うちのチビたんが幼稚園に通いだしたのが4月。
少しはひとりの時間が増えて、楽ちんになるかしらって思っていたのですが
それはちと甘かったようで^^;
いやぁ‥‥ この3か月、あっという間でした。
私学に、と思って入れた学園はとても素敵なところです。
ですが、親も気を引き締めないと、とても大変^^;
忙しい毎日なのですが、充実した毎日。
・・・恋してる暇もないって感じです。
そんな中・・・
そう、それは唐突に・・・
突然に・・・
5月22日です。
チビたんを送って家に着いてすぐ、携帯に数年ぶりに兄からの電話でした。
「俺、わかるか?」
「うん、おにいでしょ、どうしたん?」
「あのさ、・・・」
「ん?」
「死んでしまった・・・」
「・・・」
着信を見た瞬間から、いい知らせじゃないと感じていた。
母が、死んだ。
聞かずともわかった。
そして、その亡くなり方も予想できた。
「なんで・・・?ばっかじゃん、なんで?なんで・・・」
「さっき、警察から電話があったばかりで、これから遺体の確認に行ってくるから」
母は、亡くなった当日も兄の高校生の娘の送り迎えをしていました。
73歳でしたが車を運転して元気でした。
心臓に持病はあったものの、薬を飲みながら自活していました。
父もそうでしたが、両親揃って自分で逝ってしまうなんて・・・
常日頃から、自分で死ぬ、という選択について尊厳死について、語っていた母でした。
一人暮らしのアパートは、ほとんど何も残っていませんでした。
綺麗に整理整頓され、なのに、買ったばかりの食品など冷蔵庫にあったり
部屋のあちこちにメモが残されていて、燃えないごみのこととか、葬式のこととか
これは誰にあげて欲しいとか・・・
私は、馬鹿、馬鹿、馬鹿・・・
そればっかり心の中で繰り返すしかなくて、なんで喧嘩したままで、逝っちゃうかな!
なんで、私のこと考えてくれなかったかな!
怒りと悲しみと、どこにもっていったらいいのかわからない想いばかりのなかで
去年の10月の日付の遺書を読んで、また涙が溢れてきて・・・
なんで、10月なん? なんで5月22日なん?
なんで?
母は、献体登録をしてました。
遺書と一緒に、ご丁寧に献体登録についてのパンフレットや
警察宛の手紙や
大学病院宛の手紙までありました。
兄に葬儀をあげるかどうか相談されました。
母の意志を尊重して、献体に出すべきか普通に葬儀をあげるべきなのか。
結局、考えに考えて、ここまでして逝った母の意志を尊重し
献体に出すことにしました・・・。
その場合、48時間以内に大学病院が遺体の引き取りに来ることになる。
私は8時間かけて帰省し、どうにか献体に出す前に逢うことが出きましたが
当日で引き取られました。
身内だけで簡単な葬儀をあげ、棺にも入れられない母は大学病院へ引き取られました。
献体の場合、最長で3年、遺骨は返ってこないんだそうです。
なので、お通夜も火葬もなく、あっという間にお別れし、遺骨もいつ戻るかわからないまま
なのです。
なんで?なんで今? そればっかりでしたが、結局私も兄も、なぜかについてはわからないまま
「あのひとらしいな・・・」
という兄の言葉に尽きるのだろうか・・・そう思いながら短い故郷の滞在から帰って
ようやく、普段の日々に戻りつつある今日この頃・・・です^^;
心の整理もつけられないまま、忙しい毎日に戻り
深く考えることから逃げ、今に至ります。
いつもどおりの毎日を、いつも通りに過ごして、いつも通りに
録画したドラマなんか見て、笑ったり泣いたり・・・
それは、まるで何もなかったような毎日です。
目の端に、母の部屋から引き揚げた、たくさんの荷物が片づけられないまま。
だけど、母の着ていた服は私も着れそうな若いデザインばかりで
(母は昔からしゃれた人で、73とは思えない若々しい人でした)
洗いなおした母の服を、私の趣味は母譲りだな、なんて思いながら服だけは
普通に着ていたり・・・。
だけど、深く考えずに、仕方ないという言葉に心をすべて預けたまま
過ごしています。
ちゃんと考えたら・・・おそらく迷宮に踏み込んでしまう事必須なので
今は・・・・このまま、過ごすのがいいような気がしています。
母は、幸せだったのだろうか。
それは、母のみぞ知る・・・ですね。
苦労の多い人生だった母でした。
天邪鬼で素直じゃなくて、いい歳しながら馬鹿な人でした。
母との関係は、近すぎて、似ていたりして、反面教師的な存在でもありました。
親の愛を受けずに育った人でした。
「ててなしご」と言われ母親ではなく厳しいおじさんに預けられて育ったかわいそうな人でした。
