閉店SALEがそんなに長いわけがない -12ページ目

閉店SALEがそんなに長いわけがない

タイトルとは無関係の極私的読書感想文

まったくいつまでも寒いので、本を大量に購入してみた。

まずは、ずっと前から文庫化を切望していた高村薫の『レディージョーカー(上中下)』。いつも文庫化にあたっては、これでもかというくらい(時にはオチにまで)改稿する作者が、実に十数年を経て送り出すのだから、これは買うしかないだろうってば。表紙が似ているので、新堂冬樹(日サロ焼けの偉人)の『カリスマ』と間違えないようにしたい。

そしてもう1冊(正確にいうと4冊目)は、伊藤計劃の『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』。ゲームのノベライズ、というかノベライズなぞは大体がっかりするのでまず買うことはない。だが『メタルギ(長いので略)』は伊藤計劃がノベライズ化したというだけの理由で購入。なにせあの伊藤計劃だ。面白いのは間違いなさそうだ。とはいえ、お恥ずかしい話、伊藤計劃なる作家を知ったのはつい最近だった。

ある日書店で見かけた『虐殺器官』という意味深なタイトル。伊藤計劃という不思議なペンネーム。惹かれた。さらに、大御所が名を連ねた大仰な帯の宣伝も振るっていた。そしてなにより、『ゼロ年代最高のフィクション』らしい。なんか凄そうだが、ようはここ10年で一番おもしれーってことのようだ。

そこまで色々薦められると、臍曲りなボクは買わずに帰ってしまう。実際、その場では買わずに帰ったが、心のどこかに引っかかるものはずっとあった。

まあそんな感じで褒めてるんだが貶してるんだかよくわからんが、読後はいやはや凄いと感じた。SFといいつつも、妙な浮遊感だけを味あわされることはなく、戦場のリアリティは地に足が着いた妙な落ち着きを感じる。悲しいとか嬉しいとかが麻痺したリアリティ。

ボクらが普段放り込まれているこの世界が平和だと感じさせられるのは、悲劇を悲劇と、喜劇を喜劇と思えるからなのだろう。マグロの寿司を満面の笑みで頬張りながら、ある個体種の絶滅を危惧して悲しむなんてホラー以外の何ものでもない。戦場でその悲劇や喜劇を感じることはできない。ベトナムやカンボジアの子どもが無表情なのはそのためだ。

痛みを痛みとして感じない、とか戦争代行企業の存在、とか戦争に駆り出される少年少女達を見舞う性暴力とか、今日的な問題を問題としてしっかり提示しつつ、そこそこのユーモアと残虐性でもって纏め上げた筆力はお見事。

夭逝で残した長編はわずかに3冊。噛み締めたい、と思った。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)/伊藤計劃

十数年に渡って世界をさすらい歩いてきた作者にとっては、東京も彷徨うにちょうど良い街だということなのでしょうか。変貌を続け、歴史と進化と頽廃を電車一歩んで味わえる東京。とりわけお台場あたりにいくと、今でも茫漠たる叢が駅前に広がり、その隣には高層のマンションが群れを成して屹立する。あれはいつ見ても異様な光景だな、と思っている。

文明論とか文化論は難しくてよくわからないので、飽くまで感じたままを書くしかない訳だが、かの鈴木俊一東京都知事がニューフロンティアにしたかった街ってこんな寂れた世界だったの?まるで爆撃されたかのごとく空き地を縫うように点在する建物。商いと居住の必然性、人が通るから生まれる街の起源を無視して、ご都合で配置された都市は地図で見ると整然としていても、歩くと迷う。街の顔がないから迷う。ボクがいまだに新宿副都心に行くと方向感覚を失うのは、副都心が昔貯水池だったから故の立体構造に依るものだけとはいえない。知らない誰かが図面を引いて、模型をあちこち動かして作った街には生身の人間が介在しないから、つるんとしたのっぺらぼうの如き街ができてしまう。ボクはそれが許せない。

だいぶ話が逸れたが、『東京漂流』を読んでいると、そうした街の変貌が人の生活に与えた影響が、白けた雰囲気を醸成しているのではないかという気にさせる。街の営みが何層も何層も積み重ねられたものでなく、上から土砂で押し潰すように変えられたことに、住民はアホらしくなったのではないか。アホらしいから、なら好き勝手にやりまっせ、てなところだろう。

そういう白けた雰囲気に、張り手をかまされる気分になるのが『東京漂流』だ。能弁なカメラマンが見た、今(といっても現在ではないが)の世界。作者がまだ開発が進む十年以上前の湾岸エリアに、どこまでも虚無的な東京の座標の中心を見いだしたのは偶然ではないはずだ。

