奈良の古墳・墓(織田家松山藩の菩提寺・徳源寺 倭迹迹日百襲姫命大市墓 高松塚古墳) | 日本史/世界史の散策 & ポートレート写真

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 奈良大宇陀には織田家松山藩の菩提寺・徳源寺

がある。 織田信長の次男・信雄の戒名が徳源院であることから命名され、信雄の五男・織田高長(宇陀松山2代藩主で出雲守)が父の菩提のために創建したという。 実は奈良・大宇陀には柿本人麻呂に縁のある 「かぎろひの丘」があり、そこを訪ねたときに偶然見つけたのが徳源院で、しかも織田家墓所があるということで参ってきました。 徳源寺縁起によると本尊は釈迦如来坐像で、千手観音像、開山像、円照禅師像なども納められています。 この徳源寺、驚いたことに普通に家族が暮らしており、庶民的な匂いのするところで御座いました。

 

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
    ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣-  督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘   ┣池田忠雄
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┃
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
1510-1551    ┃  ┣登久姫                  毛利輝元娘
        ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
     ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
     ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┗織 田 信 長1534-1582 

 

 

 興福寺の南円堂

には不空羂索観音菩薩坐像が納められています。 1189年慶派の仏師・康慶によるもので手に持つ羂索によって一切の衆正を漏れなく救済し、空しさを取り去るというものである。 日本に現存する仏像は、ほとんどが一つの顔と8本の手、眉間に三つ目の眼を持つ一面三目八臂像である。 手には羂索を持ち肩に鹿皮を着けるのが特徴である。 東大寺三月堂の本尊も代表的な不空羂索観音菩薩である。その他の特徴として印相は合掌手、開敷蓮華・錫杖を持ち、阿弥陀仏を埋め込んだ宝冠を被っている。(写真は円教寺巡礼の道にて)  

 

 興福寺南円堂は813年、藤原冬嗣が父・内麻呂追善の為に建てられたもので、 基壇築造には和同開珎や隆平永宝が撒かれたことが発掘調査で明らかにされ、また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記されている。 不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。 興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めたという。 南円堂は毎年10月17日の大般若経典読会の際に特別開扉される。 

 

万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂の灰塚

と伝えられている。 「人麻呂」が「人丸」、「火止まる」に通じることから、火除けのご利益があるらしい。 柿本朝臣は、和邇氏の同族で、生没年・経歴などは不詳である。 『万葉集』に人麻呂作歌とあるものは長歌18首、短歌64首。 年代判明歌中の最初の歌は持統3年(689年)の草壁皇子挽歌(高光る 我が日の皇子の 万代に 国知らさまし 島の宮はも) 、最後は文武4年(700年)の明日香皇女挽歌で、漢詩文の影響を受け、初めて文字によって歌を記しながら作っていった歌人である。 明日香皇女の挽歌は次回に。。

 

 柿本人麻呂情報がすくないので、ここでは草壁皇子について。

 