普通に母親の愛情を注がれずに育った母は、自分の子供の愛し方がわからない人でした。
私は母に、褒められた記憶も、大好きよと言われた事もありません。
抱きしめられた記憶も、よしよし、いい子だねと頭をなでられた記憶もありません。
抱きしめられた記憶も抱っこされた記憶もありません。
若い時期までは、母を疎み嫌ったこともありました。
ただ、母は、愛し方を知らなかった・・・。
ただ、それだけだと、だいぶ後になってわかりました。
愛されず育った人は、愛し方がわからなくて当然なんだって・・・。
母は、かわいそうな人でした。
いつもマイナスにしか考えられない人でした。
悪い方に想像して、それが本当のことのように思い悩む人でした。
反面教師にしていた私は、真逆な楽天的な考えをする大人に育ちました。
そんな私を、母は疎みました。
自由な私をうらみねたみ、ののしりました。
自分の不幸だった過去をいつも私に浴びせかけてました。
私は年端もいかない頃から、そんな母から逃れるべく
独立心の強い、かわいげのない子になりました。
母は、子供の様に素直で馬鹿が付くほど正直な人でした。
母は・・・友達に恵まれていました。
裏のない素直な人格に集まってくる人は多かったのです。
そんな母を尊敬しながら疎んでいました。
ある時は母ではなく女の目で私を見ている母が
疎ましくてなりませんでした。
だけど、母は・・・私が選んで、この母の娘として生まれたいと
望んで生まれてきた、私の唯一無二の母なのです。
どんな母であれ、この世から母の存在が消えることは
言葉に代えがたい・・・辛さがあります。
母の亡骸を前に、その眠っている顔を見て思いました。
ただ目を瞑っているだけなのに、そこに、魂がないだけで
それは、母ではないような、生が無い、というだけで
姿は変わらないのに、それはまるで・・・ただの人形か作りもののように・・・
魂がそこのないというだけで・・・
よく、子供のころ。
隣に眠っている母の寝顔を見て「死んじゃってるの?」と心配になって
鼻の前に手をかざして確認したことがありました。
ほんの幼いころです。
今思うと、その寝顔と、この亡骸は同じようでまるで違うのだと思いました。
魂とは何ぞや・・・と思えるほど
眠っているような母の顔は、眠っているのとは程遠いものでした。
ここに、母はいないのだと思いながら、母の亡骸の乾いた唇を
水で浸した紙でそっと潤したのでした。
いつまでも、引きずっていようとは思いません。
何が起こっても、起こってしまったことは後悔しても始まりません。
普段の生活に戻って、自分の人生を自分らしく生きるしか
出来ることはないからです。
私は、自分の人生を悲観していないし、後悔もしていません。
ただ、あまり幸せにぬくぬくと温かい家庭で育ったとはいえません。
振り返れば、波瀾万丈という言葉が当てはまることばかりです。
だけど、それは。。。きっと私の魂が未熟だったゆえ選んだ人生の道程だったのかもしれません。
母の死は悲しい出来事でしたが、母の手紙の中にあった言葉どおり
いつか人は死ぬのだから、後悔の無いように生きなさい。と。
だから,私は、その通り生きてゆくしかないのでしょう。
でも、私は、父や母のように、自ら死を選ぶことはしない。
それだけは自分に誓います。
自ら死を選ぶ自由と母は生前から言っておりました。
尊厳死について書かれた本なんかも出てきました。
きっと、長いことそんなことを考えていたのでしょう。
年を取って、病気で入院して自分の子供に迷惑かけてお金かけさせて
死にたくなかった母。献体登録することで、葬儀や火葬をしなくて済むこと。
それはとても、母らしい選択でした。
ながながと書いてしまいました。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
心の整理をつけるため、とは言っても、まだまだ逃げている部分もありますが
基本、私は強い人間なので・・・というか案外クールな人間なので
落ち込むことは・・・ありません(*´σー`) 大丈夫です^^
なんていうか・・・
傷付くことの多い人生を送ってくると、あまり動じない人間になるらしく・・・^^;
まるで可愛げがないのですが、でも・・・
やっぱり無償な愛で包まれたいと無性に思ったり・・・
あ、でももう、心に王子がいるでもなく
割と無機質に毎日を送っている今日この頃です^^;
あ~だれか、こんな私に愛の手を~~~^^;ナンテネ
重たい話で、ごめんなさい。