母を語る | 碓井法明オフィシャルブログ「本物をやろう!!」Powered by Ameba

母を語る

春秋月刊に掲載 









『強く 明るく 元気よく』

(月刊『春秋』二〇〇五年九月号より)



 「母を語る」というテーマをいただき、今感謝している。というのは、母の生き方をふりかえってみる時、母の偉大さが今さらながら胸をうつ。そして、今の自分の足りなさを反省することが出来た。また、この文を書きながら、母の面影にひたり、何度か涙することしきり…。

 母・碓井久子は、一九一一(明治四十四)年一月二日に、現在の安佐南区東原に生糸業を営む河内家の二女として誕生した。山中高等女学校を卒業したが、同級生の中には池田勇人首相の奥様がおられ、何度か首相官邸に泊めていただいていた。

月刊春秋の記事内容1 若い頃は琴が好きで、広島別院で御門主の前で琴を奏でたこともある。また、刺繍も得意で、帯や着物、はこせこ、草履まで美しい刺繍をしていた。母は茶道、華道、和歌、三味線、琴など、晩年まで楽しんでいた。百人一首は得意で、毎年我が碓井一家は元旦に光明寺に集まり、カルタ会を今でも行っているが、母は一番の詠み手であり、また、取り手でもあった。歌を詠みながら、しょっ中「ハイ」といってカルタを取っていた。母がよくカルタ会の始まる前に読んでいた句の「太田川 ボートレースのチャンピオン 赤勝て白勝て紫も勝て」、「からからとから(空)を一枚読むからにゃ お手つきしないで取って丁度」と得意げな声で読んでいた顔は今でも忘れることが出来ない。

 一九三三(昭和八)年に、父・碓井松涛と結婚し、父とともに光明寺を建て、広島光明学園の前身の三立山保育所を創設した。そして、一女・五男(一人は三歳の時、死亡)を生んだ。長女・恭子(現在・高陽学園園長)、長男・静照(現在・広島県医師会会長)、実質的二男・私・法明(現在・広島市議会副議長)、三男・博(高陽荘園長)、四男・真行(光明寺住職)が、おかげで元気にそれぞれの分野で活躍している。

 一九四五(昭和二十)年の原爆の当時は、私は三才で、まったく覚えていないが、父の話では、私は芋畑で防空頭巾をかぶって畝の間にいたらしく、爆風で吹き飛ばされたが、ケガはなかった。母は洗濯をしており、弟は倒れたタンスの下敷きになったが、生命に別状はなかったと聞く。父も兄も無事だった。

 原爆で倒れた光明寺の再建に両親は大変苦労したようだ。

 母は五人の子どもを育てる一方、光明寺の坊守りとして寺を守り、また、保育園の保母、給食、会計事務など、時間のある限り、朝早くから夜遅くまで一心に働き、今でいう共稼ぎであった。

月刊春秋の記事内容2ところで、私はピアノやエレクトーンを弾くのが趣味の一つだが、兄弟も音楽や芸術が好きで、これは母親が、幼少の頃、私や兄弟をよく膝の上におき、片手でオルガンを弾かせたり、お絵描きをさせたのではないかと思う。幼少の頃の教育の大切さを思う。

 働き過ぎかどうかわからないが、母は胃腸を痛め高陽町の加藤病院に入院したことがあったが、私が小学校の頃で、兄弟で遠い道のりを歩いて行き、病院で療養していた母の顔を見た時、母親がよく来たとほめてくれ、私も嬉しさと、淋しさとで泣いた思い出がある。

 当時母親は入院先で食事の工夫をしていたのであろう、よく私達が病気になった時、ジャガイモや人参をよく煮た野菜スープを作ってくれ、それを食べると不思議に病気がなおり元気になった。また、母は子どもの節句とかお彼岸にはオハギやカシワ餅を作ってくれ、いつも腹のすいていた私は何十個も食べた思い出がある。また、近くの野原でヨモギを取り、ヨモギご飯もよく食べた。母は家庭を守る一方、広島市保育連盟でも活躍し、厚生大臣表彰を受けた。表彰といえば、父・松涛も昭和天皇陛下より御下賜金をもらったり、また、一九七八(昭和五十三)年に藍綬褒章を受章したが、母も一緒に皇居に行き、随分と喜んでいた姿が忘れられない。私事だが、私も父と同じ藍綬褒章を、二〇〇三(平成十五)年に平成天皇よりいただいたが、ただ違ったところは、父親は天皇陛下に、受章者を代表してお礼を述べたが、私は黙って目礼をしただけだった。

 また、母の笑顔が浮かぶのは、一九八三(昭和五十八)年の広島市が政令指定都市になって初めて行われた広島市議会議員選挙で初当選した時だ。父も政治好きであり、母も関心があったのだろう、二人して喜んでくれ、私も幸福だった。

 この度も皆さんのお陰で副議長にさせていただいたが、これを先日墓参りした時に、墓前に報告したが、両親が生きていれば大変よろこんでくれたに違いない。

 当時、私は有名な腕白坊主だった。ある時、私がいたずらをして叱られ、夜遅くまで光明寺の縁の下にかくれていたことがあったが、母が私を探して「法明や、法明や、どこにいるのか、出ておいで」涙を流しながら探してくれた思い出は忘れることが出来ない。母の厳しさと同時にやさしさを切に思う。

 我々兄弟はお寺に生まれ、お仏飯で育った。よく母は仏様にお仏飯を毎朝あげていたが、お参りの後、そのおさがりを食べるのが楽しみだった。それはお仏飯は米の飯であり、私たちの食べるのは、通常麦ご飯だったからだ。そして母は、お仏飯のおかげで食事がいただける、仏様や皆さんに感謝を忘れてはいけないと口癖に言っていた。その頃福祉の心が、私の心に根付いたのかもしれない。

 母は礼儀作法が厳しく、食事の作法や躾も厳しかった。そして口ぐせのように「人のために尽くすこと」「正直に生きること」を教えた。また、教育には熱心であり、幼児教育の大切さも訴えた。一方、これからは高齢者の時代だ、お年寄りを大切にとも言っていた。

 母は一九八九(平成元)年十一月十九日享年七十八歳で死亡。きっと極楽浄土で五人の子どもたちの元気に活躍していることを喜んでくれていると思う。

 私も母にならい、「強く・明るく・元気よく」をモットーにして、広島市や地域の人々のためにしっかり働かせていただこうと思っている。