  • 大田皇女は鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の姉にあたり、鸕野讃良皇女が草壁皇子を生んだのに対して、大田皇女は大津皇子を産んでいます。 草壁皇子と同じ年の大津皇子は人望溢れ、将来有望視されていましたが、早くに母をなくし、その人生は暗転します。 草壁皇子を溺愛する持統天皇は後に、謀反の罪で大津皇子を排除し、自害に追い込むます。 前々から是非訪れたいと思っていただけに、標高約520mの二上山雄岳山頂までの登山は一苦労しましたが達成感はひとしおです。
  • 壬申の乱の戦後処理が終わった676年、朴井連雄君が遣新羅大使に任ぜられた。時の新羅王は文武王である。ところが、朴井連雄君は脳卒中で倒れ、後任に物部連麻呂を指名した。 この頃、壬申の乱の功績者が続々と亡くなっている。朴井連雄君の死に際しては、天武は内大紫という26階級中5位という高位を与えている。 それに比べると物部連麻呂は19位の大乙上であり、朴井連雄君に代わって 遣新羅大使となるにはあまりにも位が低かったが、元大友派としては仕方がない。 しかし、物部連麻呂の遣新羅大使としての仕事ぶりは群を抜いており天武に好評を得たようである。 これにより物部連麻呂は貴族達に一目を置かれる存在になていくのである。 天武は能力主義を貫いている。 たとえ壬申の乱時に大友皇子側であったとしてもである。 中臣連大嶋は中臣連金の甥であったが、博学であったがゆえに神祇次官に任じて重用している。 物部連麻呂が大山中に昇進したのは679年、40歳の頃である。 大山中は26階級中14位で、貴族の最下位・小錦下のすぐ下にあたるから貴族になるのもすぐに迫っていた。 落ちぶれた物部の末裔が、壬申の乱に敗れた後に、ここまで上がるのは並大抵ではない。しかも物部連麻呂は娘を藤原朝臣不比等に入れている。  679年、天武は吉野で盟会を行った。 異母兄弟である草壁、大津、高市、川島、忍壁、施基皇子を集め、天皇の命に従い助け合うように誓約させている。 長子は高市皇子であるが、母が筑紫の宗像氏で有力豪族でもなんでもない。 従って皇后が生んだ草壁皇子が皇太子となった。  しかしこの頃から皇子達の間にお互いに競争相手視する意識が強まったともいえるのである。というよりも草壁皇子を溺愛する皇后の他の皇子に対する牽制が目に余ったためか・・・。皇后が人望のある大津皇子を恨み、それが表面化したとも考えられる。 草壁皇子は病弱であり凡庸である。次の天皇になる器ではなかった。皇后が苛立つのも無理はないが、天武天皇が亡くなれば皇太子草壁が天皇になるであろうが、皇后が亡くなれば、天皇は草壁から皇太子の位を剥奪し、大津皇子に与えるであろう。反発するものもほとんどいないであろう。 天武と皇后の間には間違いなく亀裂がはいっていると物部連麻呂は感じていた。 亀裂は草壁皇子の問題だけではなく後宮の女人に次々と手をつける天武に対する皇后の気持ちを推し量れば容易に理解できる。 なにしろ壬申の乱の際に吉野を脱出して夫とともに桑名までいった皇后はまだ28歳であったからである。 この頃、物部連麻呂は石上神社の巫女であった振姫という女性を後宮にいれている。思ったとおり彼女は侍女となり皇后に仕えると、定期的に物部連麻呂に皇后の心境などを報告している。それによると朝廷が分裂ぎみであるというのである。 天皇の大津皇子への寵愛ぶりにより官人が迷い始めているという。 これに対して皇后は草壁皇子の補佐役として無位の大舎人・中臣連史をつけた。 大織冠・藤原鎌足の子で後の藤原朝臣不比等である。鎌足は先の天皇・天智の片腕として蘇我入鹿を倒し蘇我本宗家を滅ぼした。 この大化の改新という革命は彼がいなければなし得なかった。そして天智は鎌足に安見児と鏡女王の二人の女人を与えた。 当時安見児は天智の子を身篭っており、それが不比等であると考えられている。生まれた史は天智に似ており、壬申の乱の前に史は山科の田辺史大隈の家に移されたことも噂を広げた原因である。 物部連麻呂は振姫を通じて皇后が史の出生の秘密を知っているのを掴んだ。このとき物部連麻呂は天武と皇后のどちらにつくかが自分の将来を大きく左右されるのを知った。 681年、物部連麻呂の努力が報われる。とうとう貴族である小錦下に任ぜられたのである。同時期に貴族になったのは柿本臣猿、粟田臣真人、中臣連大嶋、高向臣麻呂といった蒼々たる連中がいた。貴族になると邸宅の敷地はこれまでの10倍になり、10人以上の従者が国からの給料付で与えられる。 この頃、天武と皇后の亀裂はさらに広がりを見せた。 天武が大津皇子に政治の一端をまかせるようになったからである。天武は草壁皇子の位を浄広壱、大津皇子を浄大弐とし、一位の差をつけることにより皇后の気持ちを和らげようとしたが、天武の大津皇子に対する期待感溢れる様子に嫉妬は和らぐはずもなかった。 この年草壁皇子と后の阿閉皇女(後の元明天皇)は軽皇子(後の文武天皇)を産んでいる。 