隣国の尾張の平定だ。その折も折、信長の父・織田信秀から道三の礰愛する帰喋を
嫡男の信長の嫁に欲しいと言ってきたのである。
信長が家督を継いだ頃の織田家は、西尾張半国の小さい大名だった。
そして、三河に近い東尾張は岩倉織田家が納めていた。これは余談になるが、その岩藏織田家の家老こそ山内一豊の父・盛豊である。
やがて道三に信長と帰喋(のちのお農の方)の結婚話を持ちかけた織田信秀は今川との
戦で討ち死にし、一年後、岩藏織田家も信長自身の手で滅ぼし、ここにやっと信長は
尾張統一を果たしたが、信長の母・土田御前は信長よりも弟の信行の能力を買っていた。
「信盛、林、信長は所詮うつけじゃ織田家は信行でないと持たんのじゃ、事を起こしてく
れまいか」と土田御前は信長が家督を継いだ直後、佐久間信盛と林通勝に命じて
信長に対して謀反を画策したが、あえなく失敗、信行は騙し討ちに合い討ち死にして
土田御前も後を追って自害した。
「ワシに謀反を企てるなど馬鹿な奴らじゃ大人しくしていれば良いものを。のう権六。」
若き日の信長は、戦のない時などは体力強化の目的で丹羽長秀や池田恒興らと
清洲城内に土俵を作らせ相撲を取ったり、鷹狩りの名目で尾張の野山をかけていた。
実は、後に天下人と呼ばれる三人には共通点がある。何とか長生きをしようとしたのだ。
まず信長は、鷹狩り、鷹狩りというのは馬に乗らず、自分の放った鷹が獲物を捕らえた
所まで走らなければならない。という事は運動神経と瞬発力が鍛えられる。
次に秀吉は、温泉による湯治、合戦の合間を縫って湯治で健康を保った。
ちなみに有馬温泉の金泉に初めて入ったのは、豊臣秀吉だといわれています。
最後に家康は、鷹狩り、湯治は勿論やったでしょうが、晩年になるまで川で泳ぎ
簡単な薬なら自分で作ったと言われています。それほど天下人は健康に気を配っていた。
だが、鷹狩りや相撲を当時の頭の固い家臣団は認めず、むしろ奇妙な振る舞いと取り
尾張の織田信長は「大うつけ」だと近隣諸国の大名は信長を軽んじられていた。
そこにいち早く目をつけたのは、美濃の斎藤道三だった。もともと信長の父・信秀から
道三が礰愛する帰喋を信長の正室に欲しいと言われたからである。
道三は、稲葉山城の庭に帰蝶を呼び出した。
「帰蝶は尾張に行く。信長という若者じゃ。美濃の民のために行ってくれ。」
道三は、そう言うと帰蝶に黙って短刀(守り刀)を手渡した。
「父上、判りました。私は尾張に参ります。そして信長殿が噂通りのうつけなら、
この刀で信長を刺し、尾張の女大名となりまする。何せ帰蝶は蝮の娘でございまする。」
道三は、帰蝶のこの言葉を喜んだが、念のために「大うつけ」という評判の織田
信長に会う事にしたのである。 もし、信長が近隣諸国に聞こえる程の「大うつけ」なら
礰愛する帰蝶を嫁がせるという政略結婚で、容易く尾張が手に入ると思ったのである。
しかし、帰蝶の輿入れの噂を聞き、明智光秀は衝撃を受けた。
「帰蝶様が尾張の大うつけ、あの織田信長に嫁ぐらしいなぁ、道三様も何を考えて
おられるのやら、のう光秀殿、そうは思いませぬか。」
「まさか帰蝶様が・・・少し驚いただけです。道三様のなさる事に間違いはありませぬ。」
光秀と帰蝶は、いとこ同士だったので幼い頃、稲葉山城の桜の木の下で遊んだ事を
思い出していた。
信長は天文二二(一五五六)年初夏、美濃の上徳寺で道三に会見したのである。
織田家からは最古参の林通勝、佐久間信盛、柴田勝家、前田犬千代「利家」が同席した。
信長は寺に入る前は、いかにも「大うつけ」の格好をしていたが、会見の直前に正装に
着替えて正装し、道三の前に一人の立派っちっな武将として現れた。
「これが誠にあの大うつけの織田信長か、信じられん。身なりもきちんとした立派な武将
ではないか、ひょっとしたらこの男は、うつけ者のフリをしているだけかも知れぬ。」
道三をはじめ、寺に居並ぶ美濃三人衆・安藤伊賀守、氏家卜全、稲葉良通(のちの一鉄)
そして後に秀吉の若き頃の軍師となる竹中半兵衛重治を驚かせた。
「織田信長殿でござるか、ワシがマムシの斉藤道三でござる 濃姫の父でござるよ。」