高野山20 秋田藩佐竹家の墓所 平賀源内、蔦屋重三郎、平田篤胤 | 日本史/世界史の散策 & ポートレート写真

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秋田藩・佐竹家は上杉家と同様に関が原の敗者で、かろうじて改易は免れたが領地は召し取られて生きながらえた。 
 ・佐竹家は水戸を中心とした常陸国が先祖伝来の領地であったが、

  出羽国に移されて貧しい藩経営を強いられていた。 
 ・このころの秋田藩佐竹家は財政改善のために鉱山開発を計画し

  当時の藩主が江戸から平賀源内1728-1780を招いている。
     ┣16世紀末 常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発推進
     ┣16世紀末 日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも金の採掘を開始
     ┃     日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っている
     ┣1602   関ヶ原の戦いの結果、秋田へ転封
     ┣1620代  水戸藩が領内の鉱山経営に積極的に乗り出す
     ┣後の日立製作所に繋がる
     ┗日立製作所を小平浪平1874-1951が創設、多くの有能な人材が

      日立鉱山の創成期に活躍
     
      
 ・出羽国久保田藩の第8代藩主・佐竹義敦1748-1785は源内から文化、

   学芸を学んだのであるが、 
   それは家臣の小野田直武(画家1750-1780)の功績によるもので、
   源内の親友である杉田玄白1733-1817が解体新書を出したときの人体図を描いたのが、

   この小野田直武である。 
 ・1773年に直武が源内と出会い、翌年に解体新書が刊行、

   そしてその2年後に篤胤がうまれている。  
 ・佐竹義敦1748-1785は軍学者であり蘭学者の平田篤胤1776-1843が10歳まで生き、

  家臣の直武と西洋画論を書いている。
    平沢常富1735-1813
     ┣主君は佐竹義明、佐竹義敦、佐竹義和の3代 
     ┣佐竹家の江戸留守居役----他藩との情報交換 
     ┣筆名は朋誠堂 喜三二という戯作者
     ┣松平定信の寛政の改革を風刺----佐竹義和から叱責
     ┣蔦屋重三郎1750-1797の依頼で序文を寄稿:明月余情
     ┗東京台東区・佐竹商店街はゆかりの地
 ・秋田藩には蘭学に対する深い理解があったことは特筆すべきことである。 
 ・ところが篤胤は20歳のときに突如秋田を出奔して江戸に向かった。

  あてがあったわけでもなく国学で身を立てようと思ったわけでもない。 
 ・結局本居宣長とは接触することなく江戸で6年を過ごしている。 
 ・この間雑用をしながら学問に励んでいたという。

  そして江戸在中の備中松山藩の軍学者・平田篤穏に見出されて養子となった。 
 ・これが篤胤の幸運の始まりといえる。落ち着いて学問に励み、

  本居宣長のことを知るようになると徐々に傾倒していった。 
 ・秋田藩大番組頭大和田祚胤の四男として生まれた平田篤胤、 
 ・平賀源内など佐竹家にかかわる人格者は多い。 
 ・因みに関が原合戦時に西軍として徳川と戦ったのは

  佐竹氏19代当主・佐竹義宣1570-1633で、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。