阿閉皇女は天智の娘で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘で、その母も石川麻呂の娘・遠智姫である。 天武と皇后の間に溝が深まるに連れて天武はやせ細り、太り始めた皇后は政治に対する発言も増し、本格的な都の地として藤原の地を押し始めた。 そして視察に史や物部連麻呂も従った。緊張感が高まる中で一人自由奔放に山中で狩を楽しみ、漢詩を詠むのは大津皇子である。大津皇子と行動を共にするのは天智の子・川島皇子、天武の子・御方皇子、八口朝臣音樫、巨勢朝臣多益須、中臣朝臣臣麻呂など数え切れない。 狩場は大和周辺であるが吉野に通じる竜門岳まで及んだ。 物部連麻呂は振姫を通じて調べたことを皇后に報告する。 668年、天武の容態は悪化し、陰陽師に占わせた結果、草薙剣の祟りであるという。早速飛鳥浄御原宮の宮殿に祀っていた剣は熱田神宮に戻されたが効果は薄く、胃の痛みに喘ぐ天武の声が宮中に響き、侍女も官人も耳をそばだてる。 物部連麻呂は久しぶりに天武を見たがあまりのやつれように叩頭で視線を逸らせた。大津皇子の妃は天智の娘・山辺皇女で20歳になったばかりであるが、ある噂が流れた。 草壁皇子が惚れている若い女人に大津皇子が言い寄っているという。 草壁が大名児と呼ぶその女人・石川郎女は美貌と歌才で有名で、草壁が後宮に入れた蘇我系の女人である。大津皇子は、微妙な立場にあるにもかかわらず大胆な行動にでたことに物部連麻呂は呆れた。 しかも酒宴の席で堂々と詠んだのである。 「大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿し」 そしてこの直後大津皇子は一人伊勢神宮の斎宮に行き、姉の大伯皇女に会っている。皇后がなみなみならぬ決意を感じ取った頃、天武は正殿で亡くなり、宮の南に殯宮が建てられた。 物部連麻呂は法官の長として誄に加わったが、これは物部連麻呂が皇后に認められたことを意味する。 そして川島皇子から大津皇子が謀反を企てているとの密告に対して、物部連麻呂は物部氏を率いて大津の屋形を取り囲む。壬申の乱で大将であった高市皇子も皇后側についている。大津皇子の謀反事件はあっというまに終わった。 大津は逮捕されると翌日には死を賜った。 それを知った妃・山辺皇女は大津の死体にすがって殉死したという。大津の狩に従った多くの者も逮捕され、物部連麻呂は彼等の名を皇后に報告している。事件を知らなかった草壁皇子は大津の刑死に衝撃を受けて鬱々とした日々を過ごすのである。気の強い女帝は草壁の回復を信じたが、鬱は続き、天武の長い殯の儀式が終わり遺体が大内陵に葬られた直後に草壁は病床の身となり、半年後に亡くなったのである。
  • 大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、持統女帝の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。   大津皇子は死の直前、たとえ姉弟といえども男子禁制の伊勢の斎宮に、姉・大伯皇女に会いにいっています。 目的については諸説があるようです。 伊勢の神の神意を問うためとする説、謀逆の成功を神に祈るためとする説、不成功を予見して姉に別れを告げるためとする説などです。
  • 神戸の祇園町にある勝海舟寓居跡の隣にあったのがこの元暦元年の五輪塔、平家の供養塔です。門前の案内板には清水観音堂(室町時代~昭和13年)があった当時の山門とあります。 元暦元年は1184年、つまり源平合戦の一の谷の戦いがあった年です。 そして一の谷の戦いでは源義経の鮮烈な功績によって平家方では大変多くの犠牲者を出しています。 中でも平師盛は平重盛の五男で母は鳥羽院寵臣の藤原家成の娘・経子である。備中守で従五位の官位ではあるがこのときわずかに14歳です。 師盛の一の谷の合戦での最後は平家物語に次のように記されています。
  • 須磨の浜での激戦も平家の負け戦が決定的になり、あまたの一門の公達は船へと逃れようとしていた。師盛は主従七人で小船に乗り、今にも沖へ漕ぎ出そうかというところ、ちょうどそこへ知盛の侍、清衛門公長が馬に乗って馳せてきます。 「あれはいかに、備中守殿の御船と見参らせて候。われも参り候はん」 師盛らは船を渚ちかくまで寄せ、公長は鎧を身に付けた格好で、馬より船へ勢いよく飛び乗ったところ、バランスを崩した小さな船はくるりと回転し、師盛は海へ投げ出されます。浮き沈みしている師盛を見つけた畠山の郎党、本田次郎親経らが十四,五騎で馳せ急ぎ、馬から飛び降りると、師盛を熊手にかけて引き上げ、とうとう首をとってしまいます。 一の谷で討たれた一門の御首は二月十二日には都へ入り、大路を渡され、獄門にかけられます。 同じく一の谷の戦いで破れた平家の武将で、あまりにも有名な平敦盛よりもまだ2歳若くしての最後でした。 法然の高弟である勢観房・源智は、師盛の遺児と伝わっています。

