夫婦同姓違憲訴訟 最高裁大法廷判決(最大判平成27・12・16) | 憲法判例解説

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一昨日、ついに民法750条が規定する夫婦同姓の強制が憲法に違反するものかどうかの最高裁判断が行われました。最高裁は、下級審のように国賠訴訟の要件で切り捨てることなく、大法廷にて正面から憲法判断を行いました。


以下、多数意見を読んでみましょう。なお、法律上は「氏」ですが、今回もわかりやすくするために「姓」に直しています。


夫婦同姓違憲訴訟(最大判平成27・12・16)
平成27年12月16日 大法廷判決


1 民法750条は憲法13条に違反しない


(1)民法750条は、憲法13条の人格権を侵害しない


氏名(姓名)は憲法が保障する人格権の一部を構成しています。しかし、だからといって、姓に関する人格権というものがどんなものであるかは、憲法から一義的には決まるわけではなく、憲法の趣旨を前提とした法制度の中で具体的な内容が決まる権利です。


そこで民法を見てみると、民法は姓に家族の呼び名としての意義を与えています。家族は社会の自然で基礎的な単位ですから、個人の呼び名の一部を、その個人の属する集団を表すものとすることにも合理性はあります。


民法750条が規定する夫婦同姓制度というのは、結婚によって家族関係が変わることを自分の意思で選択し、そのために夫婦のどちらかが姓を変えるという場面であって、自分の意思に反して姓を変えることを強制するものではありません。


もともと、氏名は個人を他の人から区別して特定するための社会的なものでもあります。ですから、自分の意思だけで自由に定めたり、変えたりできるものではなく、一定の統一した基準によって定めたり、変更することは、不自然な取り扱いとはいえません。


それに加えて、姓には、家族の呼称としての意義があるのですから、親子関係などを反映し、婚姻などの家族関係の変動に伴って変わることも、もともと予定されています。


以上、現行の法制度において、結婚の際に姓の変更を強制されない自由が憲法上の権利として保障されている人格権の一内容であるとはいえません。ですから、民法750条は憲法13条違反ではありません。


(2)実質的に失われる人格的利益は憲法24条で考慮すべき


もっとも、姓を変える人が、自分が失われたような感じを持ったり、今までの姓で知られてきた中で認知してもらえない不利益や、結婚前に築いた個人の信用、評価、名誉感情などにも悪影響が及ぶことは否定できません。特に、近年、結婚が遅くなり、結婚前の姓で社会的な地位や業績を作る期間が長くなり、結婚に伴って姓をかえることで不利益を受ける人が増えています。


これらの失われる利益は、憲法上の人格権の一内容とはいえませんが、法制度のあり方を検討する上では考えるべき人格的利益です。これらは、のちほど、夫婦同姓の規定が憲法24条の認める立法裁量の範囲を超えるかどうか検討する際に考慮に入れなければならないものです。


姓や名に関する権利というものは、抽象的な幸福追求権からただちに内容が決定されるものではなく、法制度の中で具体的な内容を持つものであるというのですね。また、姓や名は、呼び名ですから、自分にとって大切であると同時に、社会的な意義を持つこともそのとおりです。そして、姓は家族関係の変動によって変わることが予定されているものというのですね。一方、結婚することを決めて、その結果、姓が変わることは、当人の意思に反する強制でもないわけですから、結婚の際に姓が変更になることを強制される権利、というものは憲法13条の保障する人格権には含まれていないというわけです。


そして、そこで失われる利益は、憲法が保障する人格権そのものではないけれど、憲法上考慮に値する(けれど保障はされていない)人格的利益だというわけです。法制度を決定する際に、この人格的利益を考慮に入れているかどうかは、結婚制度を決定する際の立法裁量の限界を定めた憲法24条の問題になるというわけです。


2 民法750条は憲法14条1項に違反しない。


(1)夫婦別姓制度それ自体は憲法14条1項に反していない


憲法14条1項は、法の下の平等を定めています。これは、事柄の性質に応じた合理的な根拠がない限り、法的な差別的取扱いを禁止する趣旨です。


民法750条は、夫婦が夫または妻の姓を称するものとして、どちらの姓を称するかは、これから夫婦になる二人の話し合いに委ねています。法の文言が性別に基づく差別的取り扱いを定めているわけではなく、夫婦同姓制度それ自体に男女の形式的な不平等が存在するわけではありません。


夫婦になる人たちの話し合いの結果、夫の姓を選択する夫婦が圧倒的多数を占めるとしても、それが夫婦別姓の規定のあり方自体から生じた結果であるということはできません。


ですから、民法750条は憲法14条1項に違反するものではありません。


(2)実質的な平等を図る必要があるかは憲法24条で判断する


もっとも、これまで夫の姓を選択する夫婦が圧倒的多数であることを考えると、現状が、夫婦になろうとする者双方の本当に自由な選択の結果なのか考えなければいけません。


もし、社会にある差別的な意識や慣習による影響があるのであれば、その影響をなくし、夫婦の間に実質的な平等があるように図ることは憲法14条1項の趣旨に沿っています。


この点は、姓を含めた結婚や家族に関する法制度のあり方を検討する場合に考えなければならないことの一つです。後ほど、民法750条が憲法24条の認めている立法裁量の範囲を超えていないか検討するときにも、考慮しなければなりません。