ヘドロの沈む東京湾。土をそっくり入れ替えなければ鮮魚市場も作れないほど土壌が荒れた街。ポリシーのない自由の女神。空騒ぎの極みのテレビ局をシンボルとして成長する街。ある意味東京らしさが詰まった街に今なら何を見るだろう。

東京漂流/藤原 新也


ずいぶんご無沙汰になってしまいました。

統計からするとおそらく誰も読んでいないブログだって、放置はイカンし投げたらアカン。ごめんなさい面倒くさかったわけじゃないんです理由があるんです言い訳を聞いてください(焦りすぎ)。

近頃本業でデタラメな散文を書き散らす仕事が増えてきました。それなりに理に適ったものを要求され続けていると、ある意味糞詰まりが起きてしまう。起承転結を考えて・・・とかやってるうちに堅いウ●チばりに文章が出てこなくなる。出てこないからかけない、とまあそういうわけです。

そもそもPCに向かって書くのがスタイルに合っていないという問題もある。なんだかいけそうな気がする天津木村なフィーリングになるのは大体電車の中か風呂の中。どこぞの国家公安委員長みたいなテラテラなGたちに揉まれているうち、あるいはテラテラを泣きながら石鹸で洗い流すうち、いざPCの前に座るときには、なんだか今日は行けないかもなEDフィーリングに変化してしまうのです。ペレごめん。

だから少しばかりスタイルを変えてみることにしました。基本的に推敲はしない。途中で支離滅裂になっても修正はしない。ハチャメチャな感じになっても知らんと。手直しは後からするぞ、と。

つまりそういうことで今回からしばらく書いてみようと思う。

ついでにブログのタイトルもいじってみることにしました。読んでナンボ観てナンボといいつほとんど映画を観ないので、やめます。どんなタイトルにするかはまだ決めてない。いつの間にか変わっていることでしょう。

さて、ブログをさぼっている間は、本もほとんど読んでませんでした。というか、一冊ずつに実に長い時間をかけていたと言うか。それだけ濃い作品が多いということかもしれませんが。じつにこの2ヶ月でわずか3冊くらいしか読んでいません。

「殺人者たちの午後」

「東京漂流」

そして、まだ読みかけですが「虐殺器官」です。

順番から言うと「殺人者たちの午後」の紹介です。
ようやく本題です。

突然ですが、イギリスでは殺人を犯すとみなさん終身刑だそうです。死刑という法律がないので、最高刑ですね。いや、みんな終身刑なんだから、刑の軽重という概念もないですね。懲役○年も無論オムロンありません。1人だろうが7億人だろうが5兆人だろうが、殺人を犯すイコール終身刑です。何人だからあなたは何年、相手が子どもだから何年、みたいな数学的量刑に常々違和感を抱いているボクには、イギリス式はとてもわかりやすい。

ただ、終身刑とはいえずっと狭くて暗くて臭い檻の中に居続けなければいけない訳ではないのです。服役態度が優秀とか、看守に対する心付けが行き届いているとか(これは嘘)、さまざまな理由によって仮釈放されます。仮釈放に至るルールはかなり厳格だそうです。

釈放後は保護司の監視の下、ある程度自由な生活ができます。監視、定期的な報告義務のことですが、真面目に生活することでどんどん間隔が空いてきます。数年に一度、なんて人もいます。しかし悪さをするとまた厳しい生活(毎週末は会いに行かなくてはならない、とか)に逆戻りとなります。

長々とイギリスの量刑システムについて書いたのですが、沢木の手によるあとがきにもあるとおり、この仕組みをよく知らないと登場人物の独白の重みがよく感じられません。彼らにとって仮釈放後の生活(ライフ)がどんなものであるか。原題のライフアフターライフ(終身刑を受けた後の生活)とはなるほど意味深な題名だと思いました。

登場人物はみな、殺人を犯した者たちです。彼らは終身刑後の人生をどう生きるのか、自らの罪とどう向かい合うのか、それが実に淡々と語られています。中には信じられないほど残虐な殺人を犯した人物もいて、正直そのギャップに驚きを隠せない場面もありました。

死刑と有期刑では全く刑の重さが違います。無期懲役と終身刑もまた似て非なるものです。無期懲役は刑期が決まっていない有期刑なので、模範的に過ごしていればいつか償いに終わりが訪れます。仮釈放されようが生涯刑期が続く(つまり文字通り生涯を懸けて罪を償う)終身刑とは比べようもありません。まさに無限の溝、交わることのない平行線に位置しています。

生涯を懸けて罪を償うことになった彼らの、そこ(殺人)を出発点とした人間の物語、その瞬間に決められた(決めてしまった)、人生の終点への長い長い旅の途中を垣間見ているような感があります。

殺人者たちの午後/トニー・パーカー