顔で答えて、その後も正しくやってるのを見るたびに

「Good Good!」と親指を立てて見せたら

笑顔でサムズアップを返してくれるんだ。

 

私としてもすごい達成感。

やった!心が通じた!よかった!

ここ最近でなにより嬉しい瞬間だったねー。

 

私たちの仕事は夜勤専門で、

その子は留学生だから、

ウィークデーにはそのまま学校に行く。

 

お仕事をしながらお互いのことを話すときに、

その子の通う学校に

私と同じ名前の先生がいると教えてくれた。

そこも私に親近感を感じてくれた要素だったかも。

ここでは仮に、

その先生の名前を「でぃん先生」としとく。

 

終わり際に「このあと、学校?」と訊いたら

「がっこう、いきます」と答えるので、続けて

「つかれた?」と訊いたら、

「つかれた、でもたのしい」と笑顔で答えてくれた。

 

うれしいこと言ってくれるじゃん。

 

私は続けてこう言った。

「授業で、寝てもいいよ!」

「だめ、でぃんセンセイに、おこられる!」

その子は大笑いしながら言う。

なので私も笑顔で、

「私も、でぃん先生に怒られる!」

と言ってから、「おつかれさま!またね!」と送り出す。

そうしたら、その子は言うんだ。

「ありがとう、こっちの、でぃんセンセイ!」

 

もう最高にうれしい。

しあわせすぎる。

 

こうやって日本語の母語話者以外と

心が通じた瞬間がたまんないね。

 

その子と顔を合わすのは週2回。

また会えるのが楽しみだなぁ。

 

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