1
 
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康この三人の天下人を除くと永禄から元亀、天正年間に
自らの所領地が百万石を超えた戦国大名は、中国の毛利輝元と関東の北条氏政ぐらいだろうか。しかし、ブランドだけで言うともう一人の天下人がいる。明智光秀である。
 光秀は、もともと美濃の斎藤道三に見込まれていたが、道三の死後、嫡男・義竜や斉藤
家の家臣団と対立し、流浪の旅の末、隣国の越前・一乗谷にたどり着いたのは。
永禄七(一五六四)年の「道三様がお亡くなりになり、もう美濃には何の未練もない。幸いこの越前には北国の守護大名・朝倉義景殿が居られる。もしかしたらこの越前で明智家の再興も夢ではない。そうなれぱねがったり叶ったりなのだが・・・・」
 光秀は朝倉義景に仕官の望みを持ち、義景に面会を求めた。
「明智光秀、我が仕官を許す。剣術指南役として、二百石で仕えよ。」
 朝倉義景に士官した光秀にさらなる飛躍のチャンスが巡ってきた。
 光秀の父・光綱が室町幕府の官職を勤めていたのが縁で知り合った室町幕府第十三代
将軍・足利義輝の重臣で親友でもある細川藤孝から・・・・。
「衰退している室町幕府の再興を上洛し、公方様と共にしてくれる大名は居らぬか」
 足利尊氏以来、二百三十年間以上続いてきた室町時代も戦乱の嵐には勝てず
このところ衰退していたが、足利義輝は何とか公家と朝廷の力を後ろ盾に室町幕 府の
権威を取り戻そうとした。
 室町時代自体は、この後も実弟の義昭まで約十年続くが恐らく義輝が室町幕府としてはこの人が事実上、最後の将軍と言えるだろう、