お酒の事で、もう一つ付け加えるなら、今のような日本酒「清酒」になったのは
江戸時代初期、某・月〇冠という伏見の蔵元が「玉の泉}という名で、清酒を出したのが
日本で最初と言われ、その後、日本各地にに広まったのである。
 話を元に戻せば・・・。滅多に食事に対して反応などした事がない光秀が今宵は
親しい公家達との宴だったので余程、気持ちが和んだのか少し笑って見せた。
 そんな態度を見せる光秀に  決して悪い気のしない元々笑い上戸の時定は・・・。
「明智殿、如何でおじゃる。これが京の味、公家の味でおじゃりまする。麻呂達は
気のあった客人を招いての宴の際は何時も、この酒を飲み、この料理を食べているので
おじゃりまする。ただ、この辺りの国 (山城、丹波、近江、大和)には貴殿が今、お暮らしの越前の様に海がありませぬ。 然りとて人は誰でも塩が多少はないと 生きていくことは出来ませんから、都の人たちは皆、他国から塩を買うて、凌いでおりまする。」
 近衛時定は、しきりに京の味や料理の事を自慢気に話し、遂には塩の話になった。
 現在は一口に京都府と言っても広くなり、北部の方は舞鶴港が整備され、何より日本海にも面しているので、塩の運搬や調達も簡単になったが、この当時は京や洛中の国に
塩の調達も運搬も容易ではなく、京や洛中の国の人が塩を買おうとすれば、まず近隣の
一色氏の治める丹後・若狭地方の商人から塩を買うか、あるいは三好氏が治める
摂津・和泉・河内「現在の大阪府のほぼ全域」の商人から高い銭を出して塩を買うか のいずれかしか選択肢は、残されては居なかったのである。
「この洛中の国には寺社が多く僧侶も尼も神主も氏子も多いので、自然に精進料理の様な
薄味のものを食べることが多くなったのでおじゃりまする。」
 時定が、このとき光秀に話したように確かに、今でも京都の人は、余り塩辛いものを
食べず、薄味のものを好む印象があるが、それは良く言えば健康意識が高いが、一方で
少し悪く言えば皆が皆とは言わないが、京都の人は今に至るまで旧・貴族や公家達のようにプライドだけは非常に高く感じる。たとえば、武士は食わねど高楊枝という諺がある
のと同じ様に、当時の貴族や公家達や都の人々の間ではプライドが高いからか
「高い銭を払うてまで塩を買うことはない塩が少なくても生き抜いてみせる。」