春と修羅 | オクノスタイル

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福岡を中心に、オリジナル曲を歌ったり、語りと即興音楽のライブをやったり
写真を撮ったり、物書きしたり

日々の様々を自分目線で書きつらねてます



朝が来る


静かで、にもかかわらず

どこかで読んだ神話みたいに

世界の始まりの瞬間に立ち会ったような劇的さで


車のエンジン音や子供をしかるお母さんの声や、どっかからただよう朝ごはんの匂いや

営みの厳かな下世話さが


ふつふつと光を浴びて、一斉にそちらへ顔を向ける草花のように湧き上がる朝



昨日おそくまで起きていたせいで、目が半分しかあかないわたしは


全身で、朝の遺伝子を感じながら



とてつもなく平和な二度寝に入る




先日、「ジェンダーと家族をめぐるマラソン朗読会」に参加させていただきました

関係者の皆さま、本当にありがとうございました!



こちらの朗読会は、ジェンダーと家族をテーマに、40人くらいの語り手が、それぞれ選んだ15分前後の作品を順番に読んでいくという企画で


10時間くらいの長丁場ながら、色んな作品や読み手に触れることができる、朗読好きにとってはたまらないイベントになっています



とはいえわたしは初めてで、自分の出番を含め5時間くらいの参加だったのですが、改めて、作品、読み方、演出などの多様性に驚かされました



たった15分前後という時間ですが、あっという間にも長くも感じるし、心に引っかかるもの流れていくもの、本当に様々で


ただ読む、という行為

その奥深さは計り知れないなと実感します


楽しかったなあ




わたしは、宮沢賢治の詩集「春と修羅」から、「無声慟哭」「永訣の朝」の2本を読ませていただきました


これは、賢治さんが妹とし子の死に直面したときの心象をえがいたもので、「永訣の朝」は特に有名な作品かもしれません



何となくこの詩を読もうと決めたのですが、決めた後に、そういえば宮沢賢治の特集番組を3つ録画していて、しかも、本屋で気になって解説本まで買っていたことを思い出しました



と、この文章を書きながら、そういえば少し前に友人のライブに行ったのですが、演目は「春と修羅」だったことを更に思い出しました



一体わたしは、いつから宮沢賢治の春と修羅を読もうと決めていたのか


朗読会に参加することを決める前から、宮沢賢治というキーワードを拾っていること


不思議といえば不思議だけど、そんなもんか、とも感じるし



未来は、自分の見ている方向からやってくるんだなあ、と実感して


未来の種を拾いながら歩いてる自分は、けっこういいなと思う




本番を終えわかったのは、とても、賢治さんの声にならない絶唱を表現することは出来ない、ということだった


本番に向けて、どんな風に読むのか考えて、ある程度演出的なものをつくっていく


でも、結局

どんな声も、賢治さんの声にはならないということを思い知らされる


それでも、読みたいと思うのは何でだろう




きっとそれは、気づくためだ


触れれば触れるほど、こういうことかな?と気づくことがある


それは、「わかる」より「気づく」と言ったほうが近い


こうかもしれない、いや、こうだったかもしれない、いや、むしろこっちかもしれない


気づきは、ふと訪れる来客のように、わたしの心を軽くノックする



わたしは、こんにちはと挨拶する


そのお客さんは、食べたことないお土産を持ってたりして


美味しかったから、今度あの人に会いにいくときわたしも買ってみよう、と思う




宮沢賢治の心象スケッチは、とんでもなく美しかった


読みながら、そのあまりの美しさに気づいて、愕然とした



妹が食べたいといった、雨雪


その最後の一椀を貰いに、松の枝に積もる雪を取りに行く


雪はどこまでも白く

どこまでも白く汚れない



その美しさを見たとき、賢治さんの修羅を思う


魂の片割れの命の終わりに

この世の壮絶な美しさを知り


美しければ美しいほど、心は修羅を彷徨う