 

   祇園女御・妹兵衛佐局  平完子(清盛六女)            
    ┣清盛1118-1181    ┃平信範娘                   
       ┃┗盛子1156-1179(次女)┃┣近衛家経1184-1238      
    ┃藤原忠通1097-1164┣基通1160-1233養子       
    ┃┣近衛基実1143-1166  ┣近衛家実1179-1242  
    ┃┃ ┣基通1160-1233 源顕信娘 
    ┃┃藤原忠隆娘  
    ┃┃  
    ┃┣近衛基房 1145-1231松殿(法華寺八講会 資盛との車争い)        
    ┃┣九条兼実 1149-1207右大臣月輪殿「玉葉」の作者┣隆忠       
    ┃┗九条兼房 1153-1217太政大臣          ┣師家
    ┃                        ┣伊子(冬姫:義仲側室)     
    ┃有子 池禅尼1104-1164(頼朝を助けた御方)   俊子
    ┃┣家盛1120-1149                
    ┃┣頼盛1131-1186     
    ┃┃     ┣仲盛?-?
    ┃┃     ┣光盛1172-1229
    ┃┃     ┣為盛    -1183
    ┃┃     ┣娘
    ┃┣忠重  大納言の局(待賢門院に仕え俊寛の兄妹)
    ┃┣忠度1144-1184タダノリ薩摩守(母:藤原為忠娘 一の谷で死亡)                  
    ┃┃ ┃   ┣-             教盛・娘
    ┃┃ ┣忠行 熊野別当湛快娘   藤原成親  ┣-
    ┃┃浜御前              ┣藤原成経-1202丹波少将
    ┃┃                  ┗娘1155-
    ┃┃                     ┣六代(高清)1173-1199
    ┃┃        藤原親盛・娘      ┣姫(夜叉御前)      
?-1121 ┃┃         ┣維盛1157-1184(桜梅少将 那智で入水)            
正盛  ┃┃      高階基章娘┣資盛スケモリ1161-1185(建礼門院右京太夫恋人)            
 ┣忠盛1096-1153        ┣小松重盛1138-1179小松左大将(病死) 
 ┗忠正   ┃-1156       ┃ ┣清経1163-1183 
  ┣長盛┃?-?        ┃ ┣有盛1164-1185(鵯越丹波路より屋島へ敗走)   
  ┣忠綱┃?-?           ┃ ┣忠房    -1186(鵯越丹波路より屋島へ敗走)  
  ┗正綱┃?-?           ┃ ┣師盛1171-1184(一の谷で死亡)  
     ┃          ┃ ┣娘  
     ┃          ┃ ┃┣-  
     ┃          ┃ ┃原田小卿種直(筑紫岩戸豪族)  
     ┃          ┃藤原家成娘経子                     
     ┃          ┃(鳥羽院寵臣)               
     ┃          ┣基盛1139-1162右衛門督                 
                   ┣清盛 1118-1181 ┏清宗 ┗行盛-1185壇ノ浦で入水
                   ┃┣冷泉局   ┣宗盛1147-1185中納言
     ┃厳島内侍迦葉┣知盛1152-1185四位少将                    
     ┃           ┃ ┣知章1169-1184(一の谷で死亡)⇔児玉党                   
     ┃           ┃ ┣知宗1184-1255                    
     ┃           ┃ ┣知忠1180-1196                    
     ┃           ┃ ┣中納言局(藤原範茂室)後堀河天皇に出仕                    
     ┃           ┃治部卿局1152-1231後高倉院に出仕                    
     ┃      ┣重衡1157-1185頭の中将(一の谷で捕虜)          
     ┃      ┃ ┣-        
     ┃      ┃輔子?-?(大納言典侍 建礼門院と大原へ)         
     ┃      ┣清房?-1184(一の谷で死亡)淡路守         
     ┃      ┣清貞?-1184(一の谷で死亡)尾張守        
     ┃藤原家範娘? ┣徳子1155-1214建礼門院       
     ┃ ┣平時子1126-1185┣安徳天皇1178-1185言仁親王       
     ┃ ┣平時忠1127-1189┃         藤原棟子1173-1238北白河院
     ┃ ┣平親宗1142-1199┃藤原殖子1157-1228(七条院)┣後堀河天皇1212-1234         
     ┃平時信?-1149    ┃ ┣守貞親王1179-1223後高倉院           
     ┃ ┣滋子1142-1176 ┃ ┣高成親王1180-1239後鳥羽天皇        
     ┃藤原祐子?   ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181          
     ┃      ┃     
     ┃     後白河天皇77代1127-1192     
     ┃清盛側近  平盛国1113-1186               
     ┃       ┗盛俊?-1184(一の谷で死亡)⇔猪俣小兵六          
     ┃         ┣盛嗣?-1194越中次郎兵衛        
     ┃         ┗盛綱?-?        
     ┣経盛ツネモリ1125-1185 修理太夫参議 壇ノ浦で入水
     ┃      ┣経正    -1184丹波守皇后宮亮琵琶の名手(一の谷で死亡)
     ┃      ┣経俊1164-1184若狭守(一の谷で死亡) 
     ┃      ┗敦盛1169-1184(一の谷で死亡) 
     ┃        ┣-
     ┃       右大弁時宗・娘       小宰相1165-1184(上西門院の女房)
     ┗教盛ノリモリ門脇殿1128-1185壇ノ浦で入水  ┣-
            ┣通盛1169-1184(越前三位)(鵯越で死亡)         
              ┣教経1160-1185(能登守(一の谷で死))       
            ┣教子?藤原範季妻         
            ┣業盛1169-1184(一の谷で死亡)  
            ┗仲快1162-1227(中納言律師)