まず、形式的には民法750条の規定は男女差別とはいえません。男性の姓にしろ、というわけではないのですから。あくまでも建前は、男女の平等な話し合いによって、どちらの姓にするかは決定されるわけです。だから、750条の規定そのものが憲法14条1項に反しているとはいえないというのです。


ただし、間接差別という批判があるように、本当に女性の自由意志で姓が決まっているのかは問題がありうるわけです。もちろん、第一義的には制度の問題ではなく、当人たちの問題であるのは事実ですが、実は、そこに社会の慣習だとか、差別的な意識(女性が姓を変えるのが当然だ、というような考え)の影響があるのであれば、それらを排除し、実質的な平等を考える必要もあるわけですね。そこで、この点は、やはり憲法24条の定めている枠、立法が制度を決めるにあたって認められている範囲の問題として、考えるべきだというのですね。


というわけで、このケースでは、憲法13条、憲法14条1項の問題は、憲法24条の問題に収束するというのが多数意見の判断です。


3 民法750条は憲法24条に反するか


(1)夫婦同姓規定は、結婚に対する直接的な制約を定めたものではない


憲法24条1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と規定しています。


これは、結婚をするかどうか、いつ誰と結婚するか、について、結婚する当事者の自由で平等な意思決定に委ねられるべきという趣旨を明らかにしたものです。


民法750条の規定は、結婚した結果の効力として夫婦が夫か妻の姓を称することを定めたものであって、結婚をすることについての直接の制約を定めたものではありません。仮に、結婚や家族についての法制度の内容が意に沿わないから結婚しない人がいたとしても、それだけで、だからその法制度を定めた法律が結婚について憲法24条1項の趣旨に沿わないような制約をしているとはいえません。


結婚および家族に関する法制度の内容が、結婚することの事実上の制約であることについては、この法制度が立法府の権限として許された範囲を超えているかどうかを検討する上で考慮すべきことです。


まず、民法750条が定める夫婦同姓というのは、結婚の効果であって、事実上の制約であったとしても、直接的な制約要件ではない、というわけです。ここは議論がありうるところと思われますが、多数意見は、これは事実上の制約にすぎないんだというんですね。そして、この事実上の制約は、そのような立法が、憲法24条が立法府に示している立法の枠を超えたものかどうかで判断するというわけです。


(2)憲法24条による立法裁量の範囲


結婚や家族については、法制度が具体的内容を定めるものであり、どのような制度であるかが大変重要です。


憲法24条は、2項において「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定しています。これは、具体的な制度の決定について、まずは国会の合理的な判断にまかせることとし、ただし、その際に、24条1項も前提とし、個人の尊厳と両性の本質的平等を基本としなければならないと要請し、指針として示すことで、国会の判断に一定の限界を示したものです。


立法というのは本来、さまざまな要素を検討して行われることです。それに対して、憲法24条があえて、上のような要請を行い、指針をはっきり示していることからすれば、この要請、指針は、単に憲法上の権利として保障された人格権を不当に侵害してはいけないとか、両性の形式的な平等が保たれた法律が制定されればよい、というものではありません。憲法上直接保障されているとまではいえない人格的利益も尊重しなければならないし、形式的なものにとどまらず実質的な平等が保たれるようにしなければならず、また、結婚することが事実上不当に制約されることがないようにしなければならないことなどについても、十分に配慮した法律の制定を求め、また、それを立法府の判断の範囲を示す指針としているものです。


結局のところ、憲法24条の枠組みというのは、
①(13条の人格権ではなくても)人格的利益も尊重し、
②(14条の形式的な平等以上に)実質的な平等が保たれ、
③(直接的な制約でなくても)結婚が事実上不当に制約されることがないようにする
という枠組みであり、これを民法750条が逸脱していないか、で違憲かどうかが決まるというわけです。


(3)憲法24条に反するかどうかの判断基準


結婚や家族に関することは、国の伝統や国民感情を含めた社会のいろいろな要因を踏まえ、それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断によって定められるべきものです。


特に、憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益や実質的平等は、その内容として様々なものが考えられます。それらの実現の在り方は、その時々における社会的条件、国民生活の状況、家族の在り方等との関係において決められるべきものです。


ですから、憲法24条の要請・指針に応えて、具体的にどのような立法を行うかの選択と決定は、国会のさまざまな検討と判断に委ねられています。


ここで、民法750条が憲法24条の定めた枠を超えていないかを判断するわけですが、先ほどの人格的利益や実質的平等というのは、その時々の社会状況や家族のあり方などによって変わるというのですね。だから、憲法24条の枠のなかで、どのような立法をするかについては、まずは立法府が検討し判断すべきことです。まあ、それがうまくいかないから、今回のような訴訟になっているわけですが、原則的にそうなわけです。


