みなさんこむらがえり。


日ごと暑さが募る毎日に
「毛糸のパンツ」という単語を聞いただけで失禁しそうです。
あれはいったい何なんだ。
確かに幼少時からお腹の弱かった僕は
何度かかの着衣のお世話になってきたわけだが
あのはいた時の何とも言えない敗北感は今も心に残っている。



さて、以前に日記で、食を題材に先人の偉大さにふれた。
先人と並んで我々が尊敬すべきものに
「創始者」がいることは世界的に著名だが
創始者の偉大さ。そのことを考えるとき僕は
陸上競技について語らないわけにはいかない



棒高跳び

ハンマー投げ

ハードル走



一体どこのどいつが棒を使って高く跳べる奴や
何やら重い物を振り回して遠くへ投げた奴が偉いと考え
それを競い合おうと思ったのか。
常人である僕には到底理解できない発想だ。
特に棒高跳びであるが、恐らく先に走り高跳びがあったのだろう。
そこで誰かが「棒使ったら高く跳べるんじゃね?」と思ったのだろう。



それは、ズルだ。



だがそれもこうして立派な競技になってしまった。
また、ハードルに至ってはさらに難解極まる。
わざわざ進路に障害物を置いて、跳び越える。
この謎の自虐性はいったい何だというのか。
「わざわざ置いた物を越えて進む」
何やら哲学的とさえ思えるから不思議だ。



こうして「初めての偉大さ」は考えようによっては
「ちょっとどうかしている」ものと言えなくもない。
ただ、それを我々が日常に何の疑いもなく取り込んでいる事実も
よく考えればちょっとどうかしているのかもしれない。


さてみなさん
浜村淳、ではありません。



花粉なのか黄砂なのか
はたまた月光仮面なのか分からないが
5月も半ばを過ぎたというのにくしゃみが止まらない。
また、黄砂は僕を蝕むだけでなく
車を見るも無残な姿にして
朝からテンションを下げてくれる憎い奴だ。
だからといって今度いつ黄砂が来るかもわからず
必然、洗車に対して消極的にならざるを得ない。
「キレイにしたい・・・でも(タイミングが)失敗したらどうしよう」
こうした心情からすれば
もう僕は立派な「洗車乙女」と言えよう。



洗車乙女、それはいったい何だ。



それとはまったく関係の無い話なのだが
日常の些事に埋もれていく中で我々はしばしば
先人の偉大さについて敬服することを忘れているのではないだろうか。



先人の偉大さについて考えるに際して
まず最初に思い浮かぶのが「食」だ。
現在の豊かな食文化を思う時
しばしば「富める者が文化を作ってきた」などという
陳腐な考えに陥りがちだが
果たして本当にそうだろうか。



何かを最初に食べる。
その行為に伴う勇気を考えれば
その原動力は富というよりもむしろ
貧しさというか、飢えに近い空腹が相応しいように思う。



例えば、初めてナメタケを食べた人のことを考えよう。
山を歩いていたわけだ。
狩猟の最中だったのか或いは木の実を集めに出かけてかは定かではないが
彼、もしくは彼女は山、もしくは森の中を歩いていた。
そんな中、見つけたのだ。あのヌメヌメの物質を。
そして思ったのだ。「食べてみよう」と。



一体どれほどの勇気をかき集めればそんな事態に至るのだろう。
だって木の根本にあんなヌメヌメした物質があるんですよ。



同じような食べ物に、発音も似ているがナマコが挙げられる。
想像してみてほしい。腹が減って浜辺を歩いていると
あのグロテスクな物体が打ち上げられているのだ。
そして貴方は思うのだろう。「これ食えんじゃね?」



思えない思えない。断じて思えない。


大体、主食のコメからしてそうだが
あれが食える物のように見えますか?

そう考えた時に、僕は大きな思い違いをしていたことに気付いた。
先人は「何が食べられるか」を基準に
食を開拓したわけではないのではないか。
むしろ、手当たり次第に食べた上で
「さすがにこれは食えない」とか
或いは、死者が出るなどの事態に遭遇し
「食えない物」を選択肢から外していったと考える方が自然だ。


なんというフロンティア精神。
我々が、「頂きます」という時
それを作ってくれた農家さんはもちろん
こうした先人への感謝も忘れてはならない。


さて、人はしばしばトイレについて無頓着だ。

自宅でないと入れないという人もいれば

どこだって、何なら野外でも平気と言う僕の様な人間もいるが

場所と言うより、時間という観念で

トイレについて考える人間がどれほどいるだろうか。


1日に人がどれだけトイレの中にいるか

そんな統計があるのかないのかは分からないが

単純に考えれば10分程度だろう。

つまり1日の144分の1をトイレで過ごしているわけだ。


この数式を僕の人生に当てはめてみると

(30年×365日+285日)÷144という公式が生まれ

導かれる解は78.07291667日。

全人生で僕は、およそ2ヶ月半の長きをトイレで過ごしている計算になる。

何て臭い人生なんだ。


でもトイレは落ち着く。

あの閉鎖されたプライベートスペースは

心地よい巣箱のように僕を包んでくれる。臭いが。


そして同様の計算式によれば

僕は約5カ月を風呂場で過ごしていることになる。

こちらは想像するだに湯あたりしそうだ。