 

 

平城宮に匹敵する大都市・纒向

 三世紀の初めの頃近畿地方の中心部では「庄内式」土器様式が始まる時期でもある。 奈良盆地ではヤマト王権の最初の王都と考えられる桜井市・纒向遺跡が出現した。纒向は巨大な規模であるだけではなく、広域な交流の輪を広げ、周辺には前方後円墳が築造され古墳時代につながる色々な祭祀が行われた。 卑弥呼の共立によって誕生した倭国の実態がヤマト王権であり纒向遺跡はその王都である(と言われている)。 これは筑紫、吉備、播磨、讃岐や出雲、近畿勢力などの合意の下に新しい国家が建設されたといえる。 この連合新政府の鍵となったのは吉備の王であったようである。 纒向遺跡の特徴には出現のしかたにある。 盆地の弥生集落の基礎構造は崩れ、巨大農村は小規模な散村へと分裂していった。 つまり町である。 この建設は巨大な運河の建設から始まり三世紀後半には1.5km四方にも及んだ。 これは後の藤原宮、平城宮に匹敵する。 また、全長100m前後の前方後円墳が次々に造られ、三世紀末には定型化前方後円墳である箸墓古墳が建造される。 纒向遺跡のピークの時期である。 纒向遺跡には運河に代表される大規模な土木工事の痕跡も窺われる。 大量に出土した土器にはヤマト以外の地域で作られた土器が15%含まれ、それらは南九州から南関東にも及ぶが、もっとも多いのは吉備などの瀬戸内、山陰、北陸、伊勢地域のものであり、 経済的な物流以外に政治的な理由が窺える。 つまり中央の王権を構成し支えた国々の出先機関が大きく影響しているということである。 日本書紀にある「倭迹迹日百襲姫が葬られた箸墓」は大市にあったし、纒向遺跡のすぐ南には海柘榴市という大都市があった。 また崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮などはまさに纒向遺跡に都宮があったことにほかならない。

 

