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え?意味わかんないんですけど…。
この教師は何考えて激昂んでしょうか?
教師は敬うもの的な圧倒的優位な立場からの暴力の是非についてはもう少し考えるべきです。
しかもなんで停職処分で済むのでしょうか?
教師が簡単に暴力を振るえるのは殴り返される心配がないからでしょう。
生徒たちは殴り返した場合、停学、最悪は退学なわけですから。
私の中学時代の顧問は平手打ちや拳骨する人でしたがその躾に不満があるなら殴り返しても構わんって先生でした。
私は勝てそうもないのでやりませんでしたが先輩は何度もキレて殴り、殴られてました。笑
目には目を…道理に合わない行為に対して同様の制裁を加えるべきだと思いますがね。
これは警察にも言える事ですが正義と言う甘美な響きに酔って、さも自身の行いが絶対的に正しいかのように高圧的な態度の警察もどうかと思う。


正義。力。
正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。
力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。
力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は 非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが 強いか、強いものが正しくなければならない。
正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

パスカルの…たぶんパンセの一節。

これに対してオルテガの大衆の反逆の一節を引用をサイコパスではしてました。

どちらが正義だ?なんて議論も戦争を始めた時点でどちらも悪なんて話もあります。喧嘩両成敗。
正義に力は無いもしくは強いものが正義なわけで、そもそも何も優れていない人間が教職について敬われているのがすでに間違っている。

オルテガの話を続けるなら教職も政治、経済も選ばれた少数者が管理すべきだと思いますね。

大衆人は、環境に無理強いされるのでなければ、けっして自分以外のものに目を向けることはないであろう。そして今日では、環境が彼に強制することはないのだから、彼は、他に頼ることをやめ、自ら自己の生の主であるという気持ちになっているのである。これに反し、選ばれた人間、つまり優れた人間は、自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自ら進んでそれに奉仕するという、やむにやまれぬ必然性を内にもっているのである。つまり、選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満も持っていない人である。一般的に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく実は選ばれたる被造物なのである。
彼らにとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。
まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige:高貴なる者の責任・義務)のであり、「恣意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ〔「庶出の娘」、「続編のための構想」〕)のである。貴族の特権は、元をただせば、譲り渡されたもの、つまり、好意的に与えられたものではなく、彼らが闘いとったものである。したがって、原則的には、その特権の維持は、その特権の所有者が、必要とあらば、つまり誰かがそれを奪いとろうとすれば、いかなる場合にもふたたび闘いとるだけの力をもっていることを前提としている。個人的権利、つまり特権とは、ただ受動的に享受するといった占有物ではなく、その人間が努力して到達しうる輪郭を示すものなのである。これに対して、(フランス人権宣言に謳われているような)「人間として市民としての」権利のような一般的権利は、受動的財産であり、すべての人間が手にすることができる当然の収益であり余禄であり、(犬や猫や他の野生動物として生まれず、「偶然に人間として生まれた」という)運命の寛大な贈り物なのである。
そしてこの贈り物を受けるためには、普通に息をして頭を正常に保つこと以外なんの特殊な努力も要しない。堕落というのは、この言葉が多くの人によって世襲的な「血統による貴族」を意味するにいたっては、万人に共通の一般的権利と似たものに変わってしまい、生気のないもののようにただ受け継がれ譲り渡されるという静的で受動的なものに変わってしまうからである
高貴な人(noble)とは、「世間に知られた」人の意味であり、無名の大衆の上にぬきん出ておのれの存在を知らしめた人、すべての人が知っている人、有名な人の意味である。したがって、高貴であるということは、彼に名声をもたらした常ならざる努力があったことを意味している。 だから、高貴な人というのは、努力の人、優れた人というに等しいのである。よって、貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生の同義語である。大衆の魂の基本構造は自己閉塞性と不従順さからなっているからである。大衆には、生まれながらにして、それが事象であろうと人間であろうと、とにかく彼らの彼方にあるものに注目するという機能が欠けているのである。彼らが誰かの後に続こうとしても、それは不可能であろう。彼らが誰かに耳を傾けようとしても、結果は自分の耳が聞こえないことを発見するに終わるに違いない。今日の平均人の生の水準が他の時代と比べていかに上昇したからといっても、彼が自力で文明の推移を指導して行くであろうと考えるのは、まさに夢物語である。わたしは推移といっているのであり、進歩とはいっていない。今日の文明を単に維持するためだけの処置でさえ、極端に複雑であり、はかりしれない鋭敏さを必要としているのである。

ってつらつら引用してるうちに何を書きたかったのか分からなくなりました。てか長すぎっ!笑
大衆=凡人=平均人は閉鎖的、自己完結している人間なのでそんな人に権利と力を握らせ、正義を決定させるわけにはいかない。
学校も家庭も、部活も一つの閉じられた社会であり、そこに大衆とそれを纏める人間がいるのは変わりありません。ただ、教師と言う支配層が三権全てを掌握しているわけです。
衆愚政治について以前なんかで書いたかコメントしましたが上で書かれているような意味での貴族による政治が行われるべきだし、人工知能の台頭は大衆を排除し貴族と人工知能による社会構築への先駆けになればなぁと思いますね。
てか、早く学校を東進スタイルにしたらいい。