古い話で恐縮ですが、6世紀中頃大和朝廷を巡る有力豪族として、物部氏、蘇我氏、忌部氏が知られています。
仏教伝来からの100年間に、日本が中央集権国家に変わっていく上で極めて重大な事件がありました。その背景と顛末を追ってみます。
① 丁未(ていび)の乱(587年)
これは蘇我氏が仏教擁護派の聖徳太子を奉じ、物部守屋(もののべのもりや)を討った事件です。守屋は今の大阪府八尾市で討たれその場所は「大聖勝軍寺」として残されています。これにより物部氏は権力中央から衰退します。
② 乙巳(いっし)の変(645年)
622年に聖徳太子が病死(一説には暗殺)されたあと、中臣鎌足と中大兄皇子によって蘇我入鹿が誅殺された事件です。こののち蘇我氏の勢力は衰退し、大化改新というクーデターによって中臣(=藤原)氏の権力構造が確立されてゆきます。
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この二つの事件で政治の舞台から退いた蘇我氏と物部氏には重要な宗教的背景がありました。
【蘇我氏】
竹内宿禰を祖とする有力豪族とされています。中国唐における景教徒で、新羅を経て3~4世紀頃日本に入ったとされる渡来人(元はキリスト教ネストリウス派)を従え、秦氏などと共に婚姻を通して天皇に接近し、大和朝廷のブレーンとなりました。
欽明天皇の妃は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)。その子用明天皇の第2皇子が聖徳太子(厩戸皇子)です。
聖徳太子は仏教擁護派でしたが、蘇我馬子は皇族である聖徳太子の権威を利用し物部氏を倒すことに成功したわけです。
しかし、のちの乙巳の変で馬子、入鹿の親子は殺され、蘇我氏は歴史の舞台から去ります。
【物部氏】
物部氏は武器や農機具を作る鉄の技術を持った神代系豪族です。神武時代の饒速日命を遠祖とし、このとき大和朝廷の主流となっていました。
丁未の役で物部守屋を討った蘇我馬子の妻は守屋の妹という複雑な関係です。
物部氏については、神武以前の出雲のニギハヤヒ、オオモノヌシ(大国主ともいわれる)から説き起こさなければならず、とても謎の深い一族ですので、ここでは蘇我馬子と聖徳太子連合軍に討たれた物部守屋についてお話します。
物部守屋
物部尾輿の子。物部氏が仏教を擁護する聖徳太子と対立した理由は、物部氏の出自がユダヤ(旧約聖書の神)であったからです。このことを主張する文献も数多くあるので、ここでは守屋一族の最期と終焉の地から傍証して見ましょう。
守屋(もりや)という名前は旧約聖書から引用されたと推理します。現在のエルサレムの近傍のモリヤ山(Mt.Moriah)やモリヤ寺院などにその名を見ることができるからです。
守屋は大阪の八尾で殺されそこに葬られたとされていますが、実は、長野県伊那市の守屋山に物部守屋神社があるのです。物部守屋が八尾で死なずに先祖の地まで落ち延びて没したのか、あるいは彼の係累のみが逃れてきたのかそれは不明です。
(なお守屋山は諏訪神社の背景に位置し、ご神体とも言われます)
そして、この神社の神紋はこちらです。
丸に柏葉
どうです、イスラエルの国章(七支燭台:下図)との類似性を感じませんか。
またこれ(上図)は 諏訪大社の神紋(梶の葉)です。
ここにも七支の葉脈がデザインされています。
諏訪大社に関する伝承では、大国主の御子 建御名方神(たけみなかたのかみ)が失政によって諏訪の地に至り社の祖神となったとされています。大国主と物部氏の繋がりから、諏訪大社の出自もユダヤ(旧約聖書の神)を連想させますが、政治的には複雑で、朝廷からの追求を恐れ、権力闘争に敗れて落ち延びた物部守屋の残党をかくまうことはなく、冷ややかな扱いをしたようです。
(可哀そうに。ボクは泣いちっち… あれは守屋浩)
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こうして、古代日本に入ってきたユダヤ教(旧約聖書の神)、キリスト教(新約聖書の神)は、八幡神社、稲荷神社、諏訪神社などに姿を隠し(神々の変身)、仏教と神道に折り合いを付けながら現代まで生き延びることになりました。
(※ あくまでもutageno-atoの私見です)
八幡神社、稲荷神社の成り立ちについては下記ブログを参照してください。
⇒ 歴史の奇妙な符合 | utageno-atoのブログ (ameblo.jp)