                 尾張大海媛
                 ┣ 大入杵命(古事記のみに登場 能登臣の祖先)
     大物主神蛇       ┣ 八坂入彦命
第7代孝霊天皇 ┣        ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
 ┃┃┣倭迹迹日百襲姫命台与か 姥津媛命 ┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
 ┃┃┃ 欝色謎命伊香色謎命母  ┣彦坐王┃  ┣ 豊鍬入彦命
 ┃┃┣吉備津彦   ┣9 開化天皇   ┃  ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
 ┃┃┣稚武彦命   ┃   ┣10崇神天皇(御間城入彦)
 ┃┃倭国香媛    ┃  伊香色謎命  ┃  ┣ 倭彦命  
 ┃┃        ┣倭迹迹姫命    ┃  ┣  
 ┃┃        ┣大彦命      ┃  ┣ 彦五十狭茅命  
 ┃┣━━━━━━8孝元天皇┣御間城媛  ┃  ┣ 千千衝倭姫命
 ┃細媛命       ┃┃┗武渟川別  ┃  ┣ 五十日鶴彦命  
 ┣彦狭島命      ┃┣彦太忍信命  ┃  ┣11垂仁天皇┓  
 ┃          ┃┃武内宿禰の父 ┃ 御間城媛  ┃ ┃
 ┣稚武彦命吉備の祖  ┃伊香色謎命   x大彦命の娘  ┣ ┃袁邪辨王
絙某弟         ┣武埴安彦命 ━━┛   ┏迦具夜比売┃
          埴安媛 ┣       大筒木垂根王   ┃
         河内青玉繋┛                ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃彦坐王
┃┣狭穂彦肥長姫(蛇)                  葛城高額姫
┃┗狭穂姫命                        ┣神功皇后170-269
┃ ┣誉津別      播磨稲日太郎姫-122 垂仁天皇  息長宿禰王┃ 
垂仁天皇        (日岡陵古墳)        ┣両道入姫命    ┣15代応神天皇 
 ┃┃ 三足比咩命      ┃       ┃  ┃      ┃
 ┃┃  ┣磐城別命     ┣櫛角別王   ┃  ┃      ┃
 ┃┣磐衝別命(三尾氏の祖)   ┣大碓皇子  綺戸辺 ┣14代仲哀天皇-200 
 ┃綺戸辺          ┣小碓尊 (日本武尊:白鳥陵)     ┣麛坂王  -201
 ┃(山背大国不遅の女)     ┃┃┣武卵王(讃岐綾君祖)     ┣忍熊皇子-201
 ┃             ┃┃┣十城別王(伊予別君祖)     大中姫
 ┃             ┃┃吉備穴戸武媛
 ┣五十瓊敷入彦       ┃┣稚武彦王(東征同行)
 ┃イニシキイリヒコ     ┃弟橘比売
 ┣ーーーーーー12代 景行天皇(大足彦忍代別天皇)-13-130 
 ┣倭姫命    ┣稚足彦尊(13代成務天皇)        ┃     
┏日葉酢媛命   ┣五百城入彦 ┃┣和珂奴気王 ┣神櫛皇子  (母:五十河媛 讃岐国造祖)   
┣渟葉田瓊入媛  ┣忍之別皇子 ┃弟財郎女   ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
┣真砥野媛    ┣稚倭根子皇子┃       ┣五百野皇女 (母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
┣薊瓊入媛    ┣大酢別皇子 ┗吉備郎女   ┣豊国別皇子 (母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王    ┣五百城入姫         ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇   ┣五十狭城入彦:和志山古墳  ┣日向襲津彦 (母:日向髪長大田根)
   ┣八坂入彦命┣吉備兄彦          ┣豊戸別皇子 (母:襲武媛)
尾尾張大海姫 ┃ ┣高城入姫皇女        ┣国乳別皇子 (母:襲武媛)
       ┃ ┣弟媛皇女          ┣国背別皇子 (母:襲武媛)
       ┃ ┣香依姫皇女         ┣豊国別皇子 (母:日向御刀姫)日向国造祖
       ┃ ┣渟熨斗姫命         ┣真若王   (母:伊那毘若郎女)
       ┣八坂入媛命           ┣彦人大兄命 (母:伊那毘若郎女) 
       ┗弟媛              ┣五十功彦命 (母:五十琴姫命) 
                        ┗大江王 (母:迦具漏姫 日本武尊の曾孫) 

 

倭迹迹日百襲姫命大市墓

 

 

葛上郡今木双墓・水泥南古墳

 前に少しだけ触れた水泥古墳を早速訪れたので紹介です。  奈良の遷都1300年を記念して行われている大イベント・平城京跡地での遷都1300年祭で、大極殿内に安置されている玉座を見て、ゆっくりした後は 巨勢地へ向かいました。 いたるところに置かれた「巨勢の道」 の碑を目印に目指したのは「蘇我氏の双墓」 です。 ひとつは水泥北古墳、もうひとつは水泥南古墳といって双墓と呼ばれるだけに、二つの古墳が隣接して水泥古墳を構成しています。 実はこの古墳、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子の墓と云われているもので、水泥南古墳が蘇我入鹿の墓ということで、 久しぶりに興奮致しました。 その前に双墓についての日本書紀の記録は以下となっています。 

 皇極元年(642年というから乙巳の変の3年前) 蘇我蝦夷は、蘇我宗本家の象徴として、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞を奉納します。 つまり蘇我氏はいまや王家に相応するということを誇示するための奉納であったと思われます。 さらに全国から大勢の人夫を徴発、「今木」の地に自分と息子・入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼ばせたのです。 この造成に上宮の乳部の民(上宮の乳部の民とは亡き厩戸皇子の養育のために設けられた部民) を使ったことが発端となって、上宮王家の春米女王(厩戸皇子の娘)は 「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」 と非難した。 これに激怒した入鹿は後に山背大兄王一族を襲撃して、上宮家を滅ぼします。 そして、乙巳の変が勃発します。 皇極4年(645年)6月12日、板蓋宮で入鹿を殺した中大兄皇子たちは、諸皇族、諸臣を従え飛鳥寺にはいって備えを固め、入鹿の死骸を甘橿丘邸宅の蝦夷のもとに届けさせます。 邸宅の各門の警備にあたっていた渡来系の一族、東漢直駒らは一戦を交えようと軍装を整えるが、皇子側の説得工作により抵抗を断念し、翌13日、蝦夷は編纂中の天皇記、国記などの重要書類や財宝に火を放って死に、蘇我本宗家はあっけなく滅亡してしまいます。 その日のうちに、蝦夷、入鹿の遺骸は墓に葬られたといいます。 このときに葬られたのが双墓というわけです。

