灼熱の陽光は無慈悲に頭上から降り注ぎ、アスファルトは白い炎を孕んで私を責め苛んだ。
ゴミ収集の作業は、繰り返すだけの単調でいて、しかし一歩ごとに足を奪う修羅の道だった。車体に焼き付く金属の匂いと、生ぬるい風に含まれた汗と埃の味。
運転席のドアを閉めるたびに響く乾いた音が、意識の薄皮を剥ぎ取っていった。午後を迎える頃、私は完全に力尽きた。
疲労という名の泥沼に沈み、もはや呼吸ひとつも煩わしい。果てた。
この酷暑のなかで、私は己の無力さを噛み締めるほか、術を持たなかった。
疲弊は、私の身体を重く、動かぬ岩のように固めてしまった。まるでこの世界が、静止し、時の流れさえも凍りついたかの如く。動きたい。しかし、筋肉は鋼鉄の鎖に繋がれ、心は無為の深淵に沈む。この苦悶は、肉体の限界か、それとも魂の叫びか。動けぬ自分に苛立ち、しかし身動きは取れず、私はただ、暗い静謐のなかで、己の脆さと向き合っている
今日、私は休みを得た。
朝、薄明の光のなかで目覚めたとき、身を包む静寂は神聖な儀式のようであった。布団の中に横たわり、外界の喧騒から身を引くその瞬間、私は自らの内なる殻へと深く潜っていった。空気は透明で澄み渡り、鳥の歌声が空虚を切り裂く。その声音は、まるで遠い山岳の峰々に響く古の詠唱の如く、私の精神に響いた。我が身は依然として重く、疲労の鎖に縛られているが、この休息の一日が、魂の洗礼の時間であることを知る。掃除もせず、ただ冷蔵庫の残り物を口にする無為の行為は、儀式の前の静寂の如し。
芸能とは、かつては神に捧げる神事であった。白粉と紅に染められた肉体は、群衆の期待を一身に背負い、その身を削って芸を為し、人々の心を耕した。
だがいまや芸能とは何か。テレビの中の偶像たちは、神ではなく大衆の視線に媚び、知性なき快楽に身を委ね、魂なき笑顔で茶の間を満たす。
国分太一――かつて「鉄腕DASH」に汗と泥と根性で人間の尊厳を映し出した男は、ついに自らの慢心の泥濘に沈んだ。報道は曖昧である。コンプライアンス違反とされながら、その「具体」を語ろうとしない日本テレビの社長も、当人も、皆いずれも沈黙し、責任の霧の中に逃げ込んだ。だが、男がその身を差し出して詫びるという日本古来の美徳をも放棄し、「説明できない」「明かさない」「会見は行わない」という文言の羅列が何を生んだか。
それは疑念と憶測と興ざめである。
私は思う。この不自然なまでの「説明しなさ」は、現代社会が潔癖症に仮託された腑抜けの道徳のもとに、「美しき敗北」さえ許されぬ世界であるという証左ではないか。
国分太一よ。貴様の罪は、ただ欲望に生きたことではない。貴様の罪は、武士道を失ったことである。罪を犯したのなら、その詳細を語れ。世間が刀を突きつける前に、自ら喉元に刃を当てよ。恥を隠すな。恥を晒し、そのうえで立て。この国には、敗者にも矜持があった。それは潔い土下座でもなく、単なる謝罪会見でもなく、真に自らの行為を語り尽くす言葉だった。それが失われた今、我々は何に怒り、何に絶望し、何を許せばよいのか。芸能界という絢爛の殿堂も、いまや空虚な商業主義の一部である。だが私はなお、そこに「人間の矜持」を見たい。汗と涙と、あるいは欲望の泥にまみれた「人間」の姿を、正しく描き出してほしいのだ。
芸能人とは、大衆の夢である。だが夢は夢であるがゆえに、儚さと潔さをまとわねばならぬ。そしてそれを見失ったとき、夢は滑稽に堕ちる。
国分よ、いまさら身を隠すな。芸能の神を穢したならば、せめて言葉で己を断罪せよ。それこそが、最後の「男の美学」ではなかったか。