「越前朝倉家・脚分、明智光秀にございます。近衛様には、ご機嫌麗しく恐悦至極に存じます。此度は公方様に会いに参ったのですが、京の町の雰囲気が今、おかしいのです。
もしや公方様の身に何かあったのではないかと思って近衛様にお聞きしたいのでござる。」
 光秀は近衛時定から、この後衝撃的な真実を聞かされる事になる。
「明智殿、越前より遠路、ご苦労さんどしたなぁ、けど公方様は去る永禄八(一五六五)年二月二十五日、大和・信貴山城主・松永弾正久秀殿と摂津城主・三好義次殿によって
暗殺され、ご崩御されました。それで麻呂らも困って居るのでござる。」
 将軍・義輝の死は公家や朝廷に少なからず影響を与え、京の人達も大混乱した。
「まさか公方様が松永久秀や三好義次らに討たれるとは・・・・不意討ちでござるか」
 光秀は、近衛時定に子細を確かめたが、時定は黙って首をかしげた。
「それは麻呂にも判らぬが、暗殺という事だから恐らく、そういう事になる。」
 話は少し横に逸れるが、その当時は大和、摂津・和泉、四国のうち讃岐阿波の二カ国を
加えた四カ国は三好三人衆(三好義次、三好長逸、三好義賢)と松永久秀の領地であった。
 三好三人衆と松永久秀が何故、将軍・義輝を殺さなければいけなかったか
その理由は定かではないものの、恐らく義輝は京の力のある公家や堺の商人達を優遇して朝廷の意向を蔑ろにしたというのが言い分だろう。
 とにかく将軍・義輝という後ろ盾を失い、また親友の細川藤孝は行方知れず、
これにより光秀は京にいる名目を失った事になったのである。
「ここは一旦、越前・一乗谷に帰ろうか、されど越前に帰っても公方様がお亡くなりに
なった事を知れば優柔不断な殿のご気性なれば、ますます迷われるであろう。ここは
近江から伊勢路を抜けて尾張に参るとするか、諸国の事を知るのも脚分の大切な
お役目じゃからなぁ、それに尾張には今川義元を倒した織田信長様もお農の片も
居られる。久々にお会いできるのが楽しみでござる。」
 話を再び遡れば、光秀の祖父にあたる土岐頼芸を美濃から追放し、一介の油売りから
美濃の国主にまで上り詰めた斎藤道三は次の目標を定めた。