 享保17年(1734)に書かれた大和志という書物には 「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」 とあり、現在の御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから云われていたようです。 この水泥南古墳は直径約14m、高さ約5mの円墳で、全長15mほどの横穴式石室をもつ。 石室内の玄室(長さ4.6m 幅2.4m 高さ2.6m)に一つ、羨道に一つと、二つの石棺が納められていて、床面には礫が敷かれている。 礫床の下には排水溝が造られ、羨道部を通って石室外に出る。 発掘調査の結果、さらに南方向に伸びた後、東に曲がって谷の方向に続くことが判っている。  玄室に置かれた石棺は二上山の凝灰岩、羨道の石棺は加古川流域でとられた凝灰岩であるとのこと。 また、追葬されたと見られる羨道部の石棺は、蓋の縄掛け突起正面に直径30cm程の6弁の蓮華文が津き彫りにされている。 この石棺と蓮華文の取り合わせは、古墳文化と仏教文化の結合の例として著名である。 なお、石室は古い時期に盗掘にあっていて、古墳の主だった人物を推定する手掛かりとなるような遺物は、何一つ残されていなかったという。 (奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥時代の古墳」より抜粋)

 

葛上郡今木双墓・水泥北古墳

 狭い県道沿いにある水泥南古墳はすぐに見つかったのですが、隣にあるはずの水泥北古墳が見当たらない。 たまたま県道沿いで畑仕事をしていた地元の人に水泥北古墳のことを尋ねてみると、すぐに教えていただきました。 驚いたことに、その古墳は民家の裏庭にあるという。 丁度そのお宅の玄関が開いていたので聞いてみると、たしかに水泥北古墳は裏庭にありました。 快く古墳を案内して頂き、古墳の説明だけではなく、出土品の説明までしていただき、蘇我入鹿の墓以上の興奮しきりでございました。 水泥北古墳は双墓のひとつであり、詳細については水泥南古墳のところで済みましたので省略するとして、 ここ水泥北古墳は蘇我蝦夷の墓と云われている古墳で、直径20mの円墳には両袖式の横穴式石室を有します。 蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する規模には驚きをかくせません。

石室・羨道の入り口 と 高さ3.3mにも及ぶ玄室を持つ水泥北古墳

 



 石室の全長は13.4m、玄室の長さ5.6m、幅2.9m、高さ3.3mの大規模なもので、水泥南古墳よりも一回り大きな石室は二上山から運ばれたと思われる巨大な花崗岩を利用して構築されている。 6世紀中葉の構造とされ、現在石棺は存在しないが、凝灰岩の破片が出土しており、元々は石棺が安置されていた。 水泥南古墳と同様に盗掘にあっていて装飾品などの出土はなかったが、円筒状の排水管が出土していて、ここのお宅のリビングに保管されていた。 円筒状の排水管は、飛鳥寺から出土した瓦と同じ焼きで、連結のための結合部もあり石室の排水に使われた非常に珍しいものである。

 

奈良・古瀬にある宮山古墳

 今回奈良県の古瀬をめぐって最後に訪れた古墳が宮山古墳といって室大墓とも呼ばれている巨大な前方後円墳です。 全長238m、後円部径105m、後円部高25m、前方部幅110m、前方部高22m 前方部が南西に向いており、築造は古墳時代・中期(5世紀前半)で、古瀬地方に数多くある古墳の中ではかなり年代は古くなりますので、豪族・巨勢氏のものではありません。 当時の天皇陵墓にも匹敵する全国で第18位の大きさを誇り、葛城襲津彦の墓とも武内宿禰の墓とも云われています。 というもの、武内宿禰は蘇我氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、紀氏、波多氏、江沼氏の祖先で、古墳の築造時期と一致し、また葛城襲津彦が活躍し た時期と重なるためにそう云われているのである。 

 葛城襲津彦は第16代 仁徳天皇の皇后となった磐之媛の父にあたる人物で、 神功皇后5年の頃、朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげています。  「日本書紀」によれば、葛城襲津彦は新羅から来ていた人質を送っていき、途中でその人質に逃ら れ、そこで新羅に入って戦い、捕虜を連れて帰還すると、これらの捕虜を葛城の桑原・佐味・高宮・忍海辺 りに住まわせたという。 その付近は巨勢山古墳群と呼ばれており、 700基以上に及ぶ全国屈指の群集墳地域です。 ところで、この宮山古墳の頭頂部へいくと、「王の柩」とされる長持形石棺を竪穴式石室に安置されたままの状態で見ることができる貴重な古墳となっているということを後で知り、石室を見ずに帰ってしまったことが残念です。 時間の都合でこの時は古墳をじっくりめぐることができませんでしたので、また改めて巨勢古墳群を探索してみたいと考えています。   「孝安天皇陵」「日本武尊白鳥陵」 は以前に訪れていますので、極めて珍しい石棺、巨大な石室があるという「條ウル神古墳」などは是非、というところです。

