小坊主は、そう言って体裁良く光秀を追い返そうとしたが光秀も、ここまで来て引き下がる事は出来ない。まして一条院に覚慶が居ることが判っているし、たった今この小坊主が言っていた浪人風の武士というのは義輝の死後、行方知れずになった細川藤孝だろうと光秀は確信していた。
「左様でござりまするか・・・ならば、せめて そのお武家様にだけでもお取り次ぎ
願えませぬか、そうでなければ、拙者が越前から参った甲斐がありませぬ。」
 そう言って光秀が少し下手に出ると小坊主は奥の部屋に引っ込んで替わりに少し位の
高そうな僧侶か出てきた。
「明智殿とか申されましたかのう。越前路から、遙々。大和まで、ようお越し下され
ましたのう。だが折角お越し下されたのに先ほどの小念という者が申しました様に御門跡
様は今、心の病で寝込んで居られ誰にも会いとうないと仰せにござまするが、貴殿も越前
路から大和まで、お越し下されたのに、このまま何もなく越前にお帰り頂いたのでは
この寺の面目が立ちませぬ。よろしい拙僧の責任で貴殿と、そのお侍様をお引き合わせいたしましょう。時に明智殿あなた様の今の国元・越前には熱心な一向門徒衆が居るという
噂があり、その中でも永平寺には名僧の誉れ高い快川様がいらっしゃるらしいのですが、
ご貴殿は快川様をご存じでございまするか?」
 少し身分の高そうな僧侶は、まだ名を名乗らぬまま光秀に、そんな事を言った。
「知るも知らぬもありませぬ、快川様は我が師でございます。実は拙者は元々、美濃の土岐氏のゆかりの者にて、快川様は拙者が幼い頃、読み書きを教わった師でありまする。」 光秀が言う様に快川招喜は、元々、美濃の土岐氏出身の僧侶で光秀が幼い頃、明智城で読み書き算盤を教わった文字通りの恩師であった。
,「そうでありましたか、拙僧が修行僧の頃、諸国を巡って越前の永平寺に立ち寄ったところ快川様が丁度御逗留されており拙僧に修行のイロハを教わり、色々とお世話に
なりました。申し遅れましたが拙僧は大和坊快念と申す者にございまする。」
  その僧侶は、ここで初めて光秀に自分の名を名乗った。
「おう、もしや、あなた様の名は快川様の名から一字をお貰いになり、それで快念と名乗っておられるのですね、それで快川様は無論その事は、ご承知なのでございますか?」
「勿論でござりまする。拙僧が越前から大和に立ち戻り快川様に、すぐ改名のお許しを頂くために文を差し上げたところ快川様は快く改-名をお許し下されました。そうだ貴殿と折角こうして親しくなれたのですから、これからは互いの名で呼び合いませぬか。}