祝津・青塚食堂 特大ニシン炭火焼き | シリベシアン(後志人・Shiribeshian)

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We will introduce sightseeing spots in Hokkaido, mainly Niseko and Shakotan.

民謡江差追分の一節

 

忍路(おしょろ)高島(たかしま)およびもないが

せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで

 

ニシン千石場所であった忍路高島には、たくさんの男衆が出稼ぎに行きました。しかし積丹半島神威岬からは女人禁制だった。追って来た女たちは忍路高島にはついて行けないので、その手前の歌棄磯谷までは見送りたいというラブソングです。

 

ただ商人たちは、忍路高島は無理でも歌棄磯谷だけは欲しいと願ったようです。

 

かつてニシン漁で栄華した高島場所祝津(しゅくつ)。

高島場所とは色内、手宮、高島、祝津の四村を指す。

 

色内と手宮は都市化が進んだが、祝津は三大網元、青山家、茨木家、白鳥家のニシン漁場建築があり、昭和初期の風景が残っている

 

小樽迎賓館 青山別邸

 

高島場所は、寛文七年(1667年)近江商人の住吉屋西川伝右衛門が請負、明治初年に請負制度が廃されるまで、西川家が忍路場所とともに引き継いだ。高島場所に和人が定住しはじめたのは、神威岬以北の女人禁制が解かれた安政以降のこと。移住者の多くは、「二八取」として鱈釣、鰊刺網などに従事していた。西川家は請負制度廃止後も小樽周辺で商業活動を展開した。

 

高島岬には映画「喜びも悲しみも幾歳月」1957年(昭和32年)のラストシーンで使われた日和山灯台がある。

 

 

灯台下には昭和33年(1958年)、北炭創立70周年を記念して、泊村照岸から明治30年建築の旧田中家住宅が小樽市鰊御殿として移築された。昨年の大雨で現在は公開されていない。

 

 

トドの鳴き声が響き渡るおたる水族館の入口近くに昼時になると海外、内地からの観光客で賑わう青塚食堂がある。

 

 

青塚家は明治後期に秋田から小樽へ移住し、祝津の三大網元と呼ばれる家の船頭となった後に漁師として独立した。昭和33年(1958年)、祝津地区が北海道大博覧会の「海の会場」となり、水族館が建設されます。夏場は漁師としての収入が少ないために、この頃から海水浴客や博覧会の客を相手とした民宿青塚食堂を開業した。翌年には小樽市立水族館(現在のおたる水族館)として開業。当初は水族館が3月から11月までの営業だったため、青塚食堂もそれに合わせて冬季は休業していた。平成5年(1993年)からは、通年営業になりました。

 

 

名物の特大ニシン一匹丸ごと炭火焼きに、刺身、ホタテ焼き、生ウニ丼が大人気だ。