  

 

奈良与楽の乾城古墳

 乾城古墳は与楽カンジョ古墳とも呼ばれていて、36mの方墳である。 埋葬施設として、両袖式の横穴式石室をもち、石室の天井が極めて高く、その高さは石舞台古墳を上回る5.27mは奈良県内一である。 石室からは渡来人系の古墳で多く見られる炊飯具の一部をはじめ、銀製指輪などが出土していて、その特徴から、6世紀末から7世紀前半頃の渡来系の有力氏族(東漢氏)の首長の墓とみられている。 東漢氏は檜隈寺を中心に活躍した渡来系の技術者集団であるが、蘇我氏本宗家の蝦夷・入鹿の死によって没落の道をたどる。 この与楽地方も支配権を及ぼしており、約70基の古墳がある。

 蘇我氏も藤原氏も権力の多くを東漢氏の陰謀と裏切りで左右されてきた。 東漢氏の力で崇峻帝を暗殺し推古朝を実現し、豊浦や飛鳥への遷都を行った。 そして最後には蘇我氏は滅亡する。 恐らくこれら日本書紀に記された事柄以外にも東漢氏の関わりは数多くあったと考えられる。 壬申の乱での勝利も東漢氏の寝返りで成ったのであるが、天武天皇は東漢直らに異例の詔を出すのである。 つまり東漢氏の罪を指摘しながらも罰っせず、警告だけにとどめている。 この頃、つまり天武の頃には東漢氏の役割は少なくなってきたと思われる。 百済と高句麗の滅亡によって多くの遺民が日本へ亡命し、中国との交流によって海外の書物を読み、国際的な状況に通じる人が増えたはずであり、もはや東漢氏のみが文化や技術を独占する時代ではなくなっていた。 天武10年には国史編纂の命がくだるが、帰化人としてはただ一人難波連大形が登場する。 しかし彼は東漢氏ではない。 そして同年、帰化人系の人間十数人に連の姓を賜うが、この中で東漢氏と思われるのはわずかに倭漢直竜麻呂ら二、三人であり、天武11年に倭漢直らに姓を賜いて連としたのも束の間、天武12年には首、直、造を名乗る氏族に連姓を与えたから、東漢氏が特別扱いされたのは短い期間であった。 天武13年には「八色の姓」が定められ、守山公など13氏に真人、大三輪君など52氏に朝臣、大倭連など11氏に忌寸姓が与えられ、東漢氏の特権は完全になくなった。   

 

 奈良明日香村にある飛鳥歴史公園内の壁画修理作業室 で高松塚古墳とキトラ古墳の極彩色壁画の公開が行われたのは約1年前の5月である。 公開施設内では高松塚古墳の玄武、青龍、女子群像の修復作業が行われていた。 見学の目的は綺麗にクリーニングされた壁画の一般公開で、あれから表面の漆喰はかなりきれいになったようであるが、1日の作業量は1-2平方センチ程度だとうか。すべてを綺麗にするには気が遠くなる作業である。 

2012/3/21読売記事より

 

 

処女塚古墳の万葉歌碑

 

 田辺史福麻呂は奈良時代の万葉歌人で、西文氏のもとで文筆・記録の職掌についた百済系渡来氏族である。 「古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ」  この歌は、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時に受けた悲恋物語の感動を歌ったものである。 当時の代表的歌人である田辺福麻呂は、748年橘諸兄の依頼で越国の大伴家持の許を訪ねて宴で「古き歌」を披露し合うというような立場の人物であった。  740年の恭仁京遷都後の「久迩新京を讃ふる歌」、 744年難波に都が遷された後の「難波宮にして作る歌」、 越中守として赴任していた大伴家持のもとを訪れた時の饗宴で「元正上皇の難波宮に御在しし時の七首」などを伝誦する。

 

 神戸市東灘区にある処女塚古墳は古墳 時代前期の前方後方墳で、1993年には三角縁神獣鏡が7面出土し話題になった。 処女塚を中心に東西それぞれに求女塚があり、処女塚 の方向を向いている。  2人の男性に慕われた女性が苦しんだ挙句に自殺したため2人の男性も後を追ったという悲恋物語が古く万葉の時代から伝説として残っていて、女性の墓を中に男性の墓を両側に造 ってとむらったというものである。 この女性の墓がここ処女塚古墳である。 この伝説は奈良時代の万葉集に登場する歌人・田辺福麻呂が 歌に詠んでおり、 後の時代にも謡曲、戯曲として取り上げられている。