光秀は洛中を馬で巡りながら、そんなことを回想していた。
「今、思えばワシが朝倉家を見限ったのは良かったのう。何故なら無禄になったワシを不憫に思われ足利義秋様が二百石の知行にて召し抱えてくだされた。この二百石という知行はワシが朝倉義景殿から剣術指南役として打診された時と同じ知行、結局ワシは断り朝倉家と将軍家を繋ぐ脚分にして頂き、その御縁がもとで義輝様の幕臣だった細川藤孝とも親しくなり義輝様にも幕臣同様に思うぞと申して下され、名刀・桐守を拝領した。まぁ、このワシが脚分としての働きもあり朝倉家の援助は室町幕府を支えたが、なぜか主君・朝倉義景殿は当初の約束を破り五十石、銭・百貫で召し抱えられた。その時は銭・百貫とは申せ流浪の旅の末 、拾うて貰った恩義を感じ朝倉家に残ったのだが正直、銭・百貫というのはワシら家族と家臣二人が食うていくだけで精一杯でワシは妻や娘たちに新しい着物の一枚も買うてやる事も出来なんだが義秋様の幕臣となり四百貫を戴ければ、そこそこのし向きになるであろうし、もし義秋様を信長様にお引き合わせすれば織田家からも、それ相応の禄を頂けるかも知れぬ。それにしても吉田殿も近衛殿もきっと驚かれるであろうな。」
無論の事ながら、このとき光秀は親しい公家である吉田兼見や近衛忠時らにも朝倉家を見限り織田家に鞍替士官し、上洛を目指す信長の手足になっているという事など文「手紙」の一通も認める暇さえもなかった。
IT時代の現在なら携帯電話のメールやスマホのラインなどで伝達する方法は多いが、 この戦国時代から江戸時代においての情報伝達の手段は文・書状などの手紙形式で、 その多くは手渡し、急ぎの場合は飛脚や早馬などが頻繁に用いられたと考えられる。
ただ、この時の光秀には前著した様に大和・一乗院に向かうと告げたまま音信不通となり、その後の騒乱や足利義秋が越前・一乗谷に来た時の主君・朝倉義景との確執もあり、なかなか親しい公家達とも連絡が取れなかったので、その公家達も光秀は越前・一乗谷の朝倉家にいると思っているに違いなかった。
「開門願います。かいもーん吉田殿、光秀にござる。」と場上から光秀の大きな声が響き
やがて、ゆっくりと屋敷の門が開き中から当主・吉田兼見が自ら光秀を迎え入れた。
「これは光秀様、いやはや久しい事じゃのう。此度は遠路はるばる越前・一乗谷にから来られたか、という事は光秀様は無論まだ朝倉家に仕えておじゃりまするか?}
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