そこで、憲法24条に反していないものかどうかは、
① この法制度の趣旨
② この法制度を採用することによって生じる影響
③ 上記①②を検討し、この規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の観点から合理性がなく、国会に許された立法裁量の範囲を超えているかどうか、
によって、判断すべきです。


立法裁量だから何でもOK、とならないのは、憲法24条が制度に対して枠をはめているからですね。だから、立法裁量を審査する上で、ある程度内容に踏み込んだ審査が可能になります。そこで、法の趣旨とその結果をみて、それが合理性を持たず、立法裁量の範囲を超えていないかで判断するというのです。


ここで多数意見は、合理性が認められれば立法裁量の範囲を超えていないという緩い審査基準を採用しているわけですね。憲法24条によって立法裁量の枠を内容に踏み込んで審査できる手法をつかったことは評価に値する気がします。けれど、せっかく、憲法24条の定立した枠について考慮し、内容に踏み込めるようにしても、ここで合理性の基準を立ててしまえば、あまり意味がなくなる、とは思いますが。


ここは大切なところなので原文を載せておきます。「当該法制度の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し、当該規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から判断すべきものとするのが相当である。」


(4)上記基準のあてはめ


①夫婦同姓制度の趣旨


夫婦同姓制度は、明治民法が施行された明治31年に採用され、社会に定着してきました。姓は家族の呼称としての意義があり、昭和22年に改正された現行の民法においても、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位として考えられていますから、その呼び方を一つに決めることにも合理性はあります。


そして、夫婦が同一の氏を称することは、家族という一つの集団を構成する一員であることを対外的に示し、区別する機能があります。特に、結婚による重要な効果として、夫婦間の子が、夫婦の共同親権におかれる嫡出子になるということがあります。嫡出子であることを示すために子が両方双方と同姓である仕組みを確保することにも一定の意義があります。また、家族が同じ姓を名乗ることで、家族の一員であることを実感することに意義を見出す考え方も理解できます。また、夫婦同姓制度の下では、子の立場として、いずれの親とも性を同じにすることによる利益を享受しやすいものです。


さらに、民法750条の定めている夫婦同姓制度には、それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではありません。夫婦がどちらの氏を称するかは、結婚する二人の間の話し合いによる自由な選択に委ねられています。


②夫婦同姓制度の影響


夫婦同姓制度の下では、結婚に伴って、夫婦になろうとする男女の片方は必ず姓を変えることになります。姓を変える人が、そのことで自分が失われた感じを持ったり、結婚前の姓を使って作ってきた社会的な信用や評価、名誉感情等を維持することが困難になるなど、不利益を受ける場合があることは否定できません。


そして、夫の姓を選択する夫婦が圧倒的に多数を占める現状からすれば、妻となる女性が上の不利益を受ける場合が多いのも推察できます。さらに、夫婦になろうとする人のどちらかがこのような不利益をさけるために、あえて結婚しないという選択をする人がいることもわかります。


しかし、夫婦同姓制度は、結婚前の姓を通称として使用することまで許さないというものではありません。最近では、姓を通称として使用することが社会的に広まっています。これによって、先ほどの不利益は一定程度は緩和されるものでもあります。


③ 総合判断


以上の点を総合的に考慮すると、民法750条の規定が採用した夫婦同姓制度が、夫婦の別姓を認めないものであるとしても、ただちに個人の尊厳と両性の本質的平等の点で合理性を持たない制度であると認めることはできません。ですから、この規定は憲法24条に反するものではありません。


なお、これは選択的夫婦別姓制度に合理性がないというわけではありません。こうした夫婦同姓制度の採用については、嫡出子の仕組みなど結婚制度や姓のあり方に対する社会の受け止め方によるところが大きいものです。こうした制度のあり方については、国会で議論し、判断されるべき事柄だというべきです。


まず、立法の目的は合理性があるわけです。(目的に合理性がなかったら、それはそれですごいですが。)そして、悪影響というのは確かに認められるけれど、通称で結婚前の姓を使うことも認められているから緩和されている、というわけです。そして、それを総合的に判断すると、憲法24条違反ではない、というわけです。


ただし、多数意見は、あくまでも夫婦同姓制度は違憲ではないと判断したのであって、選択的夫婦別姓制度については判断していないというわけです。ちょっと微妙な言い回しですが、これについては、寺田裁判長の補足意見が参考になります。この寺田補足意見は、岡部・桜井・鬼丸裁判官、木内裁判官による違憲であるが国賠法上違法ではないとする意見に答えたものです。また、山浦裁判官は、端的に国賠法上、違法であるとして、反対意見を述べています。


次回以降、これらについて検討しましょう。