「ははぁ有難き幸せ、お屋形様になおいっそう忠誠を誓いまする。」
 話をもとに戻すと、秀吉が墨俣の築城に取りかかり、完成させた同じ頃。明智光秀は
越前・一乗谷から近江・伊賀・伊勢を回り尾張に入った。
 この時、光秀は一応まだ朝倉家に身を置いていたが、朝倉義景が優柔不断な性格1な上、何よりも光秀の後ろ盾だった室町幕府の第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や
「三好三人衆」に暗殺されてしまった事で光秀の越前朝倉家での居場所を危うくしていた。
 そこで光秀は、尾張の織田信長に嫁いでいた斎藤道三の愛娘・お農の方(帰蝶)の事を
思い出していた。だが、光秀は、わざわざ遠廻りをして尾張に入ったのには理由がある。
「美濃の士気は、落ちているらしいが。それでも天下の稲葉山城は難攻不落の名城。そう
簡単には落ちまい、それに斉藤方には、「美濃三人衆」が主君・斉藤義興様を命を
かけても、お守りするであろう。それ故、ワシは美濃を通るのが恐ろしいのだ。」
 光秀は、もともと美濃の土岐氏の出身であったが、斎藤道三の死後、斉藤家臣団に疎んじられ、遂には美濃を追放されたから美濃には自分の命を狙う忍びがいるのではないむ
 という事で少し遠回りをして尾張に入った光秀は、とにかくお農の方に面会した。
 永禄九{一五六六)年初夏、光秀は清洲城・西の丸の大広間に通された。
「これはこれは、お農の方様、お久しゅうござりまする。明智十兵衛光秀にございます」
「十兵衛殿、その様な堅苦しい挨拶は無用です。昔、稲葉山城の庭先で和歌などを作って遊んだ時のように、こうして、二人きりでいる時は帰蝶と呼んでくださいな。」
 お農は光秀にそう言ったが、生真面目な光秀は・・・・。
「お気持ちは大変嬉しゅうござるが、お方様には織田信長様がおられますし、それがし
にも越前に妻・ひろ子と三人の娘も居りまするし、昔の様に気楽に呼び合うのは少し
それがしは気が引けまする。」
 生真面目な光秀は、お農の気楽に呼び合おうと言う申し出にも難色を示した0。
「うふふ、今川義元様を上様が桶狭間の合戦において破って以来、織田家は東には
恐れる敵は殆ど無いのです。長きにわたり今川の人質生活を送っておられた上様の
義弟・松平元康殿は上様が桶狭間の合戦で勝つと同時に、殆ど無傷で三河・岡崎城に
入られ、名を徳川家康と改められ、三河を納めておられまする。多少今川の残党が
動き出すかも知れませんが今、上様は美濃攻めの最中です。幸い木下藤吉郎殿が墨俣に
一夜城を完成させ、美濃・斉藤方の軍師であられた竹中半兵衞様が藤吉郎殿の諄略により
藤吉郎殿の軍師になった事を上様は大葬お喜びになって、竹中半兵衞さえ、こちらに
靡けば美濃は落ちたも同然と思っておりまする。だから私たちが此処でどう呼び合っていても上様の眼中にはない事なのです。ただ十兵衛殿の様な家臣が増えれば上様はいい。」