私に直接何かあったわけではないが老害がいたので少し書こうかなと。

これまで社会を支えてきた年寄りへの敬意…目上の人への態度…傲慢さが目立つ人、敬われるのが当然と勘違いしている人が多い。

人によるが一つの区切りを退職とするなら60〜65歳とする。

そこから始まるのは若者たちからの敬意…ではなく残念ながら採点である。

「あなたの幼年時代を支配した人たちの思い出に対する不敬を恐れてはならない。当時、彼らが強く賢く見えたのは、 あなたが弱く愚かだったからにほかならない。いまや、あなたは弱くも愚かでもないのだから、あなたの仕事は、彼らの見かけ上の 強さと賢さを点検し、あなたがいまだに 習慣の力で払っている尊敬に、 はたして彼らが値するかどうか考えてみることだ。」

ラッセルの言葉だ。
我々の親は、祖父母は、叔父叔母は、先生は、政治家は、周りの大人達は果たして尊敬に値するのか、恩に報いるに足る人物なのか…採点されるのがまず最初だと最近思っている。

彼らもまた存命であれ、故人であれ人類史、歴史、我々の最も身近な歴史。
つまり学んで、省察し、自身や社会に生かす。
歴史上の人物の偉業を讃えることもあるだろう。
同時に愚行を蔑み、繰り返さないよう肝に銘じる場合もあるだろう。

彼らも歴史であるならば当然学習、省察、生かす、その後賞賛か侮蔑か選ぶ権利が次代にはあるのだと思う。

ただ呼吸して、マシンのように働いて、税金納めただけで褒めてもらえるほど世の中甘くない。

この辺を勘違いしている年寄りは多い。
どんな偉人であれ、王であれ、神であれ評価は自分でするものでなく、周りがするのだから。
当然、同じ結果を見ても賢者と評する人もいる一方で愚者と蔑む人もいるのだ。

嵐の二宮和也が以前、某番組で「後輩は逆に絶対自分より先に逝かないわけだから、後輩が『あの人いい人でした』って言われていい人で生き続けられるわけだから後輩には優しくしてる。」

先輩はどうせ先に死ぬからどう思われてもいい…ぐらいの気持ちで接してるそうですね。

私もそう思いますね。
今の年配にどんなによくしても恐らく先に死んでいく、自分がポンコツロートルになったとき社会を支え、動かすのは後輩で、私の最後を看取る、こんな人だったと語り継ぐのも後輩たちですから。

私が社会から引退する、したあと後輩たちから惜しまれる、素晴らしい人格者、業績であったと語られる、老後独り身になったとき、不幸になったとき手を差し伸べてもらえるように後輩に接するべきだと思います。

よく若者を自分らの若い頃と比べ非難しますがアホなのかと思います。若者の姿は大人たちの成果で、大人たちが整えたシステム、大人たちそのものを写す鏡です。
つまり、しょうもない子どもたちは大人たちが無能であった証明ですから。

私の後の若者たちが優秀であって欲しいし、若者たちが私から良い影響を受けたと後に思ってもらえたらと思う。残念ながら今のところ悪い模範でしかないが。笑

別に先輩を邪険に扱え、先に死ぬ爺さん婆さんなんてスルーしてしまえと言っているわけではありません。

人として当たり前の礼節はわきまえるべきだし、残した結果には敬意を、受けた恩には報いるべきだと思います。

ただ全老人が敬われるわけでわなく我々にも採点した上で示す態度を変える権利があるのだ…ということ。

素性も分からない、業績も分からない、恩もない、傲慢な振る舞い、そんな老人にまで優しくする必要はないのだ。

果たして今の老人たちは…これからそうなる間近の人たちは後輩からどう採点されるのか。

よく考えて行動してはいかがか?

少なくともメディアでお目にかかる方々で尊敬できる人なんて1%もいません。

さてさて今日もお疲れさまでした。

夏期講習とかで多少なりとも情報仕入れたほうがいいのかな。化学が多少不安。

数学や物理は集団授業よりもオンラインで東大の院生とかにマンツーマンで厳密に添削とかして欲しいなと考えてます。