光秀は、ある日朝倉義景にこう持ちかけた。
「殿、恐れながらそれがし知行地二百石ご辞退申し上げます。この越前・一乗谷に
大きな屋敷を頂戴しただけで十分でございまする。」
「何だと二百石はいらぬと申すか? それでは何か他に望みはあるか何なりと申せ」
「されば、それがしを朝倉家の脚分として京にお使わしくださりませぬか、そしてもし
殿が上洛して室町幕府の再興を手を貸してくださる気持ちはありますか、幸い今なら
将軍・足利義輝様は、ご健在です。それがしの友の細川藤孝も居りますれば何卒
それがしを朝倉家の脚分として京にお使わしください。」
「判った。その方を朝倉家の伽分とする。公方様や京の様子などをしっかり見て参れ。」
こうして、朝倉家・脚分、明智光秀が誕生したのである
光秀は、自分と主君・朝倉義景を信じて、越前と京を何度も往復して脚分として
必死で働いた。将軍・義輝は健在で重臣の細川藤孝も光秀の相談によく乗ってくれた。
そして、ついに将軍・義輝に拝謁する日がやってきたのである。
「これなるは明智光秀殿、もとは美濃の土岐源氏の御曹司で明智城の城主であられたが
斉藤家と対立し、美濃を離れ今は越前の朝倉家の脚分として此度、上様に拝謁を願い出ております。どうぞお見知りおきくださいませ。」
親友でもある細川藤孝に紹介された光秀は、義輝の前に進み出て・・・・。
「初めて御意を得ます。明智十兵衛光秀にございます。此度は朝倉家・脚分として
上様に拝謁出来し事、恐悦至極に存じます。」
「光秀、その方の事は藤孝から聞いて知って居る。美濃の土岐家の子孫という事は
家柄や格式は申し分はないのう。美濃では苦労したらしいが今は朝倉家・脚分、余は
その方の事は我が重臣・細川藤孝同様と思うぞ。」
義輝は、そう言って足利義満の時代より伝わりし、名刀・桐守を初対面の光秀に手渡したのである。光秀は結果的に朝倉家・脚分でありながら将軍・義輝から名刀・桐守を
拝領した。